第五章 いとこと私と憧れと
5-1 動きたい
柚木園雫、骨折。
知世の目に飛び込んできたのは、そんなネットニュースの見出しだった。
頭の整理がつかないままに花奈に寄り添い、自分でも詳細を確認しようとスマートフォンを取り出す。
するとすでに莉麻と咲間からメッセージが来ていた。こういう時に仲間がいるのはありがたいと思いつつ、まずは落ち着いて雫の公式SNSをチェックする。
まず安心したのは交通事故ではないということだった。
階段からの転落による足の骨折で、全治二ヶ月。来週のライブの開催は協議中とのことだった。
「…………」
言葉を失う、とはまさにこのことを言うのだろう。
命に別状がなくて良かったという事実に支えられて、知世は何とか息をしている。だけどそんなのはただの強がりだ。実際に頭の中を満たしているのは絶望の文字しかなくて。
こんなことってないよ、と知世は思う。
せっかく花奈と二人で歩んできたのに。ぎこちなく距離を縮めながら、少しずつ心を晒しながら、初めての推し活に足を踏み入れたのに。柚木園雫と出会ったことで、たくさん心が躍ったのに。今までずっと、柚木園雫の武道館ライブを最終目標としてきたのに。
雫への心配も相まって、すべてがボロボロに崩れ落ちていきそうだ。
なのに、何故だろう。
涙は出なかった。いや――出したくなかった、と言った方が良いだろうか。
鼓動は速い。ドクドクとうるさくてたまらない。人はあまりにもショックな出来事と遭遇すると身動きが取れなくなるものだ。
だけど知世は。
ずっと『空っぽ』を自称していた、くそったれの七沢知世は。
動きたい、と思った。
「…………花奈ちゃん」
本当はわかっていた。
気付かない振りをしていた。
知世の心を蝕んできた『空っぽ』な自分。まるで自分だけが特別な悩みを抱えているかのように思い込んで、悩んで、苦しんで。
だけど違う。
知世はずっと抱えていたものはありきたりな悩みだ。心から好きになれるものに巡り会うことなんて、そう簡単にできるものではない。
――それに。
自分はただ、興味があるかも知れないものと本気で向き合うのが怖くて、そんな怖いものから逃げてきた臆病者だ。
趣味だってそう、人間関係だってそう、高校まで習っていたピアノもそう。一歩踏み出せば何かが変わるかも知れないのに、動かなかった。動こうともしなかった。現状維持で満足していた。
そんな知世が。
弱くて情けなかった七沢知世が。
「ごめん。今から凄く変なことを言うんだけどさ」
もう大丈夫だと心で叫びながら、まっすぐ花奈を見つめる。
だけど声音はふわふわと安定しなかった。そりゃあそうだろう。今、知世の頭を駆け巡っているのはめちゃくちゃな思惑なのだから。
「私……どうしてもやりたいことができて。馬鹿なことを言ってるのはわかってる。でも…………何も聞かずについて来てほしい」
自分で言っておいて何だが、やはり意味のわからないことを言っているなと思った。
なのに知世の想いは止まらなかった。
旅行用のリュックをもう一度肩にかけ、じっと花奈の反応を待つ。
「わかりました」
彼女はさらりと言い放つ。
もう少し動揺されるかと思っていた?
知世の言葉に反応する余裕すらないと思っていた?
