第13話
六
「何かを突き詰めればそれは純粋な色になって透明になるんだよ」
七月に入っていつの間にか梅雨が明けた。期末テストがあと数日で始まる、といった具合の純粋で清純な学校生活をまだ過ごしていた頃のことだったように思う。
意味なく手をふらふらとさせて、首をわずかに傾けながら過澄聖が唐突に言った。まるで何かに突き動かされるように行動に起こしたそれは意味なく僕の元に届いて、霧散した。
「そうなんだ」
僕の適当な返事に過澄聖は気がついた風もなく、淡々と頷いた。真剣な眼差しをして、どこかを見ていた。思春期特有の物憂げで意味不明な感覚を纏っていた。いや、気がつかなかったのは僕の方だろう。
「うん。そうなの。私たちはみんな色づいている。ただ、一人一人の色がそこまで離れている訳ではないから、みんな寄り集まってそれが一つ、極めてその色な、透明なものになっている。例えば高校生はみんな薔薇色に染まる。薔薇色が集まる。その中に桜色は入り込めないんだよ。桜色は桜色のままで、薔薇色になれない。みんなで一緒に行進なんて出来ないんだよ」
悲しげに笑いながら彼女は言った。少なからず彼女の実体験的なものが存在していたのだろう。彼女は色彩が集まりそれが溶け込めば、色が色と認識出来ることができればそれは透明と認識されると言った。なんとなく、僕にはそれが理解できたような気がした。
ふと急に彼女はスカートのポケットの中に手を突っ込んで、音楽プレーヤーを取り出した。けれど、僕の方をみてすぐにそれを元にもどし、虚無的に笑った。意味の無い無駄な行為だった。それをまた自虐するみたいに彼女は涙を流して、道化じみたへんな顔をした。そのまま、じっと僕を見つめた。見つめるだけ見つめて、結局何もしなかったし、出来ていなかった。
「色が違っても。綺麗な物は綺麗だと思う。少なくとも、僕は」
僕は彼女に向かって言った。ささやいたように言ったから彼女に伝わったのかどうかはよくわからない。けれど、伝わっても伝わっていなくても良かった。限りなく自己満足な言葉だったのだ。
その、自己満足的な発言をしてから一週間くらいが経って、テスト中のことだった。テスト中はさすがに過澄聖もあの踊り場にはおらず、もちろん僕も宮枡さんも行かず、本当に平穏で普遍的な学校生活を過ごしていた。
僕は過澄聖と関わりが減った事によって通常の学校生活に集中出来るようになった。けれども、今の僕に数ヶ月前のような通常の平穏を求めた完璧のような生活を求める情熱は消え去ってしまっていたから、そのときの僕は本当にただの普遍的な高校生だったと思う。過去の自分が目を背けたくなるほど堕落していた。
一人、自室で勉強机に意味なくノートを広げながら、座ってぼんやり天井を眺めていた。意味なく眺めていた。堕落の極みだった。
少し前の自分なら信じられないことをしていた。過澄聖と関わったことによって、少なくとも僕という人間の根本である何かが崩れてしまったことは確かで、なぜいままでそれを保てていたのか、というと僕が人との距離感をあまり詰めなかったというのが大きかった。過澄聖がはじめ、泣いていたから、教室に入ってきたから、それから、僕は崩れてしまった。本当のことだった。
僕はため息をついた。息が暗闇に溶け、ぬるい空気とぶつかる。それを視覚的に楽しむことはできなくて、ただ雰囲気のみ享受する。透明なのはそこにあることが当然なのだ。
過澄聖はそれを求めていたのだと思う。
彼女は彼女が彼女でいられる瞬間を求めていた。今の彼女は、いわれもないことを吹聴されている、のだと思う。思う、としたのは、僕自身が彼女についてしっかり知っていなかったから。僕は関わりつつも過澄聖の抱えている問題に対してはなあなあに済ませていた。首を突っ込むだけ突っ込んで、あとは放置、といった具合だった。最低な行為だと思う。
闇に溶けた視線の先が何かを掴もうと必死になって、ゆらゆら揺れる。結局、僕が信条をもう一度明確化するには、過澄聖という人間を知る必要があった。逃げていたことに向き合う必要があった。必要がないと思っていたのは僕だけだった。
自室でこぼれ落ちる思考は大抵、ぐちゃぐちゃとしていて、もうそれが僕の本当に思っている思考なのかどうかすらわからなくなっていて、感情が暴れる。シャーペンを衝動的に持って、ノートの上に走り書きをする。内容は自分にすらよくわからないもので、自分や他人を納得させるためのものでなく、もっと遠くの誰かを納得させるみたいな、どうしようもないものを書いた。僕には自分で書いたのかさえわからなくなって、日本語なのに日本語ではないみたいに思えた。それほど僕の頭は参っていた。
とにかく僕はそんな夜の使い方をして、次の日の朝を迎えた。
朝、いつもみたいにけだるさを感じて、妙に足が重い感覚を抱きながら、学校に行った。朝休みの一瞬の静寂に、すぐに埋もれる雑踏。共有できなかった昨日の夜の時間の話、今日のテスト、明日のテスト、あとすこしでやってくる夏休みの感覚。周囲の生徒たちはみんなそれを気にしていて、多分、気にしていなかったのは僕くらいだった。
