5-2 今度は自分の番

 演奏するのは『ペクトライト』だ。


 柚木園雫との出会いの曲であり、代わり映えのしなかった知世の人生を変えてくれた曲。

 大好きで、大切で、雫の推し曲は何ですか? と問われたら迷いなくこの曲を挙げるだろう。『ペクトライト』が主題歌になっている劇場アニメ『残夢のフラーテル』には雫も声優として出演していて、芯の強いお姫様を演じている。そんな強くて優しいキャラクターの想いを背負っているからこそ前向きな曲になっていて、知世もたくさん救われてきた。


 ――そして、今も。


 雫のためとか言いながら、知世は曲の力に救われている。


(……はは)


 弾きながら、心の中で苦笑を漏らす。

 冷え切った指先では上手く動かないと思っていた。実際に上手とは言えない演奏だし、細かいミスは多い。


 だけど、心の真ん中には確かな気持ちが灯っている。

 楽しい。――ただ、そんな単純な感情が。


 ピアノはただの習いごと。

 ピアノをしていたのは習いごとをしている自分に安堵感を覚えるため。

 少し前の自分はなんて馬鹿な思考をしていたのだろう。飛び込んでみたらこんなにも心が躍るのに。自分はずっと、『空っぽ』を自称することでどうにか自分を守ってきたのだ。


 指先が弾む。

 身体が揺れる。

 好きな音に溢れる。

 深く考えることなんてない。自分と、周りの人達と、あわよくば雫の心に前向きな気持ちが届けば良い。


 楽しい気持ちと、ほんの少しの希望。

 その二つが混ざれば無敵になれるのだと、知世は知ってしまったのだから。



 ***



 四分三十三秒の演奏はあっという間に終わってしまった。

 瞬きもしないままに、知世は鍵盤に添えられた手元を見つめる。懐かしい光景だ。でも、同時に新しい光景でもあった。

 だって外でピアノを弾くのなんて初めてだし、花奈にちゃんとした演奏を聴かせるのも初めてだし、それに――想像以上に大勢のギャラリーもある。


「えっ、あ」


 ガタリ、と知世は勢い良く立ち上がる。

 確かにさいたま新都心駅は人で溢れていた。だけど知世の演奏は決して完璧なものではない。立ち止まって聴く価値はないと思っていたし、この空間は自分と花奈の二人だけのものだと思っていた。


「あ……ありがとうございます」


 言いながら、知世は深々とお辞儀をする。

 立ち止まってくれる人が多いどころか、拍手までしてくれる人もいたのだ。演奏中は特に気にならなかったが、自分はなんて度胸のある行動をしてしまったのだろうと思う。


「知世さん、素敵でしたよ」

「思ったよりは微妙だったでしょ?」

「……そんなこと言っちゃうんですか。この動画、雫さんに届けるんですよね?」


 片眉を上げながら、花奈は焚き付けるような視線を向けてくる。

 そんな顔もするんだ、と知世は思った。


「ごめん、そうだね。気持ちは込められたって思ってる。……でも」

「でも?」

「自分のための行動でもあるのかなって」

「良いんじゃないですか、それで。私も知世さんのおかげで前を向けましたから」


 いつの間に、彼女はこんなにも大人になったのだろうと思う。

 決して背伸びをしている訳ではない、自然体な姿。そんな花奈が隣にいてくれたのが何より心強いことだと感じた。


「あの、知世さん。……そこでやってたライブ、声優さんだったみたいですよ。だから雫さんのことも知ってる人が多いんだと思います。私達が旅行帰りにショックを受けたみたいに、ここにいる人達もライブ終わりでショックを受けたのかも知れないですね」


 小声で耳打ちをしながら、花奈は優しい笑みを浮かべる。


「そっか。皆同じ気持ちだったんだ」

「そうですよ。それくらい、雫さんの存在は大きいんですから」

「……何か得意げだね?」

「そう見えたなら良かったです。…………本当は、ただの強がりなんですけどね」


 得意げに微笑んでみたり、ふっと目を伏せて寂しげな表情を覗かせたり。今の花奈の姿は酷く不安定だ。

 でもそれで良い、と知世は思った。

 大好きな人のために頑張ったり、現実を思い出して落ち込んだり。そんな当たり前の感情に振り回されるくらい、自分は柚木園雫とともに日々を過ごしてきたのだから。


「……そうだ。花奈ちゃん、動画撮れた?」


 ピアノを囲むギャラリーが少しずつ減っていくのを確認してから、知世ははっとして訊ねる。花奈は訊かれるのを待っていたと言わんばかりにニヤリと笑ってみせた。


「バッチリだと思います。どうぞ」

「ん、ありがとう」


 花奈からスマートフォンを受け取る。知世はすぐにイヤホンを片耳につけ、もう片方のイヤホンを花奈に渡した。

 ライブが終演したばかりというのもあって雑音は多い。しかし映像自体に不具合はなく、久しぶりだが気持ちは込めたピアノの音色や、真剣なように見えて時折ふんわりとした微笑を浮かべる自分の顔まではっきりと映っていた。


「やっぱり、素敵です」

「んー……。ちょっと恥ずかしいけどね」

「本人がそう思える方が、雫さんに想いが届くんじゃないですか?」

「花奈ちゃん……」


 本当にこの子は、ビックリするほどに大人になった。

 だけど同時に、花奈の成長を「当たり前のことか」とも感じてしまう自分がいるのだ。

 共同生活をして、雫と出会って、晴子と向き合って。この短期間で花奈はたくさんの経験を積み重ねてきた。


 だから今度は、自分の番だ。

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