第15話

 僕らがどれだけ行動しようととくに教室での空気は変わらず。過澄聖は存在しないかのような扱いを受けていた。ある意味それは透明とも言えるのだろうけれど、それは透明かのような扱いであって。彼女の求めている透明とは似て非なるものなのだろう。彼女の求めている透明というものはあって当たり前でなくて当たり前なものであって、無意識の内にすり込まれているもの、いわば潜在意識のようなものになりたがっている。意識的にいないということが当たり前になり、過澄聖という人間が常に誰かの頭の中にいるという状況は彼女の中ではあまり好ましくない状況なのだ。

 一番効果的な方法は彼女が教室に行く事が恒常化すればいいのだが、それを言った瞬間、当の本人から「本気で言ってる?」と視線で訴えてきたので、それはすぐさま却下された。そりゃそうだ、悪い噂が徘徊している場所なんかに行きたくはないだろう。それこそ本当に人を殴ってしまうかもしれない。噂が本当になる可能性が高まってしまう。

「人なんて殴ったことないのに……」

 いつものように壁際に座り込んで過澄聖が呟いた。明確な日付は覚えていないけれど、あとすこしで一学期も終わる、一つの節目が目の前にやってきていた時期だったことを覚えている。

 僕が聞いた過澄聖の噂を本人に、何の気なしに伝えてしまった。話の流れはあまり覚えていない。意味なく、話題を探して選定する暇無く、口からこぼれ落ちたみたいな感覚だった。体感的には聞いた彼女も僕と同じように口からこぼれ落ちたみたいに呟いて、あまり傷ついていないように見えた。そう思いたかっただけなのかもしれない。

 思わず、恋人を奪ったことはあるのかと聞きたくなったけれど、それを聞くのは自分の性格の悪さがこの上なく露呈してしまいそうで、そっと口を閉じる。宮枡さんは特になにも言う気がないのかノートをじっと見つめている。紙面上に灰色で書かれている直筆の文字を見つめながらずっと考え事をしているようだった。

「ねえ、ふたりとも」

 宮枡さんが声を漏らした。いつものような硬い印象が限りなく削ぎ落とされた声色だった。

「一度、過澄ちゃんのクラスを壊してみない……ですか」

 後付されたような敬語に僕も過澄聖も少しだけ笑って、二人目を合わせる。じっとりと艶めかしく視線が交わされ、彼女の瞳に光が沈殿したのがわかった。思考はあまり機能せず、なんとなく感じられる夏らしさがより肌を伝った。

 クラスを壊す。僕の、過澄聖のクラスを壊す。学校という世間の中に存在しているクラスという名の社会を壊す。

 そんなこと、できるだろうか。

「……壊したら、私たちは救われるのかな?」

 過澄聖が確認するみたいに言った。けれどそれは確認、というのは彼女の中で決まり切っている物事を報告しているみたいなニュアンスで、はじめから僕らの意見は必要としていないようだった。救われるかどうかなんて、宮枡さんにも、もちろん僕にも、過澄聖にだってわからない。

 僕と宮枡さんが黙って彼女を見つめる。

 壊したら、少なくとも過澄聖は救われる。けれどそれによって過澄聖が友達を作れるわけではない。彼女が一人であることは変わりないから、宮枡さんは救われないだろう。僕に至っては救われる救われない以前の問題だ。救いさえ必要なのかさえわかっていない。信条がない人間というものはそういう、自分を客観視することが出来ないから終わっている。過澄聖のように周囲から見てわかる必要な救いとは反対に、僕はなまじ普通の人間として、らしく生きているからか周囲からみて救いが必要なのかさえわかってもらえない。自分自身の選択の過ちが影響しているのだろうけれど、それはあまりにも悲しいことだと思う。自業自得と言われればそれまでだが。

「救われますよ。その権利がありますから」

 宮枡さんの根拠のない言葉がやけにしんと響いた。凪いだ心音に染み込むように、桜が散るときに感じるわずかな悲しみのようなそれはすっと心の何処かに入り込んだ。

 静かに満たされた空間の中で、過澄聖は居心地が悪そうにもぞもぞと動いた。彼女の動きと同時に布擦れの気配がする。それが彼女の形ばかりの悲鳴のように聞こえて、心臓が締め付けられるような苦しさを感じた。


