第8話
梅雨が終わるかどうかの瀬戸際だったのは覚えている。僕も彼女も室内にいたから梅雨かどうかは興味がなくて、必要だったのはただ僕らが二人でいるということだけだった。なにか契約を結んでいたわけじゃない。二人でいることが当たり前になり始めていて、僕が離れるタイミングを失っていたから、二人で自分の行動を見つめ直す時間にでも充てていたんじゃ無いかと今になっては思う。
「ねえ、春音って頭良かったっけ?」
「多分、過澄よりは良いはず」
過澄聖の点数なんて知らなかった。しかし彼女よりも頭は良いだろうと勝手に思っていた。少なくとも授業をサボっているのだから、僕よりも下であってほしいという一丁前な自信があった。
「私と比べてどうすんだよ」
彼女にはそんなことお見通しだったのかなんなのか笑って済ました。彼女は自分の学力についてはしっかりと自覚しているらしく、僕みたいな浅ましい驕りなんてものもなく、客観的に物事を見れているようだった。それだったらきっと学校でもうまく立ち回れるだろうに、彼女はそうしなかった。なにかしら意図があるのだろうと思っていたけれど、そのときにはまだ彼女の真意には届きそうも無かった。
「クラスでも真ん中くらいだと思う」
僕は前回の中間テストの事を思い出して言う。確か、中間はクラス順位、学年順位ともに真ん中周辺だった気がする。馬鹿ではないしかといって頭が良いわけでは無い。模範生というには欠点があるし、かといって劣等生というほどでもない。僕の評価はそんなところだろう。良くは無いが悪くも無い。教師陣が一番扱いにくい部類の人間だろう。とはいえ、この順位が僕の目指していた平穏な学生生活の一つの目標であった。今となってはもう無いも同然な目標。
「おーすごい」
過澄聖は気の抜けた拍手で賛美を送る。
「真ん中ってすごいじゃん。一番可能性があるよ」
「そう?」
「うん。伸びしろもあるし落ちぶれる事も出来る」
彼女の評価に思わず笑ってしまう。これでは褒めているのか褒めていないのかよくわからない。
「落ちぶれることがあったら一緒に落ちぶれろよ、過澄も」
僕が冗談めかして言うと、過澄聖はきょとんとしてふっと息を漏らした。
「なんだよ、それ」
また過澄聖が笑った。わずかに質量のある声だった。彼女なりに思う事があるのかもしれない。
「落ちるなら落ちるで、良い感じに落ちたいね。名誉ある撤退みたいなさ、箔のついた落ち方っていうのかな。そういうものがほしい」
彼女は天井を見上げる。つられて僕も天井に視線を向ける。雨のせいか灰がかっている天井がより色濃くなっている。ずっと見ていると気分が落ち込みそうだった。
「春音」
過澄聖の声が雨音の中ではっきりと聞こえた。
「なに?」
僕は天井を見つめたまま、返事をする。今、彼女のほうを見てしまったら負けるような気がした。
「落ちぶれるときは言ってね。私も一緒に落ちるから。だから、私が落ちるときはちゃんと春音も落ちてね」
彼女はそう言って。自分で自分の言ったことに笑った。冗談かなにかのつもりだったのか、それとも本当に思ったことだったのかわからなかった。
「ああ、いいよ」
僕が返せたのはそれくらいで、それ以外に彼女になにを言えばよかったのかわかっていなかった。わからないのなら、わからないで良いような気もした。
「約束ね」
「うん、約束」
僕らはそうして口約束を交わした。
まだ、そのころは僕らのこの関係に名前は付いていなかった。
梅雨が明けて、テスト期間が始まるといった頃、変化が訪れた。
「あら、逢引きでもしてるんですか?」
ボブカットの少女が階段下から僕らを眺めていた。僕はきょとんとして、過澄聖は笑って「違うって」と少女をこちらに手招いていた。
彼女は階段を上ってきて僕と過澄聖とを交互に見た後、ホッとしたように大げさな表情を作った。
「あら、よかったです。時間や日にちを間違えてしまって、過澄さんの邪魔をしてしまったかと思ってしまいました」
そう言って、にこりと人当たりのいい笑顔を目の前の少女は僕らに向ける。少女のスリッパの色が僕らと同じ所をみると同級生だろうか。
「櫻さんとは初めましてですね。どうも、二組の宮(みや)枡(ます)直里(すぐり)です。どうぞお見知りおきを」
宮枡と名乗った少女はぺこりと頭を下げた。綺麗に切りそろえられたボブの髪型に、くりっとした瞳、すうっと通った鼻筋、にこりと微笑みを浮かべている唇。男子からの人気がありそうだと思った。
