第5話
一
雨音がはじけた。
はっとして瞬きを繰り返す。少しずつ疲れで散らばっていた思考がまとまっていく。
全てまとめ終わった頃には乗る予定だった目の前から電車が過ぎていって、ため息が漏れた。次の電車は十分後だった。
携帯の液晶に通知が映る。大学で知り合った御木本という人間からだった。下の名前は知らない。聞いたはずだったが、それも二年前のことだからノイズがかっている。大学内で話す人の居なかった自分にとって、話しかけてきてくれた御木本の事はとてもありがたかった。今となってはそう思える。人間と話すという一つがあるだけで僕が人間でいると認識できることが出来るからだ。まるで自分だけ幽霊か透明な何かになっているように思えることを防げる。それは自分が生きている証明になる。昔は、とくに高校生時代は自分が何かに染まらないように、完璧を目指していたはずなのにおかしなこともあるものだ。
僕は御木本に返信をして、ぼんやりと空を見上げる。空を覆い尽くす曇天。泣いているかのように落ちてくる雨。それが地面に当たって、線路上に当たって、屋根に当たって、泣き声を漏らす。閉塞感すら感じる空気感に思わず泣きそうになってしまう。こんなに自分が弱いと思わなかった。
つんとした鼻を軽く指でつまんで感情をごまかす。元々理解できていなかった自分の事がよりわからなくなった気がした。
左手に握ったままだったスマホの液晶が灯って、御木本から返信が来たことがわかった。どうやら僕の家近くで飲んでいるらしい。そのまま帰ったら家に来そうだから、軽く顔を見せてさっさと帰ろう。そう思って、適当な返事を返す。出費は痛いが仕方ないと自分を納得させた。
御木本から急がせるような言葉だけを受け取って、僕はスマホをポケットに入れる。御木本の叫びがスマホを震わせた。僕はそれを無視した。
ホームの天井から光り輝いている白熱灯の光が線路に鈍く反射していた。雨粒に打たれて形を揺らめかせながら誘導灯のようになっている。間違えて黄色い線を越えてしまいそうになるくらいに、それは綺麗に映った。
そんな考えばかりが頭の中で巡ってしまって、酔いそうになった。疲労のせいだろう。だからか、過澄のことを思い出した。頭痛とともに久しぶりに思い出した。
頭を振って思考を払う。頭痛がわずかに治まったような気がした。眠るときにでも彼女の事を思い出せば良いと思った。深層に眠った記憶のままでいて、表層まで来なければどうなっていても良かった。彼女という存在や概念が僕の中で大切な記憶になっていようが、僕の中でトラウマ的な記憶になっていようがどうでも良かった。今となっては表層に躍り出てきてトラウマになって僕を殺そうとしてきているから、そんな悠長な事は言っていられない。彼女はいつまで経っても僕の事をかき乱す。いつだって平穏を壊すのだ。いつだって勝手だった過澄の事だから、笑ってどうでも良いかのようににへらな笑みを浮かべて、壊しにかかるのだ。僕の事情なんて彼女は知らなかった。いつだって、そうだった。
過澄の事を考えているといつの間にか目の前に電車がやってきて、今度こそ乗り込んだ。車窓から眺める景色は暗く、席に座っているサラリーマンの表情は疲れ切っていた。
僕は扉の前に陣取って、すぐ脇にある手すりに手を伸ばした。また、ため息が漏れた。
大学生になったら時間的猶予が生まれる。そんなことを思っていたけれど、資格のための講義だったり、これからの未来についてだったりを考えていたら、そんな時間的猶予も無く、モラトリアムだとかを感じる暇なく、いつの間にか二十歳になった。もう冬になった。あと少しで年は明ける。時間は残酷だった。
何回か扉が開いて空気が入ってきた。雨の降っている日特有の湿度のある、ぬるい空気だった。
最寄りに着いて、御木本に着いたことを連絡し足早に向かう。
御木本の居る居酒屋は個人経営の寂れたところで、店の看板は色褪せていて店名はほとんど見えない。外観はいわゆる居酒屋、のような一目見てわかるような外観をしている。のれんが掛かっていて、扉は引き戸。ガラガラと立て付けの悪い扉を開けると脂っこいにおいと酒のくどいにおいがあって、遅れて人の声がやってくる。
