第21話

 見紛いようが無かった。過澄がそこにいた。

「ひ、ひさしぶり」

 数年ぶりに見た過澄の表情はまるで別人のように思えた。髪はばっさりと切られており、ショートほどの長さに収まっている。やけに様になっているから、これもつい最近この長さに切ったというわけではなく、この長さが普通なのだろう。

「うん、ひさしぶり」

 辛うじて絞り出した声は上ずっていて、過澄に緊張だけではない様々な感情が暴かれてしまいそうに思えた。

 頭をよぎるのは、屋上での日々のこと。一体、どのように話しかければいいのかわからなかった。もう僕らは連累関係を結んでいるわけではない。すり合わせなく、一方的に、感情的に終わりを告げたのだ。終わりの兆候を残しながら、最後は爆発させた。無意味な情をかけ、散ったのだ。友達ですらない僕らは一体どのように話せばいいのだろうか。

「……いいところだね」

 おもむろに言葉を見つけた。世間話だった。失恋後のカップルのような気持ちになった。こんなに気まずい気持ちになってしまうのかと、体験したこともないし、未来永劫関わらないだろうことに思いを馳せた。

「うん。田舎のほうが住みやすいかなって。空気も澄んでるし……さ」

 気まずさが空間を支配した。住んだ空気をじっとりと気まずさが染みていく。乾燥した風が吹いて、部屋の中に居た過澄が一瞬目を閉じた。

「上がって」

 気まずそうに笑いながら言って、僕は部屋の中に入る。遠慮するというのもここでは不自然に思えた。

 室内はいかにも一昔前の家といった風で、玄関は三和土たたきらしい。長い間使われているのか表面はでこぼことしている。そこにはサンダルとスニーカーが放置されている。どちらも色が落ちている。何年も履いているのだろうか。

 少し低い段差があって、それを上ると三つ扉があった。どれも畳が見えるから和室につながっているのだろう。足のすれる音をたてながら、過澄は中心の扉をくぐった。僕も同じように扉をくぐる。藺草の香りがはっきりとした。右手には仏間があって、左手にはリビングに続く扉があった。

「こっち」

 過澄はついてくることを確認するように声をかけてリビングへ誘導する。リビングといっても昭和らしさの残るもので、磨りガラスや花柄のタイルなどが少し眩しい。

 過澄は部屋の真ん中に設置された小さなテーブルに座る。元々四人が座れるようになっていたこぢんまりとしたスペースには椅子が向かい合わせに二つ置かれているだけだった。

「なにも出ないけど、ごめんね」

 過澄は気まずそうに笑っていた。目の前に居る人は多分過澄に似た何かなのだろうと思った。それくらい僕の知っている過澄と目の前にいる過澄は別人に想えた。現に、僕の中では過澄は一度死んでいるから別人といった認識でも僕のなかでは違いないのだけれど。

「いや、気にしなくて良いよ。急に押しかけた僕が悪かったんだから」

 その認識があったからこそリラックスして彼女と会話することができた。それが良いことなのか悪いことなのかわからないけれど、きっと良いことだと思う。

 静謐な空間がやってくる。遠くから烏の声が聞こえた。音はそれくらいしかなくて、大抵は僕の心音にかき消されてしまっているような気さえした。実際、それほど心音は大きく、早かった。

 高校生の頃なら冗談やノリで済まされていた自虐も、もうその効力は失せているようでただの気まずい時間だけが流れている。二人意味なく机の木目と向かい合って顔を上げない。この自分たちの作り出した空気感に潰されている。

「成人式には行ったの?」

 過澄が聞いてきた。少し上ずった、震えのある、緊張の伝わってくる声だった。

「うん、一応」

 予防線のように一応と付けた自分に少し嫌気がさした。行ったかもしれないが、ほとんど何も覚えていないし、意味が無いと思っていたから僕の完璧でない人生の中での重要さはたいして無かった。実質行っていないも同然だ。

