第14話

 学生の悲鳴が上がると同時に、期末テストは幕を下ろした。

 隣の女子が笑いながらこちらに話しかけてくる。僕に話しかけるということが目的ではなく、誰かにテストのことを言って、同情してもらい安心したいというのが透けて見えた。けれどそれは彼女だけでなく、クラスメイト全員から発せられていて、自然と教室はその匂いに包まれていた。

 僕は彼女の言葉に逐一頷きを返して、時折笑ってみる。いまいち、正解がわからないけれど間違いではないのだろうと思う。僕には彼女たちの気持ちはあまりわからない。テストはどうせ自分の頑張り次第で変わるのだから、僕のように適当に済ましていたらその分適当な分しか返ってこないのだ。かといっても頑張った分だけ報われるかと聞かれるとそうではない。とにかくやらなかった分だけ返ってくる。なのだから、頑張った人間なのならばそれほど恐怖を感じなくとも言い気がする。運が多少関わるとしてもそれにも限度がある。ただ、高校生の自己肯定感が低くなっている昨今、それを求めるというのも一種のハラスメントのように感じられた。

 バレないように小さく欠伸して、話を合わせる。僕のできることはそれくらいだった。

 雑談が咲き乱れていると、教室に担任が入ってきて、苦笑いをこぼしつつも生徒たちを制す。歳を食い、何回も高校生を担当している分、扱いに慣れているのだろう。

 担任の視線はみんなをざっと等しく見たあと、わずかに過澄聖の席を見つめる。彼なりに思うところはあるのか、小さくため息をついたあと、手早くホームルームを始めた。

 先生からありがたい言葉をいただくと、ホームルームは早々にお開きになった。ぞろぞろと大勢が教室を出る。テストが終わった開放感からか、みんな頬が緩んでいる。今から遊ぶのだろう女子グループはスマホを開きながら楽しげに会話をしている。僕は一応階段に行こうと思い、バッグを背負う。教室を出た瞬間、担任に止められた。珍しいことだった。

「櫻、ちょっと」

 一瞬心臓が跳ねたが、僕はなにも悪いことをした覚えがなかった。学校の風紀も乱してはいなかったし、校則も破っていない。もちろん法律も。それだから、僕が呼び止められるというのはよほどのことなのだろうと勝手に想像した。

「はい、なんですか?」

 努めて平常心になって、先生を見る。先生はわずかに心配そうな表情を見せながら、続けた。

「過澄とは、どうなんだ?」

 何で知ってんだよ、と思った。

 思わず心の中で毒づいたことを顔に出さないように力を入れて、いつもみたいな表情を浮かべる。

「最近はあまり会っていないので、よくわかりません」

 ほとんど本当のことだった。最近、といってもここ一週間は彼女と会っていなかったし、よくわからないというのも本当のことだった。最近、という言葉がどれほどの範囲を指すかによって、先生のなかで僕の発言が本当か嘘かに別れる。人との会話は大抵そんな曖昧な、真実か嘘かわからないもので構成されている。少し前に痛感したことだった。

「そうか。もし、なにかあれば聞いてやってくれ。保健室の先生がよく櫻の話を過澄から聞くんだと。話せるやつがいるっていうのは結構大事で……」

 始まったな、なんて軽く考えて適当に相づちを打つ。先生のありがたいお話は聞き飽きていたので、もうどうでも良かった。生徒たちの雑談と同じような感覚だった。

 僕はうんうんと頷いて「わかりました。心がけておきます」とか適当な、変にかしこまった感じで言って、彼から離れる。いつもより少しだけ大股で、早歩きで階段を上った。足音がやけに響いていたように感じられる。周囲の音がしんとしていた。気のせいではなかったはずだった。

 埃の薄く積もっている階段を上り切り、わずかに透き通った感覚のする踊り場に目を向ける。瞬きを繰り返して、自身がひとりぼっちな事を自覚する。言いようのない寒さに襲われた感覚だけがはっきりとして、一人さみしくなった。過澄聖はこの感覚を味わったことがあるのかもしれない。そんな事を思った。それを証明する人間はここにいなかったけれど。

 数分突っ立っていると、階段を上る音が聞こえた。僕は振り返ることすら面倒で、近づく人間を見ないフリした。

「櫻さん、来ていたんですね。テストお疲れ様でした」

 宮枡さんの声だった。彼女はいつもと変わらない口調で、声色で話していた。あの、僕が聞いた明るい声とは全然違った。それに違和感を覚えてしまって、頭が痛くなる感覚がした。もしかしたら過澄聖と会ったら、また違和感を覚えてしまうかもしれない。ふとそんな思考に陥った。

「おつかれ、さま」

 喉に何かが突っかかった感覚がして、うまく声が出なかった。緊張はしていなかったと思う。不安もなかった。ただ、違和感があって、その違和感がうまく表現できなくて、じっとりと喉に違和感がこびりついていた。

 宮枡さんはそれに気がついた風もなく、すっと僕の隣に立った。わずかに香りが漂ってきた。日焼け止めの、ラベンダーじみた香りだった。

「テスト、どうでした?」

 彼女はおもむろに聞いてきた。二人きりというのも初めてだったから、距離感を探していたのだと思う。僕はそれに乗っかるようにして、口を開いた。

「ぼちぼち、かな」

「赤点じゃないなら良かったです」

 宮枡さんは息を吐いた。少しだけ空気が軽くなった。それが多分、彼女のルーティーンじみた行動だったのだろうと思う。緊張をほぐすみたいな、自分の気持ちを確認するみたいな、声のない確認。

