第2話
それだから、その週の休日に姉に頼まれ訪れたCDショップで私服姿の彼女に出会ったときは、心臓が止まるかと思った。それが普通の出会いならば素知らぬふりで通り過ぎたわけだが、問題の人がCDの試聴をしながら泣いているというのだから、無視するのも忍びなく思えてしまって、数十秒の間じっと凝視してしまった。その時間は過澄聖が僕という存在に気づくには十分すぎる時間だったらしく、彼女は僕を見つけて、その濡れた目でこちらを見つめた。睫毛に水滴が残っていてそれがやけに綺麗に見えた。彼女はとあるバントの新曲を聞いていた。たしかあれは、「She is lost」。
「あっ」
過澄聖が声を漏らす。僕はどう対応すればいいのかわからずに彼女を見ていた。この場合、視線をそらすのも失礼だと思った。
どうして泣いているのかとかそういうことを聞く勇気すら無く、そもそも僕が首を突っ込んではいけないものなのかもしれないと彼女と関わらないで済む言い訳を考えていた。結局僕はそもそも彼女に理由を聞くこと自体が無駄であると信条に沿って判断したわけで責められることをしたわけではないと思う。薄情かもしれないけれど、自分を守ることを否定されるほど、この世界は厳しくもないことは確かだった。
「同じクラスの……」
過澄聖はそこまで言って止まった。その時気がついたことだが、僕は過澄聖に名乗っていなかった。もう関わりが無くなると思っていたから。けれど、ここで名乗らないというのは無礼なことだと思っていた。
そんなことを考えていると過澄聖はにへらな笑みを浮かべてごめんねと謝罪した。
「えーっと、あのさ、弁解したいからちょっとだけ時間もらえる?」
妥当な判断だと思った。彼女が高校生であるなら、尚更。ただ、本音を言うなら嫌だった。僕は他人が泣いていたとかを無闇矢鱈に吹聴する趣味はなかったからだ。けれど、ここは彼女の意志を尊重することを決めた。ここで大仰に言える断る言い訳も思いつかなかったし、筋合いもなかったし、彼女に僕の信条を語る必要もないのだ。ただ一番の失敗を挙げるとするならやはり僕はここで彼女から逃げるべきだったのだと思う。このときすでに僕は自分の完璧を捨ててしまったのだ。この時点で僕は彼女の術中にはまっていた。
僕は首を縦に振って過澄聖と一緒にCDショップから出た。春だからあまり気温差を感じなかったが、日があたる分少しだけ外の方が暖かかった。
僕らはCDショップの近くにある公園に向かった。人が少ないところがそれくらいしか思いつかなかったし、話せそうな場所がほかになかった。
休日だというのに子供はおらず、公園は静かだった。住宅街の近くにあるはずだが、今の子供たちはみんな家でゲームでもしているのだろう。僕が子供の時代は公園で集まってゲームをしていたけれど、インターネットが発達した今わざわざ集まらなくともよくなったのかもしれない。どちらにせよ、いい時代になった。
入り口にボール遊び禁止と書かれた看板を流し見て、公園に入る。隅にあるベンチに腰掛けると過澄聖は未だ腫れた目で僕を見つめて気まずそうに笑った。泣いているところを見られたのだから当然の反応に思えた。
「えーと……過澄聖です。ろ過の過に澄んだ空気の澄、聖なる聖でひじりって読みます。そんで過澄聖」
知っていた。一回会っていたし同じクラスの問題児として認識していたからそうそう忘れられるものではない。僕はその言葉を飲み込み、頷くことで話の続きを促した。
「同じクラス、だよね」
「そうだね。同じクラス。二年一組」
僕がそう返すと、過澄聖はほっとしたように笑って「よかった」とつぶやき、申し訳なさそうに手を合わせた。先ほどのことを謝っているのだろう。謝る筋合いがないような気がするが、彼女にとっては気まずいところを見られ、その弁解のためにわざわざ公園のベンチまで来てもらったのだから、そう思って仕方ないのかもしれない。
「ごめんね、気まずいよね」