「そっか、良かったね」

 少し素っ気なく、そしてわずかに棘の残った声だった。けれど彼女は笑みを崩さず、ただ僕を見ていた。彼女の防衛本能のような何かなのだろう。

「楽しかった? 人に会えて。昔の人とか会えたんじゃない? 小中高の人たちとかさ」

 ねっとりとした声だ。僕も耳朶をじっとりと舐めて舐めて舐めて、刺激してくるみたいな声。

 僕は、こんなことをしに来たんじゃなかった。世間話は僕らに必要は無い。ただ気まずくなるだけだろうから。僕らに必要なのは、きっとそう。

「過澄」

 いつの日かのように声が響いた。何度もあった日。一度じゃない。何回もあった、何回もそう言った、何回も、何回も口に出した、あのときみたいで、もう、数えられないくらいにその声は響いた。なにも僕だけは変わっていなかった。あの日のような青さを、あの日の高潔さを、あの日の完璧をまだ持っていたような気がする。多分、不完全なことこそが完璧だった。そうとさえ思えてしまう。僕は完璧だ。僕は間違ってない。僕は、僕は、君を。

「なに?」

 過澄がなんてこと無いように聞いてきた。その声はやけに大人びていた。もう、彼女はあの日に戻れない。僕も戻れない。けれど、彼女は自ら捨てた。あの日の高潔さを完璧さを素晴らしさを。

 だから、僕が正さなきゃいけない。

「もう一度、始めよう。今日、あの日僕らがやり残した事が今の僕らなら出来る。今じゃなきゃいけない。高校生の時とは違って、今の僕らには時間やお金や、とにかくあのとき手に入れられなかったものがある」

 きっと今、この瞬間を逃したら、僕らはもう一生惨めなままだ。間違ったままだ。

 今、あの日やり残した事をやらなければいけない。その理想の置き場すらわからないけれど、理想をぶつける方法さえわからないけれど、僕らにはそれが必要だ。

 僕らの人生は、あのときが一番輝いていたじゃないか。あの輝きを失ってはいけない。

 僕の人生はきっとあの屋上の時間だけなんだ。あの屋上が全てなんだ。

「僕らしか……出来ないんだよ。みんな、変わってしまったけれど、今しか出来ないんだよ」

 過澄は何も言わない。ただ、笑っている。それがやけにむかついた。体の体温が上がったのがわかった。産毛が逆立ったような気がした。それに比例するように、喉から声が漏れた。

「過澄も、僕も、宮枡さんも、あの日から、お前が飛び降りた日から間違ってたんだよ。この、数年間。僕らは無意味に時間を浪費した。この時間を意味のあるものにするためには今、行動するしかないんだよ、過澄」

 口から熱い息が漏れた。冬だというのにわずかに汗が出た。乾燥しているはずの空気が湿っぽく観じた。とても嫌な空気だった。

 過澄は笑ったままだった。ただ、それが気まずいというわけではないように思えた。その笑みが剥がれたとき、きっと恍惚なものが見えると思えた。あの日のように、光と闇の混じった瞳で僕を見てくれるんじゃないかと思った。そう思いたかった。

 そうであってほしかった。

「ねえ、春音」

 とても懐かしい呼び方だった。出会った頃を思い出した。

「私、何も間違ってないよ」

 一体、何を言っているのかわからなかった。

「間違って……なかった?」

 僕は復唱した。

「うん。あの日飛び降りたこと、何も後悔してないよ。あの日だけは間違ってなかったよ」

 おかしいじゃないか。君が……。

 僕の頭は忙しなく動いた。動いて、動いて、熱を持った。正常な判断はずっと前から出来なくなっていた。

「お前が言ったんだろ。間違っていた自分を救ってって……お前が言ったことを今、僕は実行しているんじゃないか」

「違うよ、春音」

 悲痛そうな顔をして、過澄は声を絞り出していた。顔は歪にゆがんでいる。いや、痙攣していた。唇の端が細かく震えている。まるでピエロのようだった。道化だ。

「全部が全部間違っていたなんて、言ってない」

 その声はやけにしっかりとした、芯の通った発音された凜とした声だった。感情が込められすぎた声は感情というものがかき消えてしまうのかもしれない。

「何を……」

「私は間違いだらけだよ。小学生のころ、同級生をひっぱたいたことも、中学や高校でその尻ぬぐいをもしなかったことも。色々こじらせたことも。でもさ、全部が全部間違っていたなんて言ってないんだよ」

 なんだよ、それ。お前が全部始めたんだろうが。

 過澄を見る。彼女は僕を睨めつけているように感じた。責めているように感じた。どうして。違う。違う。僕はこんな感情を向けられるべきではない。お前は、気がついていないだけだ。自分の過ちに。