店の奥にあるボックス席に見覚えのある後頭部を見つけてその背中に声をかけた。
「来たぞ」
僕の声に反応して御木本がこちらを向く。その表情は平常と特に変わっていないように見えるが、こいつはザルだ。僕が来る前に何杯飲んだのか、考えたくもない。そして僕がこれからどれほどの量飲まされるのか。明日も大学なのに二日酔いなんて笑えないし救えない。
「今日は付き合え」
御木本はそうとだけ言って手の中で汗をかいているビールの入ったジョッキを傾けた。僕が彼の向かいに座ると、「生、もう一杯追加で」と御木本が注文した。僕の分だろう。逃げられなさそうだ。
「仕方ない。少しだけなら付き合うよ」
そう来なくちゃ、と楽しそうに御木本は言ってビールを煽った。染み入るような声を出してジョッキを机の上に置いた。
「珍しいな、僕を呼ぶなんて」
御木本が僕の言葉に笑ってまた水のようにビールを飲んだ。早死にしそうだなと思いながらそれをぼんやりと眺める。
ジョッキを置いて、かるく咳払いした後で御木本は真剣そうな眼差しを向ける。
「俺たちも大学生になったんだよ」
そりゃそうだ。一年と少しまえから大学生になった。明確な線引きは無くとも、僕らは大学生になったのだ。いつの間にか、流れるように。漠然と、なったのだ。
僕は言葉の続きを待つ。
「大学生になったというのに、俺たちは何をしている?」
彼の一言が、僕の心臓に刺さった。ただの酔っ払いの言葉にわずかになびいた。
何をしている、と聞かれたら僕は世間一般の大学生のように学びに励んでいるといえる。ただそれ以上も以下もない。ただ僕らになにかが不足しているというのも紛れもない事実だった。
僕の無言を自身への肯定だと思ったのか御木本が大きく頷いた。
「そう、何もしていないんだよ。大学生らしい事も何もかも。俺たちはモラトリアムという素晴らしき期間を無駄にしているんだよ!」
モラトリアムなんていう、もう機能していない夢の期間について彼は思いを馳せているらしかった。今の時代、モラトリアムという停滞期間、猶予期間なんてものはないだろう。大学に入り、僕らの生活は全てガクチカ、いわゆる学校生活で力を入れたことを探す、または作るために使われる。一年次は大学に慣れるために時間を使い、二年次には意味なくボランティアやなにか、俗世間的に素晴らしい、良い行いと呼ばれる物に時間を使う。その行為をしている自分に酔っているのだ。三年次には就職の事を考え、四年次には就活だ。休む暇なんてものはない。あるのは自分をよりよく見せようとするグロテスクなものばかり。そこに本当の自分なんてものは無いだろうし、大抵は虚像だ。虚像に、虚構に思いを馳せるのだ。僕らは。常に選択を迫られている。逃げる余地なんて、大人たちの時代とは違ってきっとないのだ。逃げたら待っているのは社会的な死のみで、それは大人たちの生きてきた時代よりも簡単に陥ってしまう。
僕は酔っ払っているのかそれともただ単に気分よく話しているだけなのかよくわからない御木本の話に耳を傾ける。
「人生の事を振り返る時間や、ただ今を見つめ直す時間は必要だろう? それをしないというのは人生的な死を指しているのではないだろうか。簡単に言えばそうだな……自分を見失う人間が増えてしまうのでは無いだろうか。自分の限界を知らぬまま生きてしまうのではないだろうか。そうだ、きっとそうなんだよ。モラトリアムというものがなければしっかりと俯瞰的に自分や、社会のことをみることができないのだよ。目眩く進んでいく人生や社会に圧死させられてしまうのでは無いだろうか。なあ、お前さんよ」
こいつは酔うと人の名前を思い出せなくなるというわかりやすい特徴がある。まあ、元々覚悟はしていたがまさかここまでできあがっていたとは思わなかった。見た目の割に中々呑んでいたらしかった。
ビールが僕の目の前に置かれる。炭酸が琥珀色の液体の中を循環している。ジョッキは白んでいて、よく冷えているように思えた。意を決して一口飲む。苦い。
僕が一口飲んだことを皮切りに、御木本の目が据わった。どうやら本格的に彼のありがたいお言葉が始まるらしい。
