第6話 異世界では?2077年の「高校日本史」で確かめる歴史

私、北本英利――現在の高階新生が生きる西暦2077年のこの世界が自分の知る日本と全く違うように思えて仕方がない。

街の雰囲気や人々の振る舞い、そして「大日本帝国」という名称――これらすべてが私の知る令和の日本とかけ離れているように感じた。


「……もしかして、ここは異世界というやつではないのか?」


そんな疑問を抱き、私はウェアラブル端末を起動した。

学校で使う教科書が端末に収録されていることは、高階新生としての記憶で知っている。

そこで、日本史の教科書を開いてみることにした。


表示された教科書を読み進めると、序盤の記述は私が知る日本史と一致している。


「日本人の祖先は縄文人……弥生時代に稲作が広まる……」


この辺りは令和の日本史教科書で学んだ内容とほぼ同じだ。

さらに、飛鳥時代、奈良時代、平安時代と進むにつれて、文化や貴族政治が栄えたことが記されている。


「源平合戦で平家が滅亡……鎌倉時代、室町時代、戦国時代が到来し、織田信長や豊臣秀吉が台頭……」


ここまでも、私が知る歴史と変わらない。

江戸時代が260年続き、幕藩体制のもとで平和が保たれたことも記されている。


しかし、明治維新以降の記述に目を通すと、いくつかの違和感を覚えた。

確かに廃藩置県や西南戦争、日清日露戦争、大正デモクラシー、関東大震災などは起きているが、長いし、やたらと詳しいのだ。

特に目を引いたのは「大東亜戦争」と表記されたアメリカやイギリスとの戦争の項目だった。

あれはたしか「太平洋戦争」と呼んだのではないのか?

そしてその締めくくりとしての1945年8月15日について、次のように書かれていた。


「……1945年8月15日、この日は我が国にとってこれまでの歴史上未曽有の国辱の日となった。大東亜共栄圏という理想を掲げ、多くの国々を解放し、白人支配に抗い続けた我が国が物量に勝る連合国軍の前に屈した日である。この敗戦は決して我が国の力不足によるものではなく、圧倒的な不利な状況下での決断に過ぎなかった。しかし、ここで国が屈服したことで、日本人の誇りは失われ、占領軍の圧政により、国民の自由と独立が奪われる屈辱的な時代が訪れた。この屈辱を我々は決して忘れてはならず、このような国辱を味わうことのないよう、我が国の力を常に高め続ける必要がある……」


この文章を読み終えた瞬間、私は何とも言えない気持ちになった。


「……ここまで国辱を強調するのか……」


私が学校時代を過ごした平成はもちろん令和の教科書でも敗戦については「戦争の終結」として語られ、戦争の悲惨さや平和の大切さを強調していた。

それに対して、この未来の教科書は敗戦を屈辱とし、それを忘れるべきではないとまで記している。


これが時代の日本人の価値観に影響を与えているのだろう。

街に漂う緊張感や人々の表情の険しさも、こうした歴史教育の延長線上にあるのかもしれない。


だが、ふと疑問が頭をよぎった。


「……戦後に経済が復活して、ずっと平和主義を掲げていたのに、なんでまた『大日本帝国』になったんだ?」


私の知る2024年から2077年までの間に戦後の価値観が一変する何かが起きたに違いない。

それはこの教科書の続きを読めばわかるだろう。

私は震える指で教科書の次の項目を検索した。


「戦後と21世紀からの日本……ここには何が書いてある?」


胸が高鳴り、不安と期待が交錯する中、私は次のページが表示されるのを待った――。

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