第12話

 一人、波に逆らって歩いて行く。なんとなく眺める通行人の髪がやけに光り輝いているように思えて、うまく目が開けなかった。

 バイト先であるCDショップに行くと、もうバックヤードに実浦さんがいた。彼女は準備を済ませていて、ぼんやりと時計を見て、時間が来るのを待っていた。

「おはようございます」

 実浦さんはやはり女子高校生味の残った声色で挨拶をしてきた。二回目のおはように違和感を覚えて、僕はおもむろに「お疲れ」とだけ返した。実浦さんは僕の考えを見透かしたように笑って、またぼんやりと時計を見つめた。僕も準備を済ませ、意味なくぼんやりと實浦さんを見る。絵画的に映る彼女はごくりと息をのんで、口を開いた。

「そういえば、シーロスの新曲聞きました?」

「あー、うん。一回だけ」

 シーロス。正式名称は「She is lost」。僕と実浦さんが好きなバンド。ヴォーカル、ドラム、ギター、ベース、キーボードの5ピースバンド。何年か前にメジャーデビューを果たし、あまり爆発的な人気はないものの、しっかりと固定ファンは付き、音楽性だけでなく歌詞もよく、二、三十代に人気のバンドだ。僕はシーロスをこのCDショップで知った。もともとあまり音楽を聴くほうではなかった。ただ時給が比較的よく、自分でもできそうだったからという理由で始めたバイトだったけれど、音楽に触れるようになってからは天職ではないかと思うようになった。比較的、人並みに前向きに生きられるようになったのはシーロスのおかげだった。

「よかった、ですね」

「よかったね」

 人間、大抵自分の好きなことを話すときは語彙力をなくす。それを理解している人間はやはり必要最低限の言葉で感情を共有したがる。僕らも例にもれず、ただ無言で雰囲気を共有しているだけだった。音楽を聴くだけで、人生が満ちた気がする。そういう感覚だった。

 二人してぼんやりと作り出した余韻に浸っていたら小さく電子音が鳴った。どうやら打刻をしなければいけないらしい。

 僕らはパソコンで打刻を済まし、バックヤードを出る。人工的で違和感のある冷たい冷房の空気を全身に浴びて、表情だけを作って「いらっしゃいませ」と、中身のない声を出した。

 はじめ二時間はレジ打ちだったので、僕はレジカウンターで棒立ちになりながら考え事をする。立ちっぱなしは疲れるが、曲が流れているし、考え事をするにはうってつけの環境に思えていた。とはいえ、僕自身、曲の良さに気が付いたのもつい最近だ。そんな人間に勝手な評価をつけられる曲もかわいそうだなと思う。曲からしたら自分勝手な人間に付き合わされているだけなのだけれど。

 特段、なにか具体的なことを考えていたわけではない。いつものように荒唐無稽な物をずっと考えていた。レジをしながらだとそんな軽い考え事しか出来なかった。

 夕方までバイトをして、先輩たちに「お疲れ様です」と挨拶をしてバックヤードに戻る。バックヤードの中は空気が籠もっていて気持ちが悪かった。その中でも実浦さんはいつもと変わらずエプロンを外していた。実浦さんは入ってきた僕に気がついてぺこりと頭を下げた。

「おつかれさまです」

 全く疲れの感じられないハキハキとしたいつものような声だった。実浦さんは楽しそうに笑っている。エプロンを外したはずみで髪の毛が何本か跳ねていた。そのいつも違う部分をみて安心した。

「おつかれ」

 そう言葉を返して、僕は自分のロッカーの前に行って伸びをした。固まっていた肉がほどける感覚がして、骨が音を鳴らした。その一連の行動を見て、実浦さんが笑う。滲んだ笑いがそっと空気に溶けていった。

「今日は一段とお疲れですね」

 僕に向かって実浦さんが言う。少し目を細めて、じっとこちらを見ていた。

「そうかな、どうだろう」

「いえ、そうですよ。いつも以上に疲れているように見えましたし、いつも以上に考えに耽っていたように思えます」

 どうやら顔に出ていたらしい。僕自身はあまりいつもと変化がないように思っていたけれど、外からみれば違和感があったらしい。疲れがたまっていたのだろうか。それともなにか別の事でも関わっていたのか。なんにせよ、申し訳ない。

「そっか、ごめん」

 僕が謝ると実浦さんは苦笑いを零して、面倒くさそうに言った。

「いえ、謝ってほしかったわけではなくって、ただ私個人が思った事を言ったまでですので、そこまで重く捉えなくて大丈夫です。お気になさらずに」

 実浦さんはそこまで言って、ロッカーの中に入っていた手提げ鞄を手に持ち、僕に背を向ける。

「それでは。気をつけてくださいね。何事も」

 実浦さんは冗談めかして言い、笑った。その表情のまま、実浦さんはバックヤードを出ていった。僕は彼女の残した言葉をじっと噛みしめて、ただ立っていた。

 エプロンを外して、ロッカーの中に入れる。少しがさつになってしまったのは、やはり疲れているからだろうか。早く家に帰って寝たほうがいいのかもしれない。

 僕は鞄を手に取った。その拍子にため息が口から漏れる。それに自分で驚いて、そのことに自分で笑った。なぜか滑稽に思えて仕方が無かった。

 帰路につく。夕暮れの風が露出した肌を刺してくる。それをどうにかして防ごうとして体を縮まらせた。靴音が響く。人のざわめきが遠のいたような気がした。

 駅に近づくにつれて人が増えていく。スーツの着た社会人を中心にして講義終わりの大学生、制服を着こなした高校生、中学生と、荒波が形成されていく。僕もその中に紛れて、ゆっくりと足並みをそろえて歩いた。