隣に同じクラスの男子が座る。その席の人間はまだ来ていない。名前は知らないが、女子だった。
隣に座った男子はまるで、はじめから自分の席だったみたいな変な顔をして僕に向かって話しかけてきた。
「やべえ、まじテストやべえ」
脳が焼き切れたみたいな発言をして、わざとらしく欠伸をする。無駄に寝ないことが美徳かのように扱われる男子高校生の間では、彼のような行動が正解なのかもしれない。僕は彼に対して、笑ってごまかして、素早く自分の会話をねじ込む。僕にとって同じクラスの人間なんてものはどうでも良い物で、僕に利益を与えるか与えないかのどちらかで価値が決まっていた。少なくとも彼は僕にとっては価値のある、と判断されていた人間だった。
「なあ、そういえば、あの不登校のやつ、もう来てないな」
僕のその発言に彼はきょとんとして、にやりと意地汚そうに笑った。
「そりゃ、来ないだろ。来たところであいつに居場所ないだろうし」
そう言って、彼はチラリと過澄聖の席へ視線を向ける。その視線があまりにも自然で、彼の中で過澄聖がとっくのまえに透明になっていたという事がわかった。それに少し安心してしまった。
「そりゃ、そうか」
空白を埋めるように呟いた言葉はすぐに教室内を転がり回って誰かの足に潰された。踏んだ人間すら、自分が踏んだ事に気がつかない。そんな曖昧な言葉だった。
でもさ、と彼が続ける。僕はそれに少し嫌な感覚がして、わずかに椅子をひく。
「一回、教室来たときさお前のこと呼んでなかったっけ? あいつ」
心の中で舌打ちをして、笑って誤魔化そうとしてちゃんと、彼を見る。瞳が淀んでいて、卑しい顔になっている彼を見る。さっきの一瞬でなったのか、それとも、僕がちゃんと彼を見ていなかっただけなのか。後者だろう。ただ、それをすぐに察せられるほど僕の脳は出来上がっていなくて、一瞬立ち止まる。
一瞬誤魔化すために開いた口が閉じられ、もう一度唇がわずかに開いた。
「……前の日、放課後に会って。それだけ」
囁かれるように言われた言葉は彼に耳に正確に届いたのか、彼はただ頷いて「そーいうことかー」と、やけに間延びさせた声で言った。何も納得できていないのが目に透けて見える。きっと、釘でも刺しているんだろう。この教室、この学年の均衡は過澄聖という絶対的な敵のような何かがなければないのだろう。
「なあ、その不登校、なんで来なくなったんだ?」
人間、人の悪口を言うときはよく滑る。きっと、過澄聖についても似たようなものだ。僕はそう思って聞いてみる。
「は? お前知らないの?」
頷いて、彼の反応を待つ。それ以上、なにも口にしなかったのは少し怖かったからだった。人間がどのようなことをするのか、その時はまだうまく認識できていなかったからだった。
「あいつ、中学の頃」
人、ぶん殴ったんだよ。思いっきり、歯、折ったんだってさ。
淡々と、気色の悪い、嘘か本当かわからない、そもそも彼の口から発せられたものなのかすらわからない、言葉だった。
「それ、マジなの?」
辛うじて脳が反射的に喉に送った言葉は、軽く上ずっていて、子供の声みたいだった。一縷の希望に縋る、子供のようだった。
嘘だと言って欲しかった。せめて、噂だと言って欲しかった。もちろん、当人に聞けば一番だったのだろうけれど、そこまで僕に度胸はなく、こうして人づてに聞くしかなかったわけだけれど、僕はそのことを肯定も否定もしない。する必要がない、というのが本音だろうか。僕は僕のこの手順を信頼している。信頼しているだけでそれが推奨できるかどうかは首肯できない。
「まじまじ。見た人いるし、何人も」
僕は「へー」と何も気にしていないかのような軽い声を出して、彼から視線を外す。彼もそれ以上、僕と話す必要はないと感じたのか何も言わずに僕から離れて、流れるようにクラスメイトの雑談に入っていった。
クラスメイトたちの雑談が混じる中、一人でそっと考える。
先ほどの発言を、真実か噂かもわからないものの真偽を、本人に聞けるのかということだった。もちろん、僕の性格として、そんな直接的に聞けるほどのメンタルは持っていない。ただのクラスメイトは別だが。関わってしまって、情が沸いてしまった人間に対し、情を感じさせないかのような無神経なことを聞けるほど僕は感覚が死んでいる訳ではない。それに、僕はまだ自分の信条すらない、だめなやつだ。そんな人間から、昔のことを聞かれるほど、惨めなことはないだろうと思った。全て僕の感覚としての話だから、過澄聖がどう感じるかなんて知らない。考えたくはない。でも、僕は彼女に自分の考えを全て押しつけるなんて事はしない。それが情を感じている人間に対して行う、最低限の礼儀だと思うからだ。
チャイムが鳴る。しんと辺りが静まって、自分の心音だけがはっきり聞こえた。
放課後、踊り場に行った。もちろん、過澄聖はおらず、ただ埃の残った汚い屋上へ続く道だけがあった。テストが終わってからではないと、彼女に会えないだろう、そう自分を落ち着かせるように何度も心の中で呟いて、僕は階段を下りた。
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