アンダーグラウンド
宵町いつか
第1話
約束を忘れたあなたへ。
特別さを捨てたあなたへ。
間違ってしまったあなたへ。
四
そのときの僕は完璧を生きる上での信条としていた。モットーにしていた。平和で、信頼のある、完璧で無駄のない学生生活を求めていた。それが僕が十七年間で形成した自身の人格に必要な行動であったような気がする。今となってはそれは見る影もなく、人間は表面的部分や思想的部分、行動的部分はすぐに変化してしまう。それがいいことなのか悪いことなのか、いつまでたってもわからない。
とにかくだ。そのときは無駄なことを青春だとか、教師に反抗することに意味を見いだすことはそのときの僕には到底理解できるものではなく、そのような行動をしている人間には関わらないようにしていた。僕は無駄に染まらないようにしていた。アニメや小説のように、すべてに意味を見いだしたかった。些細なものにさえ、例えば一瞬視界に写った太陽の光にさえも意味を見出そうとしていた。厨二病のきらいがあった。
はじめて
「また居ないのか、あいつは」
先生が過澄聖に向けてよく言っていた言葉。年の取った、中年の担任だった。その担任は彼女をとても嫌っていた。面倒に思っていたという方が正確だろう。なぜかというと。授業に出席せず学校のどこかにいつも逃げていたからだ。教師からしたら面倒以外の何物でも無い。彼女が出席していた授業は大抵、教室以外で行われるものだけでごく稀に教室に顔を出した。彼女の出る授業の大半は楽なものばかりだった。
クラスメイトからはどこか腫れ物かのように扱われていて、クラスでは浮いていた。というより、学校自体から浮いていた。そもそも彼女がそれをもう望んでいなかったから仕方ないのかもしれない。
僕が彼女に向けていた視線はほかのクラスメイトとは少し違った物になっていたはずだった。穿った見方、というわけではなくそもそも僕は彼女を理解することが出来ていなかったから、ただの素行不良の人間くらいにしか思っていなかった。僕はクラスメイトたちよりも持っている情報が圧倒的に少なかった。それは僕が世間に興味が無かったというか、ただ自分に興味のあることしか情報を集めていなかったからという、どこまでも自己中心的なものなのだけれど、それはどうでもいい。些末な問題だ。ただ、クラスメイトや学校の人間たちは僕よりも正確に彼女という人間を把握していた。彼女には関わってはいけない、という生存本能に似たプライバシーやプライベートなどの自己境界を守る警戒性が周囲の人間にはしっかりと備わっていただけの話だった。
その日、僕は先生に頼まれて昼休みの時間を次の授業準備に使わされていた。理科の授業だったか、美術の授業だったか。もう今では釈然としていない。ただ、とてつもない量の荷物を持たされて、いつもろくに使わない筋肉が悲鳴を上げていたことをいやに覚えている。
「お疲れ様だね」
教員すらも使わない、特別棟の隅にある階段の前で彼女は僕を笑っていた。逆光だったから正確にはわからないけれど、彼女の性格を知ってしまった人間からしてみると多分笑っていたと思う。にっこり、気持ち悪いくらい笑っていた。
彼女の履いているスリッパの色から同級生ということはわかったけれど、それ以上のことがまだわからなかった。だから彼女があの同じクラスの過澄聖、ということに気がつくまで少々の時間を要した。彼女の事を正確に把握出来ていなかった間は意味なく、神聖ななにかのように思えた。メシアのようななにかのようにさえ思えた。
僕は彼女に軽い会釈をして、彼女を無視した。まずは教師から課せられたものを遂行することが僕の一番やるべきことだったからだ。どこの骨とも知らぬ人間に時間を使っている暇なんて無かった。
教室の前、先生の使っている大きな机の上に資料を置いて、僕はさっさと自分の教室に戻ろうと思って、扉の方を向いた。黒い防火対策のされた机だったから多分理科室だ。
「偉いね、キミ」
教室の出入り口を塞ぐように立っている彼女は、静かながらに凜とした通りやすい声を発した。薄暗い教室に染み渡るようなその声は彼女の性格と正反対のように思えるけども、彼女と関わり終わってしまった今となってはその声も彼女の性格をよく表していると思える。いつまでも彼女は自分の意見を通そうとしていた。陰ながらになるけれど。