 特に求めていた訳ではない意味の無い人たちの匂いが鼻を通る。香水、柔軟剤、誰かの手に収められているジュースの香り、煙草の香り、風に乗ってくるその人の匂い。生活の証。それを感じて、人々に思いを馳せる前に頭が混乱する。気持ちが悪くなる。

 めまいがして、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ目を閉じる。すぐに開けて、わずかに視界を埋める黒い靄を見て見ぬ振りをした。ふらついた足が人に当たらないように気にするので精一杯で、自分を無理矢理動かす。バイトでずっと立っているから足の操作がうまく出来なくなっていた。筋肉がへんに緩んで、うまく動かせない。疲れがたまって膿のようになっていた。

 スマホをいじりながらも人に当たらないように気遣い、駅に吸い込まれていく人間の背中を漠然と眺める。なんとなく、パズルみたいに綺麗に収まっていて自分だけ形が違うような感覚に陥る。自分が完璧じゃない。どこか、置いてきた感情が急にやってきて僕を殺そうとしてくる。焦燥感に襲われて、無意味に足を動かしたくなる。けれどそれさえ無駄に思えて、完璧なんてないような気がしてくる。けれど確かに完璧というものはあって、全てに意味があり、全てが伏線になるものはきっとあるように思えて、また無意味な行動を再開させる。無駄に体力を消耗させると知らずに。

 人の背中がやけに大きく見えて、何度か目を瞬かせる。ただのサラリーマン。スーツを着て、ネクタイを締めている、ただの、サラリーマン。大人の姿。

 あと数年したら僕もこんな風になれるのだろうかと、なってしまうのだろうかと心配になる。僕がどれほどな人間なのかよく僕は知っていたし、これからもそれは間違えないつもりだ。けれど、時折心配になる。僕は僕を信頼出来ていない。自分が捧げた信条さえ、情に流され、すぐに折ってしまうような人間なのだ。こんな人間が社会人に、いや大人になれるわけがない。尊敬される人間なんかになれるわけがない。年齢的に大人になれたとして、精神的に大人になれることはきっと永遠に無いような気がする。大勢の人間もそう思っている。けれども、子供に見切りを付けて、大人になっていく。いつの間にか、学生から変化していく。大人になり、自分の求めているものに変化していく。色づいていく。学生を起点として、みんな変わっていく。

 いつも、そうだった。あの日もそうだった。過澄も、僕を残していつの間にか大人になって、成長して、勝手に落ちた。約束を破って、彼女は落ちていった。一人で落ちていった。

 それが正解だったのか、不正解だったのかは今でもわからない。僕が大人になれていればいい話なのだけれど。残念ながらわかる日は当分来ないだろう。

 ICカードをかざし、ホームに入る。灰色に濡れた線路が見えた。人々はみんなスマホに目を落としている。誰も他人を見ていない。その人たちにとっては僕も存在していなくて、その周囲にいる人さえも存在していないのだ。当たり前すぎて感知できない、一つの無の極地。あの日の過澄がたどり着けなかった場所。僕らのたどり着けなかった場所。

 僕らは確かに、その瞬間を求めていた。そのために世界を壊そうとしていた。勿論、社会という一つの大きな物に立ち向かうみたいな青臭いものもあった。けれどそれよりも根本に、僕らが生きやすい世界にしたかった。ただ、それだけだった。少なくとも過澄はそう思っていたはずで、少なからず僕も思っていたはずだった。それだけは間違いのなかったはずで、僕らが諦めていたものごとであったことは確かだった。

 目の前の線路に陽が当たる。朱に染まったそれは導線のようにも見え、美しくその火を迸らせていた。火はどこまでも続いていきそうな明るさで、存在感で、先を照らしている。瞳には映しきれないほどのまぶしさを保って。

 ホームに電車が入ってくる。風を切って、人々の疲れをホームに連れ込んできた。電車の銀色の体表が日に照らされて赤めいている。激しく反射させて、停車した。

 電車に乗り込んで、人の香りに包まれる。冷気と熱気の混ざった気持ち悪い気温になっている車内では席が全て埋まっており、何人か立っている。僕はつり革に捕まって電車に揺られた。あと数日したらテストが始まって、冬休みに入る。それが終わったら宮枡さんに会う。そのことが妙に現実感がなく、可笑しかった。

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