第7話

 五



「ねえ、春音。いつか、世界を壊そうよ。二人で」

 屋上へ続く階段。六月で雨が降っていた。梅雨も終わりかけだったように思うけれど結構激しく降っていたと記憶している。とはいえ、少なくとも僕は室内にいたから梅雨かどうかなんてどうでも良かった、というのが本音だった。だからか僕も過澄聖も梅雨の話なんてわざわざ出さずに、ただ湿気や雨音の発する鬱屈とした雰囲気に耐えることばかりを考えていた。そんなことを考えていたから、彼女は唐突に、けれど綿密にその言葉を言い放ったように思える。僕に認識されようとして言った言葉ではなかっただろうし、自分の感情を整理するために言い放ったのだろう。けれどその発言があまりにも物騒だったから聞き間違いでは無いだろうかと思ってそのときは聞きそびれた振りをした。

「なんて?」

 と、僕が聞き返すと彼女は何てこと無いふうに「なにもない」と言い返したのだから、きっと僕には関係がない。そう思いたかった。彼女の口から吐き出された春音はきっと僕と同じ名前の別人だと思いたかった。

 雨が一際、強くなった。その激しい雨音に溶かすように彼女は言葉を紡いだ。

「多分、気の迷い」

 僕は彼女の言葉に適当な相づちを返してなんとなく、微弱な光を反射している廊下の光を眺めた。

 彼女と出会って、長い時間が経っていた。僕は彼女との距離を未だなんとなく離れるタイミングを失ってしまっていた。ただ単に僕が彼女の視線を気にしすぎているという点が大きいのだろうけれど、一度中途半端に関わってしまった分、離れるとき傷つけてしまったら後味が悪くなってしまうと考えてしまってどうにも離れづらく感じていた。中途半端な優しさが邪魔してしまっていた。何日経過してもその優しさは消えそうも無くって、無くせそうも無かったのだ。彼女が救われるのなら、僕が離れるわけにはいかないと意味のわからない事を考えていた。無駄な、空虚な正義感を持っていたのだ。現にそれは間違いではなかったように思える。ただ、結局は僕の過ちのせいでこの関係も終わってしまったのだけれど。

「気の迷い、ね」

 良い言葉だと思った。聞かれていたとしても良い感じにごまかすことができる。それにもし、道が見つかったのなら、その迷いは意味のあるものになるだろう。もし、彼女の選択が僕と世界を壊すことになってもそれが彼女の辿った道の結果なのだと、納得させることができる。その頃まで僕と彼女のこの関係が続いていたらの話だけれど。

 ポケットからスマホを出して時間を確認すると、ちょうど四時三十分だった。授業が終わって大体二十分が経っていた。二十分間、この雨音しかない状況に立たされていたともとることができる。だからといってどうということもなかった。ただ、僕が今日も彼女から離れる事ができなかったというだけのことだった。

「春音」

 過澄聖が僕の方を見ずに僕の名前を呼んだ。通常の声よりも小さなものだったけれど、雨音のなかでもしっかりとその声は僕の耳に届いて主張していた。神経質になっていた。

「なに?」

 僕が問うと。彼女は驚いたような顔をした。どうやら聞こえるとは思っていなかったのだろう。時たま、彼女の自分の世界で呟いた事がこちらの世界に伝わることがあった。

「あ、いや、なんていうかさ」

 しどろもどろになりながら彼女は僕の方を見た。その瞳は揺れていて緊張しているように思えた。心なしか唇も震えていたように思える。多分その唇は小刻みに震えていて、何かを必死に伝えようとしているみたいだった。

「春音は、なんで私と一緒にいてくれるの?」

 さすがにここでいつも思っているみたいな、自己中心的な考えを披露してしまうのは可哀想だと思った。僕にも良心がある。そんな自己中心的な事を思って、僕は口をつぐむ。

「……また、難しい質問だね」

 正直、今は彼女と一緒にいたところで利益も不利益も無かった。いてもいなくてもどうでもいい。彼女がもし教室に来たり、僕がだれかと一緒にいるときに話しかけられると僕の学校生活が脅かされるという事が重要なだけであって、今こうして彼女と話していること自体になにか意味や利益が生まれている訳では無い。ただ、なんとなく一緒に過ごしているというだけ。その行為にそれ以上の価値もそれ以下の価値もない。

 なにか意味が生まれると素晴らしいのだろうけれど。

「なんとなく」

 僕のあやふやな言葉に彼女は「そっか」と曖昧な言葉を返す。やはりこの関係には特に生産性も生まれない。無駄な時間とさえ思える。ただ、なんとなく、それでも良いんじゃないかと思う自分もいた。少なからず、傷つけたくないという理由をいつまでも握りしめてうずくまっている今の人間が彼女を切り捨てる選択が出来ないことは確かなことで、今更完璧な学校生活を送ることなんてできないんじゃないかと思っている自分もいた。そういう漠然とした不安があった。

 寛平で無い学校生活は意味があるのだろうか。否。答えは不要だろう。

 今の自分の生活には意味があるのだろうか。

 意味が無いのだとしたら、何をすれば良いのだろうか。よくわからない。

 彼女と関わって、おおきくずれた感覚はあった。もう、戻れないのだ。あのころの完璧だと思っていた時間は。

 それに気がついてしまった。もう、取り返しがつかなかった。

 それに気がついてしまって、頭が真っ白になった。

 きっと、それは必要な事だったのだと思う。

 自分が自暴自棄になった、という事を自覚するために必要な事だったのだ。自暴自棄、とは少し違う。多分、自傷的ななにかで、快感を求めて、解放を求めて行われた一つの読経のようなもの。大人になるために必要だった行為のこと。それが僕は周りと少し違って、大学生になった今でも終わっていないと言うだけに過ぎない。たったそれだけの事だ。


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