「……どうも」
この人は変な人なんだろうな、と思った。だって彼女の発言は客観的に考えて。ほとんど初対面の同級生に向かって発言する言葉ではなかったからだ。お疲れ様だね、偉いね。どれも僕に向けられるべくして向けられたものではない。そのときの僕は彼女をそう評価したし、実際彼女は変な人間だった。そしてそれを自覚していたから尚更たちが悪かったのだと思う。
「多分、同じクラスの人だよね。二年、何組かの」
この人、自分のクラスさえ覚えてないのかと思った。目の前の人間を過澄聖だと知らないから出た感情だった。けれど、知ってしまった身からすると、それも仕方ないと思う。だって彼女は教室にろくに顔を出していないのだから。それに二年生も始まってまだ一ヶ月と経っていない。そのときの僕だって、たまにクラスだったり学年を間違えたりする。あまり彼女のことを否定しきれなかった。
彼女は首筋を爪で軽く引っかいて困ったように言った。赤い線が伸びた。陽に透かされて、赤みの中の青さが鮮やかに映った。
「場所しか覚えてないからな……ごめんね。同じクラスじゃなかったらごめん。えーと、過澄聖って言うんだけど。聞いたことない?」
彼女は首をこてんと傾げてこちらを伺っていた。やけに演技じみていたから多分演技だろう。
彼女の名前を聞いて、僕はすぐに目の前に居る人間の異常性に気が付いた。ああ、こいつが、なんて、初対面に向けるべき感情ではないものを向けてしまった。変な人、と評価してしまったことはこの際棚に上げさせてもらう。
僕はなんと言おうかと考えた。少しでも彼女を傷つけない言葉を探していた。当たり障りのない言葉を探していた。彼女のことを可哀想だとか同情を向けているわけじゃなかった。どちらかというと、僕が失言してしまって過澄聖という人間に目を付けられてしまっては今後の学生生活に支障が出るほうを危惧していた。そうしたら無駄が出る。それだけはどうしても避けたかった。この場所から早く逃げられる事を願っていた。とにかく僕は無駄というものを極端に嫌っていた。
「同じクラスだから、知ってるよ。名前くらい」
僕が絞りだした言葉は、この上なく普遍的だったように思える。この場で出せる一番の正解なはずだった。
過澄は僕の言葉を聞いてふっと、息を吐くように笑った。それほど自然な笑みだった。その部分だけ見ると目の前の人はただの一般人にしか見えなくて、学校で浮いているなんて微塵も感じられなかった。
僕は彼女の好反応に胸をなで下ろした。ひとまず、僕は自分の学生生活を守ることが出来たのかもしれなかった。
しかし過澄の自然な笑みはその一瞬だけで、また無表情に似た顔に戻った。ゆらりと体が揺れて、彼女は「それじゃ」とその場から足音を立てずに消えていった。そのとき、昼休みがあと五分で終わることを知らせるチャイムが鳴ったことを覚えている。
僕は彼女の残した余韻を体に打ち付けられるようなほど感じ、少しの間だけ動けなくなった。それは彼女に惚れたとか言うメルヘンチックなものではなく、ロマンチックなものでもなく、純粋に彼女の不思議さに当てられただけだった。ただ、脳が彼女を理解していなかっただけだった。
その日、残っていた授業は彼女のせいでろくに身が入らず、ぼんやりと春のうららかさに当てられてしまって上の空になってしまった。意味なく一点を見つめていた。
僕は逃げるように帰路についた。そのときはただ逃げていたけれど今となっては、今の自分に意味を見いだせなくなってしまったからだと理解できる。いつもならするクラスメイトたちとの雑談に興じることもなく、さっさとバッグを持って学校から逃げた。厳密には過澄聖という人間から逃げたという方が近いだろうか。少なからず、僕は彼女に苦手意識というか、畏怖の念を持っていた。全ての高校生を煮詰めて作った高校生のような、純度の高さを感じたからだ。僕と過澄聖には壁と見紛うような差があった。
恐怖を感じながらも僕は安心していた。僕と過澄聖にはクラスメイトというだけの接点しかなかったわけだから、彼女の「それじゃ」は僕にとってさようならと同じ響きを保っていた。二度と会わないという確信があった。
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