 ブロークン・ウィンドウ理論。別名、割れ窓理論。建物の窓が壊れているのを放置すると、誰も注意を払っていないという象徴になり、やがて他の窓もまもなく全て壊される、という言葉からその名前がつけられた。僕らはこの理論を使い、クラスを壊そうとした。思春期という自身が曖昧な期間ならば簡単に環境に左右され、崩れ去るのではないかと考えたからだ。もちろん、窓を壊すわけじゃない。はじめは教室内にポイ捨てをするとか、そういう小さなことから。その不潔な環境が恒常化することによって、精神にもなにかしらの影響を与えうるのではないか、それに伴い、過澄聖が存在しないということさえ消え去ってくれないか、彼女が透明になり、存在しているのかしていないのかすらわからない状況にならないか、と僕らは考えた。

 僕らの最終目標は、簡潔に言えば彼女の置かれている状況まで周囲を落とすことだった。上げるのが難しいのなら、場所を同じところまで下げればいい。

「社会性も欠片もないね」

 階段の段差に座り込んで、過澄聖がつぶやいた。今学期が終わるまであと四日のことだった。

 テスト採点のためにあった休日も終わり、クラスの雰囲気は緩やかだった。なにか、変化が起これば一瞬で崩れてしまいそうな朧げな匂いがあった。僕らはこの数日に全てをかけることを決めた。元々、過澄聖の無意味な噂で連結感を保っていた程度のクラスだ。簡単に壊せるだろう、というのが僕らの考えだった。ろくにクラスのことを見ていない二人のことだったけれど、むしろ見ていなかったからちゃんと客観視できているように思えて、少し気分が上がった。

「社会性があったらいまここにいないって」

 僕がそう返すと過澄聖は笑って「それもそっか」と言った。現にここに集まっているのは社会性以外にもアイデンティティのない人間と、居場所のない人間と、自分勝手で他人のことを考えない人間が集まっているのだから、なにも救われない、

「私は社会性ありますからね」

 宮枡さんが意味も無く自分だけ守ろうとする。その行動を見て、過澄聖が笑った。

「そうやって言う人ほど無いんだよ」

 宮枡さんは不服そうに顔をしかめて、僕を見る。僕は彼女に何も返さなかった。彼女に社会性はまだあるにしてもそれ以外のところ、他人を慮るだとか、そういう部分が抜け落ちている。彼女は高校生らしく利己的だった。

 宮枡さんは僕から視線を外し、床を見つめる。ぬらりと日光が反射されていて、学校特有の鬱屈さや儚さ、せつなさをこの上なく表現しているように思えた。

「にしても。本当にあと数日で壊せますかね?」

 宮枡さんが疑問形で聞いてきた。彼女は教室の状況がわかっていないからしっくりと来ないのだろう。

「多分」

「まあ、したところで数日したら休みだからあんまり痛くなさそうだし、したところで意味あるのかって話になるんだけどさ」

 二人してとくに根拠なく、自信をもって答える。片方は教室にさえ行っていないし、もう片方は教室に行ってはいても周囲をろくに見ていない。宮枡さんにとっては信頼できないだろう。多分、僕が宮枡さんの立場だったら絶対信頼していない。

「問題はどうやって状況を数日で生み出せるのか……」

 僕は天井を仰ぐ。窓から差し込む太陽光、電気の付いていない蛍光灯。見慣れた光景だった。

「情報戦でもする?」

 過澄聖が難しい顔をしながら聞いてくる。

「過澄ちゃんのせいにされそうじゃないですか?」

「どして?」

「クラスの中での信頼度的にそうなりそうだなと」

 宮枡さんの言葉に過澄聖が唸る。情報でこの状況になっているのだから、同じ手段を取ったところでこちらが不利になるだ。僕は宮枡さんの発言の意図を掴み、ため息をついた。

「教室内の環境を地道に崩すしかない。地道に」

 過澄聖も宮枡さんもそれに納得したみたいに、曖昧に頷いた。僕らには堂々と教室を破壊することはできない。物理的にも精神的にも。ならば地道にやっていくしかない。卑怯でもいいじゃないか。そっちのほうが僕ららしい。

 それから夏休みに入るまで、特筆すべき点もなく夏休みに入った。僕らも必然的に会わなくなった。ただ、二学期が始まったらまた集まるのだろうという、確信があった。高校生らしい、希望的観測に満ちたものだったけれど。

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