「お前さん、お前さんは、後悔しているだろう。なにかに、後悔しているだろう。お前さんだけではない。きっとみんなそうだろう。きっとな、そうなんだよ。それだから、それだからお前さんは過去を見つめ直す機会が必要なのだよ。ああ、そうなんだ」
饒舌に言葉を重ねていく御木本の姿はどこか子供じみて見えて、同級生なのにと違和感を感じながら僕は一口ビールを飲む。
けれど、なんとなく御木本の気持ちがわかる気がした。人生の一ページを僕らは何度も読み飛ばして、見飛ばしている。今は覚えていない一瞬に、目を背けてしまったその一瞬に、思いを馳せる。意味なく詩的になにかを表現し美化する。それは良いことなのか、よくわからない。ただ、生きることに必要な物のような気はする。モラトリアムに関わらず、自分の事を振り返る時期だったり、逃げに助けを求めることだったり。僕らには必要な時間なはずなのだ。ただ、出来ない時間が増えてしまっているだけで、本当は必要なのだ。生命のサイクルとして、大学生として生きる時間として享受されるべきなのだ。
「……そうなんだろうな」
オウム返しのように呟いた言葉は思ったよりもか細くて、すぐに居酒屋の喧噪にかき消されてしまった。心の隅にたまった思いが言葉になった程度のものだったから、それくらいの小さな声でもよかったのだけれど、それがやけに悲しく思えてしまった。自分の意見が否定されてしまったような気がしてしまった。ただの思い込みなのだけれど。
ビールをひと思いに飲み下して、机の上にジョッキを置く。残された白い泡がひとりでに弾けた。
「なあ、お前さん」
しゃがれた声で御木本は言って、おもむろに手を伸ばした。失った時間を取り戻すように。
「お前さんは、今、楽しいか?」
なんだよ、それ。そんな芯を捉えたような言葉言うなよ。勝手に僕の事をわかった気になるなよ。道化になってくれよ。
「……どうなんだろ。んなことわかんねえよ」
他人のこともわからないのに、自分のことを理解するなんてできっこないだろう。成長したところで、ただ体が大きくなっただけで、自分の事をはっきりとわかっていない。
自分が大人になったかさえ未だにわかっていないのだ。
「……すまんな」
御木本が申し訳無さそうにつぶやいた。それに泣きそうになってしまったあたり、僕も酔い始めているのかもしれない。きっとそうだ。
ああ、くそ。
これも全部、過澄を思い出したせいだ。あの死人を思い出したせいだ。
「いや、こっちこそ」
ここで御木本が謝るというのもお門違いというものだろう。悪いのは僕自身なのだから。自分の子供っぽさが嫌になる。
朦朧とした頭で考える。
もし、僕が過去の事を乗り越えられたらどうだろう。もし、僕がモラトリアムを有効活用できたとしたらどうだろう。昔の人間のように自らを見つめ直す期間として大学生の有り余る時間を使うとしたらどうなるんだろう。少しは誰かに誇れる道を進めるのだろうか。
きっと、そんな人間にはなれないのだろう。せいぜい、今の感傷的な人生が、少しだけ変わるだけなんだろう。少なくとも、僕が過澄を見殺しにしたことは変わらないのだ。罪の償いなんて、当事者がいなければ成り立たない。当事者のいない償いはただの自己満足にしかならないのだ。
目の前にいる御木本を見る。彼は、中身の少ないジョッキをちびちびと大切そうに飲んでいた。時折、思い出したように僕の方を見て申し訳なさそうな表情になる。彼にとっては楽しいと返してほしかったのか、それとも彼に同調して楽しくないと、過去の方がいいと言ってほしかったのだろうか。
答えのわからない物ばかりだった、
半分ほど残っていたビールを一気に飲み込んだ。一瞬足下が浮いたような気がして、また地面に落ち着いた。
「生、もう一杯」
僕の言葉に御木本は安心したような表情を浮かべ、自身のビールを飲みきった。そして同じように注文した後ニッと笑った、僕が出来るのはこうやって少しでも罪をなくす事だろうか。
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