「お前は気がついていないだけなんだよっ。何が間違っていなかった? お前の人生間違いだらけじゃねえかよ。どこもかしこも間違いだらけだ。正解なんて一回も導き出せていない。じゃなかったらお前は今ここで惨めな生活してねえだろ。人とろくに関わらねえ生活してねえだろ。間違ってなかったら、あのときお前は孤立もしなかった。僕と関わる事さえ無かった。そうしたら……僕もこんな人生にならなかった。無駄も完璧? 馬鹿らしい。受け入れただけだよ。お前が僕を自分が一人にならないだけの道具として扱わなかったら、高校生活の青春とかいうものの一部として俺を扱わなかったら、僕は完璧でいられた。過去に囚われないでいられた」

 違う。

僕は、何を言っているんだ。

僕は、彼女を否定したかったわけじゃないだろう? ただ、戻りたかったんだ。もう、戻れないけれど、戻ってももう意味はないけれど、ただ、純粋な感情を持っていたはずだった。僕は僕を、ちゃんと見直したかったんじゃなかったのか?

 けれど、口は止まらなかった。なぜかはわからない。ただ、背中が蹴飛ばされたような感覚がした。ただ、その感触がはっきりと伝わったことが確かだった。それでわかった。僕は、今の自分を否定したかったのかもしれないと。だからその元凶である彼女を傷つけたかったのだと。それがわかったから、選ぶ言葉は決まっていた。

「全部、お前が悪かった。お前が、お前が泣いていなかったら、お前が階段で話しかけなかったら、どれほど僕は幸せだったか」

 言いたいことはまだあったような気がした。もっと出たはずだった。ただ、それらはうまく言葉にならず脳内で浮遊している。泣きそうだった。意味は無く、泣いてしまいそうだった。

 彼女は目の前で目を見開いていた。やっと自分の過ちに気がついてくれたのだと思った。安心した。同時に、僕は間違っていなかったのだと思った。そのまま、そのまま、君は落ちれば良い。どこまでも落ちれば良い。僕よりも下へ、落ちていけ。お前に普通は似合わない。お前には何も似合わない。僕は心の中で彼女を呪った。

 ただ、今までの生活の中で、僕の思い通りになった事なんて一度たりとも無かった事を僕は思い出しておくべきだった。

「ふざけないでよ」

 なぜ、そこで彼女の口から否定の言葉が出てきたのかわからなかった。お前が間違っていたのに、どうして。

「私の人生を勝手に決められてたまるか」

 彼女は敵意の籠もった視線を僕に向けていた。どうしてか、逆上していた。

「は?」

 理解が、出来なかった。お前のせいだったのに。全部。

「なにがお前の人生全部間違ってた? 君が、きみがあのとき決めたじゃん。それを勝手に私のせいにしないでよ。勝手に、全部責任を押しつけないでよ」

 頬の筋肉が引きつった。喉が震えた。もう、止まれなかった。

「お前が連累関係を始めたんだろうが」

「それは、そうだけど」

 過澄が気まずそうに目をそらした。それが隙のように思えた。

「お前が連累関係を始めた。お前があの空間を作り出した。お前が、あの日飛び降りた。なあ、わかってんだろ。全部お前のせいなんだよ」

 そうだ、お前のせいだ。けれど、なあ、あのとき少しでも楽しく思えたのは間違いじゃなかったはずじゃないか。どうして僕はそれを、自分で否定している?

 もう、自分でも訳がわからなかった。

 僕は過澄と出会って人生が狂ったのは確かだった。彼女と出会って、完璧ではなくなったから。けれど、あの屋上の時間が美しく今も輝いているのは間違いではないはずだ。なら、なんで今の僕はこうして否定しているのだろうか。おかしい。何もかもがおかしい。僕は一体何をしたいのだろう。なにを取り戻したいのだろう。なにを、知りたいんだろう。なにを見つめ直したかったのだろう。

「嫌だったら言えばよかったじゃん……」

 甘えた声だった。そんなにも今の僕は惨めなのかと、傷ついた。

「お前も何も言わずに飛び降りたじゃないか」

 勝手にお前は死んだ。今話しているのは幽霊だ。過去の、遺物だ。そう思いたかった。傷つけているのは過去で、今ではない。そう思って、自分のこれからにはなにも影響がないと思いたかった。そうであれと思った。これらは全部僕の記憶の中で行われたことであってほしかった。

