第16話
二学期が始まり、僕らの作戦が意味のないものへ変わり始めているときだった。屋上を満たしていた執拗なくらいの湿気もいなくなった。いるのは僕と過澄聖、時たま宮枡さん。常にあったのは僕らの後ろ暗いどうしようのない感情だけだった。
その日は三人集まっていた。なにか理由があったわけではなかった。ただなんとなく集まって、意味なく宮枡さんがノートを広げ、僕と過澄聖は視線を泳がせていた。時間の流れはゆっくりで、変化がなかった僕らの現状を急かしているようにも思えたし、ただ皮肉っているようにも感じられた。
初秋の色が窓の外にはあって、後ろ暗いじめじめとした感情だけが踊り場を満たしていた。
「ねえ」
過澄聖がおもむろに声を出した。静かな場所で過澄聖の声はやけにしっかりと響いて、その一言にどんな感情がこもっているのか、少し考えればわかるような気さえしたことを覚えている。
「私たちの関係って意味あるのかな」
宮枡さんがため息をついた。ため息に吹かれた髪の毛がなびいていた。僕はなにも言わなかった。何もしなかった。過澄聖はただそこにいた。
今にして思えば、過澄聖がこのような考えに至ることなんて容易に想像が付くことだった。だって僕らはただ利用し合っていただけだったからだ。得のないのは過澄聖くらいで、特に宮枡さんには自尊心が満たされるメリットがあったし、僕にはメリットと言えるほどのメリットはなかったけれどデメリットと言えるほどのデメリットがなかった。この頃にはもう過澄透明にするなんて目標は意味をなくしていたように思える。それだから彼女を置いて僕と宮枡さんは透明になり始めていたのではないかと思う。
「どうでしょうね」
はぐらかす宮枡さんの声はやけに冷え切っていた。会話的には別れ話をしているカップルみたいだった。雰囲気的にも、なにもかもがそれに似た感覚だった。経験したことは未だ無いけれど。
じっと、時間が過ぎていって、何分かしたときに過澄聖が「ごめん」と、謝った。宮枡さんの圧に負けたようだった。あなたのためにこうやって集まっているのだとでもいうように、宮枡さんはじっとノートを見つめていた。自分勝手だとは思ったけれど、ある意味仕方の無いことなのだろうという諦めに近い感情はあった。
僕らの関係に過澄聖の言うような意味はなかった。誰かのために、なんていう高尚なものは夏休みの熱に溶かされた。溶けた物はもう一度冷やされない限りもう二度と結晶化することはない。僕らはただ、その管理を怠っただけだった。
宮枡さんがため息をついた。そしてバッグにノートを入れて、「お先に失礼します」と帰って行った。いつもの帰宅する時間よりも早かった。
足音が階段を、周囲を満たして、僕と過澄聖だけになった。随分久しぶりに二人になったようにも思えるし、つい最近、つい数分前にも二人だったように思える。そう思えるのは僕と過澄聖の間にまともな会話が発生していなかったからだろう。僕らのする会話というものは、常にその他二人に向けた集団的な声であって、個人間で交わされる細やかで意味のないものではなかった。
過澄聖がいやに大きく息を吸った。肺に穴が空いたみたいな、肺から胸まで大きな穴が空いたかのような、深い呼吸だった。
「最近、楽しそう」
吐き出された言葉は湿っぽかった。寂しさの滲んだ、孤独な声だった。
「だれが?」
「春音が」
自覚はなかった。自覚がなくなっていた。
「楽しそうというか、楽そう」
過澄聖は目を細めた。目の中に溜まった光が、闇が漏れ出ないように行った行為のように思えた。
楽そう、だと彼女は言った。楽しそうではなく楽そうだと。なんだそれ、と思った。けれどその言葉はどうしようもなくその時の僕を表していたことは確かだった。
「楽なのかな? これが」
問いかけに過澄聖は答えず、ただ無音が支配していた。無言の肯定に思えた。
確かに、楽なのかもしれない。だって、自分の中で縛っていたものがなくなったから。はじめは怖かったけれど、揺れていたけれど、歪んでいたけれど、いまはそれほどでもない。慣れてしまった。完璧でない時間に。こうして、外れた時間に慣れてしまった。ほっとしているのは確かだった。
「……かよ」
小さく声が聞こえた。ちらりと、過澄聖を見る。彼女は目を伏せたまま、じっとしていた。何度か小刻みに息を吸って、不規則な腹式呼吸を繰り返していた。声らしくない声が空気に混じっている。落ち着かせるように吐いている息は震えていて、平常の人間が発生させるものでなかった。彼女の瞳に水の膜が張っていないことがおかしなくらいだった。
声をかけることはできなかった。けれど何かを変えたくて、何かを絞りだそうとして、僕は声をかけた。