とても気まずかった。
僕は咳払いして、気持ちを切り替える。たしかに気まずいけれど今ここで逃げるメリットがない。付いてきてしまったから過澄聖の話を聞くのが一番無駄を省ける。これ以上彼女と関わり合いになりたくはなかった。
僕は曖昧な笑みを浮かべる過澄聖に向かって「そんなことないよ」とかいう意味の無い言葉をかけた。しかし、彼女はその表面的で意味の無い言葉をかけられたことで安心したようだった。
「ありがとう」
にこやかな笑みを浮かべた後、過澄聖は口を開いた。その声はわずかに上ずっていた。
「なんて表現すればいいのかわかんないんだけど、今言えることは、あの涙に特に大きな意味は無いってこと」
「そうなんだ」
素っ気ない返事になったのはわかりきっていたことを言われたとかそういう訳ではなく、ただ単に彼女の事情に対して興味が沸いていなかったからだ。それにたまたま過澄聖とはこうして会ってしまったが、これが終われば彼女と接する機会なんてなくなると思っていた。偶然の産物が永遠と続くわけはないのだし、僕は彼女の人生のワンシーンの埋め合わせに使われているだけなのだから多少おざなりな対応になったとしても彼女の記憶に染みつくことはないだろうと思った。ほとんど、僕の願望だったことは否定できない。
「たまにさ、ない? 無力感とか希死念慮っていうのかな。そういうものに押しつぶされそうになること」
わからない。ずっとわかっていない。けれど、高校生という年齢を鑑みるとそれが普通なことだと思う。僕のように損得の感情で動く人間の方が少ない。やはり彼女の方が高校生らしい。いっそ怖いくらいに。
僕は適当に「あるよ。そういうとき」とか言った。全くないし、わからないけれど。でも、それでいいと思っていた。こういうときは相手に同情しておけば間違いがないからだ。それが一番穏便に済むし、一番無駄のない結果を生み出す。
「だよね。よかった」
過澄聖はやっぱり薄っぺらい言葉をそのままの意味で受け取った。
それから元々用意していた言葉を言うかのように、よどみなく過澄聖は続きを話した。イヤホンを聞いていれば熱狂的なファンだと勘違いしてもらえる可能性があること、いつもなら自分の音楽プレーヤーを使っているがそれをちょうど忘れてしまって、急遽試聴で乗り越えたこと、僕に見つかって怖かったこと、不安だったこと、これから関わりが増えるかもしれないから変な誤解を持ってほしくないということ。
「でも、まさか見つかるのがキミだとは思わなかったよ。本当に」
雨の降っている中、誰かに傘をさしてもらったときのようなしっとりとした声色で、吹っ切れたような、爽やかな表情を彼女はしていた。
「これも何かの縁だね」
過澄聖は僕をじっと見つめた。まんまるな猫みたいな瞳で見ていた。飲み込まれそうになるほどに彼女の瞳は黒く美しいものだった。闇に似ていたからだろう。
「これから、よろしくね。えーと……」
そこでやっと過澄聖は僕の名前を聞いていないことに気がついたらしい。慌てたように「ごめん。名前なんだっけ?」と聞いてきた。
「サクラ」
彼女はふむふむと頷いて、口の中でサクラと言葉を転がしていた。
「苗字は?」
「あ、苗字がサクラ」
「そうなの? 難しい方の櫻? それとも簡単な桜?」
「難しい方」
過澄聖はへー、と驚いたように言った。続けて。
「じゃあ、下の方は?」
「ハルト。春の音で春音」
過澄聖は口の中で何度も何度も櫻春音と呪文のように呟いたあとに、大きく頷いた。
「これからよろしくね、櫻くん」
正直、そのこれからがないことを祈っていた。
「うん、よろしく。過澄さん」
しかしどうやら僕の祈りは神様にはうまく届かなかったらしい。
姉のおつかいを果たしていない事に気がついたのは家に着いてからだった。
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