第9話

 彼女は真剣な表情だった。本当になにか革命でも起こすような、そんな覇気を感じた。もはや一種の恐怖だったのかもしれない。

 僕はそれに首を縦にも横にも、どちらにも振ることはなくただ呆然と虚空を見ていた。宮枡さんの方も、過澄聖のほうもどちらも見ていなかった。見てしまってはいけない気がした。見てしまったら、彼女たちの感情に絡め取られてしまって、二度と今いつ地点に戻ってこられないような気がしたのだ。僕はまだ自分の身を海辺に向かって投げ捨てるような愚行を犯すような馬鹿な考えや思想は持っていなかったからだ。どちらかと言えば素晴らしい崇高な思想を持っていたといって良いだろう。さすがにそこまで思った事は無いが。

 それにもし、僕がここで首を縦に振ったら僕は僕の信条に背くことになる。もう無いに等しいこの完璧で平穏な日常を求める一人の探求者という立ち位置を失ってしまうかもしれないのだ。それは避けたい。けれど、ここで、この二人の考えを否定するのもだめな気がした。

 だってそうだろう。簡単に言えば僕の周りにいる二人はやばいやつだ。話を聞く限りなかなかやばいやつだ。そんな人間を真っ向から否定してしまったら僕の生活がどうなるか、考えたくもない。それに、僕も多少なりとも過澄聖という人間に情が湧き始めている。そんな状態で彼女を傷つけることは出来る訳がない。自分勝手かもしれないが、残念ながらそれは本心からくるもので、僕だけが起こしている癇癪などではなく多くの人間が考え導き出す物事のように感じられた。責任転嫁、とは少し違う。自分を救うために誰かに責任を押しつけたのだ。

「具体的に何をするの?」

 僕は虚空を見つめながら言った。彼女らは間を開けることなくすぐに答えた。彼女らはその質問が来ることを心待ちにしているらしかった。

「過澄さんがどのような扱いをされているのか、知っていますか?」

 知っている。同じクラスなのだから、知っている。というよりも同じクラスでなくても知っている。学年のなかで過澄聖という人間について噂が飛び交っている。もちろん悪い噂の方が飛び交っている。彼女が教室にいない、サボっているという理由から、どうしてサボっているのかとか色々、変な噂が立っている。お陰で彼女は教室に、学年に居場所がない。そんなことくらい知っている。あの教室での一件でやっとそれを実感したくらい彼女に興味が無かった人間だったけれど、そんな人間でも一度くらいは彼女の噂を知っている。

 曰く、過澄聖は……。

「中学校時代はそこまでひどくなかったんだけどね……。みんなちゃんと防衛意識があったから。やばいやつには近づかない。そういうあたりまえの自衛行為が出来てたから」

 過澄聖がぽつりと呟いた。その声は未だに鼓膜から離れない。彼女はどうでも良いことのように、髪を触りながらどこかを見ていた。ただ息を吸っていた。

「人殺しの娘、障害者、ビッチ、テロリズム思想犯、エトセトラ、えとせとら。馬鹿みたいだよねー。私一人でそんな一杯出来ないって。一つくらいしか出来ないって」

 彼女はそう言って、ははっと乾いた笑みを零した。

 宮枡さんが補足した。

「端的に言えば彼女の環境を良くする、というところでしょうか」

 曖昧な時間がやってきた。誰かが話すわけでもない。ただ、みんな放すタイミングを逃している。必然的に言葉が失われて、静寂だけが周辺を支配する。そんな時間。

 その曖昧な時間をぶち壊したのは紛れもなく、自分自身の声だった。

「なんで、僕を誘うの?」

「誘ってない。ただ、内容を話しているだけ。話を聞いた時点で春音は連累関係になったから」

「選択肢ねえじゃねえか」

 僕は苦笑いを零して彼女を見た。もう、恐怖もなにも感じていなかった。結局情が勝ってしまった。選択は結局大勢の人間と同じ思考に落ち着いたのだ。

「だって前、言ったじゃん。私たち一緒に落ちようねって」

 ああ、そうだったけ。確かそんなことを言った気がする。けれど、たしか、話の流れで言ったことだったから彼女がそれを本気にしているなんて考えてもいなかった。

 僕は過澄聖に向かって苦笑いを零す。ここまで来て彼女から逃げようとしていた。逃げる術も知らないくせに。

 なんとなく自分の髪をいじる。時間を少しごまかすための行為でもあったし、それ以外のなにか目的があったようにも思える。自分を落ち着かせるためだとか、とにかく過澄聖のことなんて一度頭から追い出したかったのかもしれない。きっとそうだ。自分の事ばかり考えて、過澄聖とか宮枡さんのことなんて頭から消そうと思ったのだ。僕のことだけ考えるので精一杯だ、そう思うことにする。そうしたら、僕は彼女と交わした堕落する約束なんてものを忘れてしまえる。それはきっと素晴らしい。それが正解だ。僕の人生を保つために必要だ。そう思った。