軽い会釈をしてから、ふと気がついた。
「なんで僕の名前を?」
僕が聞くと宮枡さんは笑顔を崩さずに、過澄の方をみた。
「過澄さんからお話はかねがね。物好きがいると楽しそうにいつも聞かされていましたから」
僕は過澄聖のほうを見た。彼女は苦笑いを浮かべて僕から視線を知らした。恥ずかしさをごまかすように空気の多い、下手くそな口笛を吹いた。変なことを言っていないと良いのだが。
「そっか。そういうことね。まあ、これからよろしく、宮桝さん」
僕も彼女に倣って、軽く会釈をする。彼女の足元にひとつ、小さなほこりがあった。
「よかったです。まともな人で」
にこりと微笑みかけながら彼女は言う。僕はそれに苦笑いを返しながらつぶやいた。
「僕も過澄に宮桝さんみたいなまともなご友人がいたなんて」
「友達じゃない」
過澄聖が拗ねたように訂正してきた。子供のようだった。どうやら宮桝さんは友人ではないらしいとその時僕は理解した。
宮桝さんのほうを見ると、彼女は苦笑いをこぼしていた。そして小声で。
「どうやら私は彼女の連累者、らしいんです」
小さな声とは裏腹に内容は物騒で消えてしまったはずの声が未だ眼の前に残っているように感じられた。
連累関係。過澄聖と宮桝さんは何かしら罪を犯し、その罪を二人背負っている共犯関係らしかった。そのことを僕は何かの夢物語のようだと考えたことを妙にはっきり覚えている。
なんの罪を、とか無粋なことを聞くつもりはなかった。元々、関わるつもりなんてなかったからだ。関わったところで、ただでさえ理想から離れてしまったのにこれ以上離れる愚行を犯すわけがない。きっと平穏な日常はもう二度と手に入らなくなる。それは嫌だった。完璧ではなくとも、全ての行動に意味がなくなったとしても平穏でなければいけない。そう思った。
「連累関係って言っても、これからそうなるってだけ。今のところはただ計画してるだけだから」
過澄聖が少し食い気味に言い訳した。自分がいわれようもない罪を犯したと吹聴されるのがいやらしい。それかいつも同じような事をされているから少し変化を求めていたのか、それとも恐怖を感じていたのか、僕にはわからなかった。
「ふふっ。そうでした、そうでした。私たちは、今は同盟と名乗るのにふさわしい状況でしたね。そうですね……青空同盟とでも名乗っておきますか」
宮枡さんが笑って、曇天を指さしながら言う。青空同盟。名前だけ見ればとても素晴らしい。きっと青春らしさが詰まっているのだろう。言っている人間が過澄聖とか彼女の連累関係の人間で無ければそう思える。ただ生憎、言った人が連累関係を結んでいる人間だったから、その青春らしさというか、青臭さや若さみたいな、痛いものはあまり感じられず、どちらかと言えば陰鬱としたものの側面が多いように感じられる。数年経ったら黒歴史、なんて簡単に言える物じゃない。下手すれば一生の傷だ。多分。まだ痛くないだけで、時間が経てば痛くなる。やばいやつだ、痛いやつだ。
僕の感情を無視して過澄聖というが宮枡さんの発言に補足する。
「とことん一つのことを突き詰めればそれは正解になる。透明になってそれが常識になる。その常識をぶち壊すの。今、ここに蔓延っている当たり前をぶち壊すの。そして全部透明にする。無かったことにする。私たちは、私たちを正当化するために戦う。この世界を壊す。偽善のぶつけ合いだよ。私たちの行いは」
僕は彼女の説明を聞いて、彼女らのことを心底馬鹿にした。馬鹿にしてなお、そこにいる自分を、軽蔑した。自分自身を見下した。僕はこんな人間になりたかった訳では無かったのに。
「常識って、例えば?」
僕の言葉に宮枡さんが即座に反応する。
「無視などのいじめ、という物が最たるものでしょう。あれはこの学校を成り立たせるための一つの歯車として成り立っていますが、あれはそもそも歯車を狂わせる物であったはずです、しかし、現在はその狂わせるはずの歯車が正規の物のようにそこに存在している。それがあるからまるでこの学校は狂っていないみたいに存在している。違和感を覚えないということは、それくらいそこに溶け込んでいるということです。過澄さんの言葉を借りるなら透明になってしまっているということです。私たちはそれを壊すんです」
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