「過澄」
僕は平静を保って声をかけたはずだった。もしかしたら震えていたかもしれない。自分を客観的に評価することはできなかった。
過澄聖は伏せていた目をこちらに向ける。感情はなかった。
「なに」
彼女のその声は懐疑的ではなく、攻撃的だった。気が立っているという様子ではなかった。どちらかと言えば憎んでいる人間に対して向ける表情に似ていた。それだから僕は何を言おうとしていたのか、一瞬で忘れてしまった。元々なにかを言うつもりなんてなかったのに、それさえ忘れてしまったのだ。
無言のまま止まっている僕を見て、過澄聖は呆れたようにため息をついた。それに対して僕はなにか口答えとかをすることはなく、ただ「ごめん」と意味の無い言葉を呟いただけだった。彼女にそれが届いたのかわからなかったけれど、無言よりましだった。
「こっちこそごめん」
過澄聖が思い出したように言った。言葉に中身はなかった。それで良かったようにも思える。
また静寂が満たした。風の吹く音だけが聞こえた。声は聞こえなかった。
それから二人、特に会話がないまま時間が過ぎた。二人が別々に思考している訳ではない。ただの場所の共有であって、それ以上もそれ以下もなく、僕らの連累関係に至ってもまったく同じことだった。
「春音はさ、この事をどう思う?」
この事、とはどの事だったんだろうか。この関係のことか、僕らの犯した行為についてだろうか。
「……まあ、多分、良い暇つぶしにはなってるとおもうよ」
恥ずかし紛れに言い放った言葉はきっと的確に彼女に届いたと思う。情に流されて始まったけれど、案外良いと思っていることは事実で、僕の完璧と思われていた日常に風穴をあけ変化を与えたのは限りなくこの関係があったからだと思う。そう思いたいだけなのかもしれないけれど、少なくともそう思う。
「そっかぁ……」
やけに間延びさせた声は階段の段差一つ一つを綺麗に丁寧に落ちていっているように思えた。過澄聖は口を閉じて、そっと、僕の方を見た。今思えばそれは彼女なりの決別の証のようにも思えたし、そこまで意味のある物ではないようにも思えた。所詮、その程度だった。
強いて言うのなら、認識の違いのようなものなのだろうか。僕と過澄聖と宮枡さんの認識の差。僕らの目的の差。見据える終着点。
「私ね、間違ってたんだと思うんだ」
もう秋だね、なんて季節を共有するみたいな軽い口調だった。現に彼女にとってはその程度のものなのだろう。決めきったことは第三者には報告するしかなく、それに認識の共有だとか他人を慮るものはなく、いつだって自分勝手だ。自分が救われるために他人を落とす。人間はそうやって生きていく。過澄聖もその類いだった。
「春音に話しかけた事とか、直里ちゃんと出会ったこと、二人と関係を結んだこと。人と関わることを諦めたこと。自分を貫いたこと。――間違ってばっかりだった。多分、これからもそうなんだと思う。」
過澄聖は呟くように言った。ほとんど囁きにも近い言葉だった。視線を向けるだけでもその言葉は消えて、溶けてしまいそうに思えた。それほど、淡い声だった。
「過澄……」
僕がなにか意味の無い言葉を続けようとして、口を開いたけれどそれはすぐにかき消えた。言ったところで意味は無いだろうと思ったから。もう一つは過澄聖が声を被せたからだった。だから多分、僕が何を言ったところで意味は無かったんだろうと思う。手を差し伸べるのがあまりにも遅かった。
「春音、憎いよ。春音が、みんなが、学校が、世界が、なにもかも全部、憎い。殺したい。めちゃくちゃにしたいんだ。あの日、あいつを殴った事を未だにはっきり覚えてる。それと同じなんだよ」
儚むようにそう呟いて、一度大きく息を吸う。
「みんな、みんな、幸せそうになりやがって、透明になっていって、私を見捨てる。ねえ、春音だって、そうでしょう? みんなみんな、透明になっていく。私を置いて。――こんなこと思う私は間違ってるんでしょ? ねえ、春音、私間違ってるのかな。もし本当に間違ってるんだったらさ……いつか、間違いだらけの私を救ってね」
一方的な感情の衝突だった。そこに僕の感情は少したりとも存在しておらず、存在するとしてもそれは僕が彼女の話に合わせているだけで、厳密には僕の意思なんてものは入っていない。惨めだ。この世で一番惨めだった。
その日、珍しく過澄聖のほうが先に帰った。僕は下校時間ギリギリまで、屋上に続く扉の窓から見える夕焼けを見ていた。やけに赤かった。
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