「そう……だね」

 思考と体は一致しないとたまに思う。一致しない時は、大抵情なんかが関わってくる。人間の情ってやつは面倒なやつで理解出来ない。本当に理解が出来ない。結局のところ、僕は僕を守ろうとしながらも他人を守ろうとしている。簡単に、一言でまとめるのならただの主人公気取りの人間だ。完璧を捨てた、ただの虚しい人間、自分を持ってない芯のない人間だ。よく僕を表していると、自虐的に思える。その時思っていたのか、それとも全て終わった今だから思えることなのかよくわからない。わかりたくないというのが本音のような気もする。自分は今と昔でどれほど変わっているのか知りたくないのだ。

 彼女は僕の言葉を聞いてニッコリと笑っていたように思える。彼女の顔を直視していなかったからよくわからない。ただ、笑っていると思っていた。引きつっていたのかもしれない。細かいニュアンスはもうわからない。ろくに彼女のことを見ていないのだから当たり前だが。

「じゃあ、私たち三人で頑張ろう」

 何に対して彼女は頑張ると言ったのか、僕にはよくわからなかった。現に僕は彼女と落ちるという約束を果たすために彼女と連累関係を結んだのだから、そもそも彼女ら二人に関わらなくとも良かったのだ。関わったのは情が邪魔したから。それで十分だった。

 結局、僕は彼女と交わした約束を果たしていない。多分もう二度と果たせないのだと思う。いや、もう果たせない。二度と、絶対に。


 連累関係を結んで、一週間くらいは経っていた。とはいえ、一週間なんて学生にとっては一瞬のことで何か大きなことがあったわけでなく、ただいつものように屋上で思想を垂れ流していた。テスト期間だったから学校に残っている生徒の数は少なかった。部活動以外で残っている生徒はきっとここ三人だけだろう。

 おもむろに宮枡さんがノートを開いた。ほのかにクリーム色が混じっている紙面上には小さな字で、しかし力強く連累とだけ書かれていた。

「ここで私達の共通目標を掲げたいと思いますっ」

 なぜか宮枡さんではなくて過澄聖が言った。そのことに疑問は抱かなかった。僕の中では過澄がこの関係の中心人物だったからだ。宮枡さんも特に動じた風もなく、筆箱から取り出したシャープペンシルを手に持ち、目標とだけ紙面に書いていた。この頃から役割は決まっていた。いつだって過澄聖が引っ張っていた。僕らを置いて進んでいった。

「共通目標って、過澄の……」

 僕が思ったことを言おうとすると、過澄聖がきゅっと目を細めた。宮枡さんはそんな過澄聖を見てきょとんとしていた。

「みんながみんな私のことを優先するのは気色悪い。宗教じゃないんだし」

 何て言い草だと思った。僕らは君のために行動してやろうとしているのに、なんて思ったけれど、考えてみればその通りだった。そういう約束事を交わしたとて、見返りもなしに犠牲的に一人の人間に尽くすなんて宗教じみている。本人からしたら恐怖でしかないことは明白だった。それを防ぐためなのだろう。盲信的に行動することや一個人のことにこだわりすぎる事を忌避し、彼女はそう言ったのだ。僕だって彼女の立場になれば同じことを言うだろうと思った。誰だって自分の事を中心に考える人間は気持ちが悪い。ある一点を超えればそれは気持ちが悪い物に変化する。彼女はそのことをよく知っているのだろう。

 僕は頷いて、そっと宮枡さんの方を見た。宮枡さんも同じように頷いてシャープペンシルをしっかりと持ち直した。

「さて」

 過澄聖が仕切り直すように声を発した。空気を押し出して、それは階段を転げ 落ちていった。

「共通目標、私たちの目標。果たすべき理想」

 彼女は熱を持ったように声に力を入れて話し出した、じめついた空気が少しだけ乾いたような気がした。

「私たちは」

 過澄聖がそこで言葉を止めた。僕と宮枡さんをじっと見つめた。今にして思えば、彼女はもうこの頃から決意を固めていたのだろうとわかる。彼女はそういうやつだった。

「この世界をぶち壊す。三人で」

 なんとなく、僕が呟いたはずだった。自分が呟いたはずなのに呟いた感覚がなかった。重要な言葉だったはずなのにその言葉は軽くて、多分青春とはこういうものなのだろうと思った。僕の意思とは関係なく進んでいく、大きな流れ。人と人の関係を形成する際に生まれる大きな流れの連なり、それが青春なのではないかと思った。そこに僕らの意見は必要なく、その大きな、自然の流れみたいな物が勝手に僕らを押し流していくのだ。

 誰かが言った呟きに、過澄聖が笑って応え、宮枡さんがノートに書き込んだ。

「いいね、最高に」

 過澄聖が言った。高揚感があふれていた。宮枡さんも頷いた。反対意見はなかった。過澄聖はまだしも、宮枡さんも彼女と同じ意見なのは驚いた。彼女は僕らと違うと思っていたから。けれど過澄聖と一緒にいるということは何かしら通ずる部分があったのかもしれない。もしかしたらこの世界を憎んでいるのかもしれない。過澄聖とおなじように。それが、僕みたいに、もう戻れなくて、どうしようもなくなって自暴自棄に似た感覚を持て余しているノかもしれない。僕らは似ている。きっと、どこかでつながっている。そう認識した。

「連累関係、結んで正解だったかも」

 過澄聖のうれしそうな声が階段に響いた。それが妙にうれしかった。

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