いや――違う。
心のどこかで自分は、雛倉花奈に期待していた。独りよがりな馬鹿な妄想だ。
自分を救ってくれた雫の力になりたい。ついでに自分自身も前に進みたい。知世の中にはそんな強い衝動があるから、花奈にも付き合って欲しい。黙ってついて来て欲しい。
考えれば考えるほどに、苦い笑みが零れ落ちそうになる。
なのに、
「私、今日を悲しみで終わらせたくはないんです。だから、どこへでも連れて行ってください」
花奈はどこまでも透き通った瞳を向けてくる。
まるで自分の行動を希望だと思ってくれているようで、知世は無理矢理口角をつり上げてみせた。知世が花奈に期待したように、花奈も自分のことを信じてくれている。
だったらもう、駆け出すしかないと思った。
走る。
ただただ、走る。
外は凍えるような寒さだった。
気持ちが前へ前へと向かってしまって、服装まで考えられていなかったのが唯一の心残りだ。防寒着はちゃんとすべきだった。特に手袋をしてこなかったのが痛い。手がかじかんで仕方がなくて、知世は密かに顔をしかめる。
行き先は決まっていた。多分、知世の求めるものはあの場所にあるはずだ。
大宮駅へと向かい、中央改札を抜け、京浜東北線の列車に乗り込む。乗車時間はたった三分。なのに電車に乗っている間が一番長く感じられた。高鳴る鼓動に緊張が紛れ込んでいるのだとしたら、きっとこの瞬間がピークなのだろうと思った。
知世と花奈は一駅で降り、さいたま新都心駅の改札を下りる。
「っ!」
すると、知世は目を瞬かせた。
人だ。人があまりにも多い。くらくらと目が回りそうだ。
(そうか)
しかし、知世はすぐにその理由を察した。
駅の近くにはアリーナ会場がある。今日は日曜日ということもあり、ライブが開催されていたのだろう。時間的にも終演して間もないタイミングだったのかも知れない。
ミスったか、と知世は一瞬だけ思った。
「…………あった」
無意識のうちに小さな声が零れ落ちる。
はぐれないように花奈と手を繋ぎながら人波をかきわけると、ようやく知世のお目当てのもの――ストリートピアノに辿り着いた。
誰でも自由に弾くことができるストリートピアノ。
時々さいたま新都心まで来ることがあるため、この場所にストリートピアノが置いてあることは知っていた。だけど設置期間や演奏可能時間までは把握していなくて、本当に大丈夫なのかという不安はあったのだ。
でも、ピアノは確かにそこにあった。
現在の時刻は午後八時五十分。演奏できるのは午後九時までのようで、こちらもギリギリセーフだ。
「知世さん、これって」
花奈の瞳がこちらを向く。
すると、彼女の鼻が赤らんでいることに気付いた。少々無理をさせてしまっただろうか。確か、リュックの中に使い捨てカイロが入っていたはずだ。知世はすぐさま使い捨てカイロを取り出し、同時に柚木園雫のアーティストスコアブックを手に取る。
「はい、花奈ちゃん。あとで使って」
「え、あ、ありがとうございます……?」
カイロを手渡すと、花奈は思い切りクエスチョンマークを浮かべながらお礼を言う。彼女はきっと「あとで使って」という部分を疑問に思っているのだろう。
しかし、こればっかりは仕方のない話なのだ。
「花奈ちゃん。……これが雫さんのためになるかどうかはわからない。だけど私、動きたいの。…………協力してくれる?」
言って、今度は自分のスマートフォンを花奈に差し出す。
「……そういうことですね。任せてください」
一瞬の沈黙のあと、花奈は力強く頷いてくれた。
なんて頼もしい、凛とした笑みなのだろう。「何も聞かずについて来て欲しい」なんて言って、隣駅のストリートピアノまで駆け出して、協力して欲しいとスマートフォンを差し出して。考えるまでもなく無茶苦茶なことをしているのに、花奈はすでにカメラアプリを立ち上げていた。
ビデオモードにして、「いつでもどうぞ」と言わんばかりにスマートフォンを構える。
(ありがとう、花奈ちゃん)
本当だったらちゃんと目を見てお礼を言って、髪をわしゃわしゃと撫でたいくらいだった。だけど今はそんな悠長なことをしている暇はない。
知世はピアノの前に座り、スコアブックを広げる。
三秒間だけ瞳を閉じて深呼吸をしてから、花奈にアイコンタクトを飛ばした。
花奈が頷くのを確認し、知世はまるで大きな一歩を踏み出すように指先を動かす。
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