第11話

 今日はずっとそんな調子で講義を受けていた。一日ぼんやりと考え事をしていたからペアワークでは何度か反応が遅れてしまった。珍しいね、と笑われた。愛想笑いでごまかしたけれど、自分の表情に汚い、生々しい物が湧き出ていないかと心配になった。なぜか、自分が昔の頃の自分に戻った気がした。それは良いことなのか悪いことなのかすぐにはわからない。多分、子供っぽいから悪いことなんだろうと思う。大学生の年齢になってしまったら、もう働いている人もいる。いつだって子どものままではいられない。

 講義室を出ると、壁にもたれかかって御木本が待っていた。御木本は悪びれる様子もなく手を挙げた。

「おう、サクラ」

「少しくらいは感謝の意を示せ、あほ」

 僕の小言も彼には聞こえなかったようでにこやかな笑みを浮かべている。良いやつなんだがこういうところが玉に瑕だ。

「はは、すまんすまん。今日の昼奢ってやるからよ」

「しゃーないな」

 うちの大学は学内にあるコンビニと学食のどちらかで昼食を摂ることができる。いつもは学食なのだが今日はコンビニでいっぱい買ってやることにする。

 僕らは5分ほど話し、各々の講義室へ向かう。大学では無理に人と関わらなくていいから楽だった。色々、昔のことを思い出さなくて済むから。

 講義室に着き、やはり後ろの席を陣取って、適当にスマホを弄っていると隣の席に人が座った。視線を送るよりも早く声が届いた。わずかに女子高校生らしさの残った声色だった。

「春音さん、おはようございます」

「実浦さんもおはよう」

 実浦さねうらさんが上品に微笑む。実浦さんは僕と同じバイト先で、同じ大学の他学部の人間だ。何故か毎度僕の隣の席に座ってくる、少し距離の近い人間だ。

「春音さん、今日の夜ってシフト入ってましたよね?」

「そうだね。実浦さんもそうだったけ?」

「そうです。あと栄江さんもです」

 業務連絡なのか雑談なのかもよくわからない会話をして、講義までの数分を潰す。大学生になって、少しずつ時間の使い方ががさつになってしまっているような気がする。数年経ったら、それも美化されてしまうような気がして少し怖い。きっと、未だに僕は捨てた理想を思い描いている。ここまで来るといっそ惨めだった。

 スマホで出席確認をして、教授が話し始める。内容は哲学だった。

 睡魔と闘いながら講義を受けていると隣の実浦さんに軽く笑われてしまった。それは嘲るものや呆れたものではなく、どちらかと言えば安心をそそるような笑みだった。大学生になると講義を常に真面目に聞いている人なんて数人しかいないだろう。常に集中するなんて常人離れしたことをする人間はむしろ怖い。彼女は自分と同じ人間を見つけて、安心して笑ったのかも入れない。人間を見て笑ったのかもしれない。そんなことを思った。

「唯物論、またの名を物質主義は概念や精神、心などの根底的なものは物質であるという考えを重視したもので……」

 唐突に教授の声が耳に入ってきた。一部分しか聞いていなかったからか、しっかりとした意味はわからなかったけれど、なんとなくまた過澄のことを思い出した。けれど教授の声が耳に入って脳にとどまる事はそのとき限りだったし、過澄のこともすぐに忘れた。忘れるように努めた。僕に出来ることはそれだけだった。

「それでは、また」

 講義が終わって、実浦さんが優雅に会釈して講義室を出て行った。ふわりと舞った黒いスカートが印象的だった。僕はその後ろ姿に「じゃあ」と小さく声をぶつけた。彼女は多分それに気が付かなかった。ただ、スカートが揺れただけだった。

 その後、約束通りに御木本に昼飯を奢ってもらった。二人共、三限目は空きコマになっていたから、学外へ出てマックまで行った。宣言通り奢らせて、適度に自堕落な時間を過ごす。

