4-4 本当は楽しかった

 安堵しつつ、知世は次々と雫の楽曲を弾いていく。

 宍戸兄妹と聖地の喫茶店に行った『グッドモーニング』。コラボカフェに行った『百合子さんの悩みごと』のオープニングテーマの『ゆらゆらMAGICマジック』。そして――知世が雫を知るきっかけになった『残夢のフラーテル』の主題歌、『ペクトライト』。


 まるで二人の思い出を遡るように、雫の楽曲を辿っていく。


「…………」


 アプリとはいえ、久しぶりのピアノ演奏だ。無言で集中するのは当たり前のことで、傍から見たら緊張感すら漂っていることだろう。


 だけど知世は心の底から思った。……楽しい、と。


 知世にとってピアノは、単なる習いごとでしかなかったのだ。

 音楽の道へと進む訳でも、趣味として続ける訳でもなく、高校を卒業するとともにきっぱりとやめてしまった。


 ピアノは、ただ単に習いごとをしている自分に安堵感を覚えるため。

 そう、当然のように思っていたはずなのに。


(そっか、私……楽しかったんだな)


 楽しいことさえ目を逸らして、『空っぽ』を自称して。

 本当に、少し前の自分は馬鹿だったと思う。


「懐かしいですね」

「……『ペクトライト』のこと?」

「いや、全部ですよ。もちろん『ペクトライト』は特別ですけどね」


 言って、花奈は頬を掻きながら照れ笑いを浮かべる。

 共同生活の初日、誤タップによって出会った柚木園雫の『ペクトライト』のライブ映像。花奈の言う通りすでに懐かしい気持ちになってしまうが、よくよく考えてみたら一ヶ月も経っていないのだ。それだけ花奈との日々が濃いということだろう。


「……もうすぐ終わっちゃうんですよね」


 すると、花奈が微かな声を漏らす。

 どういうこと――だなんて、聞くまでもないことだった。

 共同生活がもうすぐ終わってしまう。何故か今、このタイミングで寂しい気持ちが湧き上がってしまったのはどうやら知世だけではなかったらしい。


「知世さんのせいですからね」

「ん、どうして?」

「……知世さんがエンドロールみたいに演奏するから」


 唇を尖らせ、心底不服そうに零す。

 見間違いじゃなければ、その瞳は潤んでいるように見える。知世はそっと花奈の隣に座り、彼女の弱々しい背中に手を回した。


「大丈夫。まだエンドロールじゃないよ。来週のライブが本番でしょ?」

「それは……そうなんですけど」

「それとも何? 一度雫さんのライブに行ったらもう推し活はやめちゃう?」

「! そ、そんな訳ないじゃないですか! これからも知世さんと推し活したいです。……っていうのは、迷惑ですか?」


 バッと知世から離れ、花奈はまっすぐ胡桃色の瞳を向ける。

 不安そうにコテンと小首を傾げる姿はまるで小動物のような愛らしさがあって、知世はふっと笑ってしまう。


「な、何ですか」

「これからもよろしくねって言いたいだけだよ」

「う、あ……よろしくお願いします」


 口をもごもごとさせてから、花奈は勢い良くお辞儀をする。


「…………」

「あのぅ……すみません。大袈裟でしたよね」

「いや、そうじゃなくて可愛いなと思って」

「……知世さんに口説かれちゃいました」

「…………口説いてはないけどね?」


 知世もまた首を傾げながら言うと、花奈は口元を綻ばせる。

 どうやら涙はすぐに乾いてくれたようだ。良かった、と知世は内心ほっとする。


 花奈との推し活はこれからも続いていくのだろう。

 同時に、共同生活のエンドロールだって確かに存在している。

 だから泣くのはまだ早い。雫の武道館ライブがあるし、その前に明日は花奈にも内緒の計画――叔母の晴子と合流――もある。

 そう思ったら、知世も急に胸がドキドキしてきた。


「知世さん?」

「……いや、来週は雫さんのライブなんだなって。意識したら緊張してきちゃって」


 その前に明日の計画があるけど、と知世は心の中で付け足す。


「知世さんでも緊張するんですね」

「共同生活が始まる日も緊張してたよ」

「あ、確かにそうだった気がします」

「…………そこは遠慮なく言うんだね」


 嬉しいような、でも少しだけ恥ずかしいような。

 微妙な顔で花奈を見つめてから、知世は誤魔化すようにパチンと手を鳴らす。


「さて、そろそろ寝ようか。明日も聖地巡礼は続くんだから」

「です、ね」

「どうしたの。まだ寝たくない?」

「いや、その……もうピアノは弾かないんですか?」


 何故か恐る恐るといった様子で花奈が訊ねてくる。

 四曲も弾いたはずだが、花奈にとってはまだまだ足りなかったのだろうか。


「帰ってからいつでも弾けるから、大丈夫だよ」


 ピアノのアプリが表示されたスマートフォンを見せながら、知世は明るく言い放つ。

 すると何故だろう。花奈の眉はますます申し訳なさそうに垂れ下がってしまった。


「そういうことじゃ…………いや、やっぱり何でもないです」

「……一曲くらいなら弾いても良いよ」

「いえっ、本当に大丈夫ですから! きっとこのままじゃ無限ループです。もう一曲、もう一曲……って言ってる間に朝が訪れるパターンですっ」

「そんな大袈裟な……、まぁ、気持ちはわかるけどね」


 これも一つの旅行マジックなのだろう。

 夜になってもわくわく感が抜けなくて、ベッドの中に入ってもなかなか寝付けなさそうだ。それでも明日のことを考えるとベッドの中には入っておくべきだろう。


「知世さん、おやすみなさい」

「……うん、おやすみ」


 花奈とこうして「おやすみ」と言い合えるのも残り数回。

 まずは明日を悔いのないように過ごそうと知世は心に誓っていた。

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