第3話

「ごめんね。できちゃったみたいなの」

 ケンジがつや子から妊娠を打ち明けられたのはそんな頃だった。

 背筋を冷たいものが走った。つや子の部屋で、くしゃくしゃのシーツにくるまりながら、

「でもいいの! あなたに迷惑はかけない。私産みたいの。それだけ許して。私が1人で育てていく。絶対邪魔はしないから……」

 そう言われても……ケンジの額に汗が滲む。


つや子と別れて家に向かう途中も、そのことは頭から離れない。おろさせるか。いや、つや子は絶対おろさないだろう。しかしそこは早く話をつけないと、時期を逸しておろせなくなってしまう。そもそも今何ヶ月なんだ?それも聞くの忘れた。ああ、まいったなあ、もう、俺としたことが!

 自宅のマンションに戻ったのが夜10時。普段なら、これから2時間くらいは税理士試験の勉強をするところだが、とても手につかない。

 あの、これといって目立つもののない、自分を尊重してくれるだけがとりえの、優しいだけの女と結婚する気はない。

 俺がもしつや子と一緒になったら、事務所の所長の後を継ぐ話もパーになるだろう。失敗したな、もう。

 ケンジは混乱して考えがまとまらなくなってしまった。ただ、何てこった,と悔やむばかりなのだ。


 やっぱりおろさせて別れるしかないだろう。彼女の優しさが何だかあたたかくて、ついついズルズルと関係を続けてきた自分がバカだった。確かに所長の娘にはああいう優しい、しおらしいところはない。そういう意味ではかなりの美人というだけで,今までのほかの女と何ら変わったとりえもない。いや、むしろわがままなお嬢さんだ。だけどでかい事務所がある。約束された将来がある。こんなことでそれを諦めるわけにはいかない。

 よし、ここは徹底的に鬼になって、何としてもつや子におろさせよう。明日は金曜日だから所長の娘とデートがあるが、何とかうまくごまかして、つや子と会おう。そしてつや子を説得しよう。

 ケンジは眠られぬ一夜を過ごした。翌日、仕事が終わるころ,体調が悪いと偽って所長の娘との約束を反故にし、一目散につや子の勤めるドラッグストアに向かった。

「今からそっちに行く。きょうは仕事早退してくれ」

 ラインでつや子にそう打つと、ケンジは返事を待った。きょうはつや子は遅番で、仕事は夜の9時までなのだ。今は7時過ぎ。9時までは待てない。

 ラインの返事を受け取るより早く、ケンジはドラッグストアの入口から店内に入っていた。と、その時くらくらめまいがして、空間が歪んだ。何かが、変わった。

 一瞬にして、10年の時が過ぎ去った。

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