第4話

 早く、彼女から離れるべきだと理解していたはずだった。完全な他人に戻る事は難しくとも、学校の中で会わないようにするとかそういう些細なことは意識するつもりだった。それが僕の求めている生活に近づく、と。

 けれど、彼女が教室に来たあの日から一ヶ月ほど経っても僕は彼女と学校で会っている。さすがに教室までやってきたのはあれきりのことで、それ以外はまた移動教室の時だけ時折授業に出席するという、彼女のルーティーンに戻っていた。

 彼女と話しているのはもっぱら放課後の屋上に続く扉の前。そこの踊り場で、僕らは地べたに座り込んで時間を潰していた。放課後、家の鍵を忘れた僕が一人で考え事をしていたときに見つかったのだ。その日からなぜか欠かさず毎日僕らは会っていた。いつの間にか、ルーティンみたいになっていた。言い訳ではない。今考えてもよくわからない。

 僕は鍵のかかった扉に背を預け、左側の壁面に座ってもたれている過澄聖の頭上数センチに設置されている窓から空を眺めていた。昨日はそこから青が見えていたのだけれど、その日は灰色が見えていて透明な水滴がいびつに灰色を強調させていた。

「雨、止まないね」

 彼女が呟いた。雨が降っていたから多分、いつもより声のトーンは低かったと思う。

 大きな雨粒が落ちたのか、大きな音が絶え間なく踊り場に響いていた。合唱のような、銃撃戦のような、そんな音だった。耳を塞ぎたくなる衝動を抑えて、僕は雨空を見た。曇天で、暗いようにも思えた。雲はいつもよりほんのすこし高くて季節の変わり目を感じた。

「もう、教室に来ないの?」

 彼女に向けて、そう問いかけた。過澄聖はきょとんとして、質問に対して質問を返した。

「反対に、春音は来てほしいの?」

 この頃には過澄聖は僕のことを下の名前で言うようになっていた。彼女なりの距離の詰め方、なのだと思う。彼女はしきりに僕に向かって下の名前で呼ぶことを強要したけれど、僕が頑なに苗字を貫いていたからいつの間にか彼女は諦めて、僕は苗字で彼女は下の名前で呼び合うことになった。彼女曰く、「下の名前は親の思いが詰まっているから、大切」なのだそうだ。

「過澄が教室で僕に話しかけないのなら」

「なんだよ、それ」

 過澄聖は関西人が突っ込むみたいにして右手で虚空を叩いた。

「過澄が僕に話しかけると変に注目されるんだよ。君が目立たなかったらいい話なんだけど、もう無理そうだし」

 嫌味を含めて言っていたと思う。現に、僕は褒められた性格の人間ではない。自己中心的で自分の事しか考えていない。彼女に言っていたことも自衛、といえば聞こえはいいが、一歩間違えればいじめと同じ扱いになるものごとについてだったわけだ。

「無理だね。残念ながら。というか、勘違いしていると思うんだけど、私だって目立ちたくて目立ってるわけじゃないの。ちょっとみんなとちがうだけなの」

「結果的に目立っていたら意味ない」

「そうなんだけどさー」

 彼女は苦笑いをこぼして僕を見た。真剣なまなざしで、僕の心を絡め取った後。

「難しいね」

 彼女はそう言って考えを放棄した。自分の考えがうまくまとまらない時や自身の答えたくない物事に直面すると彼女は「難しいね」と言って、考えを放棄していた。

 考えるのを放棄した彼女をまた思考の海へ戻すにはとても労力がかかる、ということは一度身をもって体験したので「そうだね」とだけ相づちを打って地面に視線を落とした。労力以外にも、彼女が何年もかけて必死に築きあげたものを壊すのは、僕の信条に反するような気がしたのだ。彼女の自衛手段を防いだとて、僕にすぐさま影響がやってくるわけではない。例えば三年の月日を経て影響が出てくる場合があるのだ。