「過澄は……どうしたんだろ」

 おもむろにぼやいた。宮枡さんが苦笑いを返した。言う必要がない、と暗に伝えていた。心の奥底では僕もそう思っていた。だから少しだけ安心した。

「受けるには受けると思います。一応勉強はしていると言っていたので赤点は免れると思いますが、結果は知れたことでしょうね」

 遠くを見ているみたいな、独特な声で、しっとりと宮枡さんは呟いた。空気の中をゆっくり濡れるようにその言葉は進んで、散る。宮枡さんはふっと笑った。

「櫻さんはなんで過澄ちゃんと関わるようになったんですか?」

 急に宮枡さんが僕に匙を向けてきた。わずかに爽やかささえ感じられるその口調は、何か彼女の本質に似た物を感じた。

「……たまたま、CDショップで会った。それから、なんでか会うようになった」

「共通のアーティストさんでもいたんですか?」

 僕はそれに首をふる。そのときは全く曲を聴いていなかった。イヤホンすら持っていなくて、音楽に触れるなんて機会はほとんど無く何をして生きていたのか、と聞かれると困るくらいにはなにも人生的なものをしていなかった。彩りやこだわり、おおかた趣味といえることさえ何もしていなかった。

「不思議な、縁ですね」

 宮枡さんは意味なく笑ったのがわかった。空間を埋めるみたいなものだったのだろうと思う。

「……だね。情で辛うじて繋がっているだけだけど」

 僕は彼女の真似をするみたいに笑って、空間をうやむやにしていく。過澄聖という人間がいなければ僕らはそこまで深く、関わりあえないのだ。

 何分か、二人ただ立っている時間があった。その時間をどうにかしたくて、僕は過澄聖がしているみたいに地面に座って、壁に頭を預けると彼女はふっと笑った。

「宮枡さんは、なんで過澄と?」

 純粋な疑問だった。そして、彼女が僕の考えているような人間ならば、僕の思っている通りの事を言ってくれるだろうという確信があった。

「彼女が、一人だったからですかね」

 彼女はそう言って、ごまかすみたいに笑った。彼女の生々しい感情がやってきて、僕はそれを受け入れた。彼女は僕と違って情に流されない人間で、心の底から良かったと思った。彼女は渦中にいないからこそ、その中にいる人間を救うことになにか大義的な何かを見出している人間なのだとしっかり理解した。

「そっか。宮枡さんはいい人だね」

 僕の言葉に宮枡さんはムッとした表情を見せた。しかしそれも一瞬のことで、すぐに呆れとも、達観とも取れる表情になってその表情から想像できるままの、疲れがほのかににじんだ声で言った。

「皮肉ですか?」

「どうだろ」

 彼女は吹き出した。ついでに僕も吹き出した。

「あのですね」

 宮枡さんが喉を震わせた。腹痛に耐えるみたいな、苦しそうな声だった。

「私、媚を売っているんですよ。みんなに等しく、好かれるために」

 高校生を煮詰めた感情だと思った。危うい、大学生になってしまったら崩れてしまうあやふやな感情だと思った。

「いい性格してるじゃん」

 僕が笑うと彼女も笑う。一種の認識のすり合わせみたいにそれが繰り返される。

「人間、一人で生きていけないんですよ。目標もなく生きてはいけないんです。きっと、そうなんだと思うんですよ。私。例えば趣味のない人間は、自分の人生に彩りを求めていない、仕事や学生生活においても問題の解決とかがうまくできないんじゃないかって思うんです」

「お節介だね」

「ええ。お節介です。ついでに自己中心と自己陶酔、自己満足の寄せ集めです」

「バーゲンセールだ」

 僕の小言に宮枡さんは笑う。からりと乾いたその笑い声は、僕の耳に届くと同時に崩れ落ちた。

「それだから、高校に入って、過澄ちゃんを見たとき、私が救わなきゃって思ったんです。あの子はひとりで可哀想だったから」

 宮枡さんは酔ったみたいに頰を上気させ、話していた。実際酔っていたのだと思う。自分に対して、酔いつぶれていたのだと思う。

「なんで過澄が一人なのか、聞いたことは?」

 彼女は首をふる。

「直接はないです。噂が原因だろうとは思ってはいますが、実際のところは何も。未だ聞けずにいます」

 彼女はそう言って目を伏せた。彼女も僕と同じように、真実に触れることが怖かったのかもしれない。きっとそうだ。まだ子供だったから、人との関わりが怖かったのだ。それは大人になってからも変わらなかったけれど。

「僕は人を殴ったって噂を聞いた」

「私は人の恋人を横取りしたって聞きました」

 二人で数分見つめ合って、静寂に浸る。そしてどちらからともなく、また笑った。

冷静になってみると、あの過澄聖が人を殴るとは当時考えられないことだった。恋人を奪うなんて荒業もすることはないだろう。あほらしいと笑い飛ばせるくらいに過澄聖のことを知っているわけではないけれど、笑い飛ばせることはできた。

 けれど、結局のところは僕も宮枡さんもそれほど過澄聖の件を積極的に動かしていたわけではなかった。どこかで自分たちにできることなんて無いと理解していたからだと思う。僕が時たま話を出し、宮枡さんがノートにそれを書き留める。過澄聖は自分でも行動しようとしているのか、テスト終わりの授業は出る回数がわずかながら増えていた。

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