 コーヒーをちまちまと飲みながら御木本がおもむろに切り出した。

「俺が聞くのも変な話だが、本当にそれで良かったのか? もっと高いやつでもよかったんだぞ?」

 御木本は僕の手元に収められているポテトを呆れた目で見つめる。結局僕が頼んだのはそれだけだった。

「良いんだよ」

 自分が何を食べたいかよりも、他人の財布を気にする位には自分も成長したのだ。なんて言えれば格好がつくのだろうけれど。実際のところはそこまでお腹が空いていなかったというどこまでも自分勝手な理由だった。多分、どこも成長していなかっただろう。

 御木本は無理矢理納得させたみたいに頷いて、それ以上は追求して来なかった。僕は彼のその横顔を見つめながら、ポテトを食べた。少しだけ塩っ気が溶く感じたのは僕が成長してしまったからで、いろいろな事を知ってしまったからで、僕が染みる痛みになれてしまったからだった。

 御木本は見つめる僕を見て神妙な顔になった。一瞬気色が悪いものでも見るような目になって口を開く。

「そんな見つめてどうした?」

 僕は口を開いた。開いただけでなにか、彼に伝えようとした訳ではなかった。ただ、口を開いて意味があるものが飛び出すことを期待していた訳ではないし、反対に意味のない物が飛び出すことを期待していた訳ではなかった。本当に意味の無い行為に自分自身驚いていた。

 何か絞り出せる言葉は何かあったかと、頭を回転させる。錆びた思考が軋んで、悲鳴を上げた。

「なあ、お前の言った大学生らしいとは一体何だったんだ」

 問いかけの意味を持っていなかった。それくらい、小さな独り言みたいなもので、僕の意識の片割れみたいなもので、僕さえちゃんと意図をつかめていない曖昧なもの。

 けれど御木本はそれを丁寧に拾って、じっと眺めた。馬鹿にするわけでもなく、かといって真剣に受け止めるわけでもなく、あくまで彼らしく。彼のように。

「さあな」

 しらんよ。

 彼はそう言った。僕にはそれだけで十分だった。僕はもう、同じ轍は踏まない。

「そっか。ありがとよ」

 より僕の求めていたものが明確化された気がした。僕は、やっぱり、過澄に向き合わなければいけない。はっきりそう思った。だから、だから、早く、僕は彼女に会わなければならない。あの日、止まってしまった彼女に会わなければいけない。

「何か知らんが、サクラのためになったのなら良い。だが、道は間違えては……」

「お前、そういう説教じみたこと言うと嫌われんぞ」

僕が思ったことを言うと御木本はムッとして、口をつぐんだ。彼にも彼なりに思う事があったのか、それとも反射的につぐんだのか僕にはわからない。何も言い消してこない辺り何かしら思い当たる節があったのだろうか。

御木本は机の上に置かれていたコーヒーを一口飲んだ。飲んで、顔をしかめ、すっと目を細めた。それだけで僕には何も言わなかった。僕は萎びたポテトを一本口に含む。味はやはりあまりせず、食感だけした。まるで過去みたいだなと意味のわからないことを思った。そういうポエム的な感想を思い浮かぶ位には精神は安定しているらしかった。

「それじゃ、バイト行ってくるわ」

 静寂から逃げるように席から立ち上がった。御木本は何も言わずに僕を見つめている。黙っている彼も新鮮でどこか気色が悪い。もうそろそろ話してほしいものだ。これでは意思疎通の放棄だ。まるで子供だ。不機嫌を前面に押し出して他人をコントロールする子供。

 僕は残りのポテトを全て食べて、ゴミ箱にゴミを捨てた。なんとなく御木本を見ると、コーヒーを傾けていた。全部飲みきって、机の上に置いたあと、ため息を吐いた。それが遠目からでもわかって可笑しかった。本当に、子供みたいだった。それだったら、彼のように子供に戻れない僕は一体なんなのだろうとどうしようもないことを考えた。

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