 僕は目を閉じて、雨音に耳を傾ける。小さく、過澄聖が鼻歌を歌い始めたのがわかった。糸のような細い鼻歌は階段を転がって原形をなくしていく。僕らの未来のように。

「そういえばさ、過澄って部活入っていたの?」

 過去形にして聞いたのは意図的で、とっくの前に退部でもしているだろうと想像していたからだ。僕の無為で些細な心遣いだった。

「あー美術部。まだ、一応入ってるよ」

 なんだよ、入っているのかよと思いつつも僕は「へー」と返事を返した。

 それにしても意外に思えた。彼女は部活なんて入っていないものだと思っていた。一年の夏休みの時期とか、そこら辺でやめているものかと勝手に思っていた。彼女の置かれている状況的に、部活を楽しめないだろうと思っていた。

「なに、その反応。ひどいな。悲しいな」

 彼女は芝居めいた口調で言った。

 過澄聖と深く関わってからわかったことだけれど、過澄聖は結構軽い人間だった。それは悪い意味ではなくて、良い意味で軽い人間だった。フットワーク、人との関係性、会話。全てが羽のように軽かった。多くの人からは快く思えないだろう。けれど、僕にとっては彼女のその軽さがとてもありがたかった。僕が軽薄だったということに通ずる部分があるのだろうと勝手に思っている。

「少し驚いていただけだよ。それをどう表現しようかと考えていたら、ちょっと淡泊な感じになっただけで、それに意味は無い。まあ、あの一言にいろいろな感情がこもっていると思ってもらって大丈夫」

「ははっ、本当に面倒な感じの返答をするよね。春音は」

 軽く笑い飛ばす彼女のその反応は僕にとっては過ごしやすかった。表面だけしか聞いていないような、そういう軽薄さ。薄っぺらさ。僕のマイナスな思考回路を救ってくれるようにも感じたし、彼女のパーソナルスペースを明確に察知できるような気がしていた。

 そもそも、僕は彼女がなぜ高校で孤立しているのか、その理由さえ知らなかったのだ。なにかしら理由はあるのだろうけれど、僕はその理由を自分自身の生来からくる性格のせいでその情報を手にはしていなかった。

「過澄、あのさ」

 過澄聖がその瞳を向けたのを今でも覚えている。やけに透き通っていた。あれ以上にきれいな瞳はあれから見られていない。湿度が高いからか彼女の長髪は膨らんでいた。先ほどまで壁に預けていた部分はへこんでいて、それ以外がドレスのフリルのように軽く舞っていた。

 どうして学校で孤立して。そう続けようとしてやめた。続けたところで彼女を傷つけてしまうだろうと思ったからだ。それに聞いたところで何になるのか、わからなかった。僕のためになるのか、彼女のためになるのかもわからなかった。僕は博愛主義の人間ではなかったわけだから、聞いたところで彼女にとっても僕にとっても良いところは何も無いはずだった。それは彼女も望んでいないことだったろうし、なにより僕の信条に反していた。彼女にこれ以上深入りすることは僕の本能が拒否していた。僕は学校生活というものに関して色付かなくても良いと思っていたはずだった。綺麗な色だろうと、汚い色だろうと、染まるのはだめだと思っていた。だから、彼女にこれ以上関わって、僕が傷付き、高校生活が色付くのならそれはいただけないことだった。

 関わらないことが僕にとっても彼女にとっても良いこと。関わること全てが良いことじゃないだろうにと、全部が終わってから言えることだった。

 僕は結局、「もうそろそろ帰る」とだけ言って立ち上がった。バックを手に持って階段を下り始めた。雨は先ほどよりも強く地面を叩いていた。

「えっ……そっか。雨強いから気を付けてね」

「過澄も」

 そう返して、僕は彼女から離れた。灰色に色付いている階段にスリッパの底がひっついてキュッ、と甲高い音が鳴ったことが泣いているみたいだと思えた。過澄聖にその音が聞こえるのがなぜか申し訳なく感じて、僕は足音を殺して階段を下っていったと思う。思ったよりも僕は彼女の事を気遣っているのかもしれないなんて、ありもしないことを考えた事をはっきり覚えている。

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