「それは、君があのとき私を見捨てたからだよ。君が、私との約束を、ちゃんと果たしてくれなかったからだよ。私からしたら君のほうが間違ってる」

 こいつとはわかり合えないのだと、今更気がついた。やっと気がつけた。

「あのときの君は、完璧だった。苦しんでた。君はずっと苦しんでいたように見えた。そして、君と関わった。勝手に思い込んで、君を巻き込んだ。それは謝罪する。けど、私はなにも間違っていなかった。特に君に関しては。だって、君は、私が声をかけたあの日から、少しずつ透明になっていった。普遍的に変わっていった。私を置いて、一般群衆に成り下がろうとしていた。私を救うという大義名分を振りかざし、私より先に、いや、君だけはそうならないと思っていた。思いたかった。君は特別でいる。君は特別になるべく努力していた。けど、君は見失った。君は私を使って楽しい学校生活を送ろうとしていた。送っていた。それは許せなかった。だって君は完璧じゃないといけない。青春なんて捨てなきゃ……」

 過澄は息を吸った。もう、彼女は僕を見ていなかった。見ていたのは、僕に似た何かだった。僕も、もう、僕ではなくなっていた。果たして僕らは何を見ていたのだろう。何になろうとしていたのだろう。僕は一般群衆になろうと思っていたのか?

「私たちは、はじめから見ていた物が違っただけなんだよ。私も、君も、直里ちゃんも、みんな、見ていたのは自分の事だけで、だれも私を見ていなかった。だれも君を見ていなかった。だれも直里ちゃんを見ていなかった」

 それは、真理だった。

「間違ってた? なにも間違ってないでしょ? 私たち! みんな自分の事ばかり見てたんだもん。みんな、だれも、だれも見てなかった。間違いさえ見落として、正解さえ見落としてた。みんな、何が正解か間違いかすらわからず、すり合わせせず生きて、選択して、こうなった。それが出来ていたら、私は君を特別で……させることが出来たのかもしれない」

 机が揺れた。僕が机を叩いたからだと気がつくのに、数秒の時間を要した。

「ねえ、春音、私が飛び降りたのはね」

 君が、またこっちに戻ってきてくれると思って飛び降りたんだよ。君を陥れるために、飛んだんだよ。

「言ったでしょ? 私たち。落ちるときは一緒だって。君だけ私を置いて普遍的なんかにならなくてよかったんだよ。学校なんて場所を楽しんじゃいけなかったんだよ。君は完璧にならなくちゃ。無駄なんて愛おしんじゃだめだった。私は、君を特別に、完璧にさせるために、飛んだんだよ」

 血液が熱を持った。筋肉が震えた。視界が黒く染まった。そのとき、僕は僕の全てを、存在さえも切り取られ、奪われたような気がした。

「……いっ」

 軽い音が響いて、過澄の顔が横を向いた。掌が熱を持っていて、やっと自分が彼女をひっぱたいたのだということに気がついた。意識だけが、切り取られていなかった。

 過澄は髪の間から、あの恍惚とした光と闇の綯い交ぜになった視線を向けてきた。

 その表情が見たかったのだと、やけに冷えた考えがよぎった。けれどそれはすぐに熱にとかされてしまったけれど。

「よかった……」

 過澄が呟いた。

「その感覚を、私と一緒にずっと覚えていてね」

 呪いだった。まじないであって呪いだった。

 昔、彼女がひっぱたいたときもこんな感覚だったのだろうか。裏切られたという一言では表わせられない感覚を味わったのだろうか。

「お前と出会わなかったら、僕らは幸せだった」

「違うよ。君は私がいないといけなかった。君は、完璧になりたかったんでしょ? 君は特別になりたかった。きっと、そうでしょ?」

 僕はそれに答えなかった。

 椅子から立ち上がる。もう、感情はなにも沸いてこなかった。ただ、最後に喉が震えた。なにを言ったのか、もう覚えられなかった。数秒前の出来事さえ、もう。

「お前にもう一度会おうなんて思わなければ良かった」

 ただ覚えているのは僕の見たかった笑顔の剥がれた過澄と、全部言いたことは言えたのかよくわからなくなった感情だけだった。

 それが、僕と過澄聖との別れになった。

 彼女は本当に死んだ。僕の過去とともに、死んだ。


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