3-4 お渡し会

 ラジオの公開録音のあとは延長線のトークコーナーがあり、ついにお渡し会の時間がやってきた。


 座席の前列から列を作る形になっていて、知世と花奈の順番が回ってくるのは最後の方だ。宍戸兄妹でさえも「推しの接近イベントは何度経験しても慣れない」と言っていて、遠目に見る二人の姿は緊張感が漂っていていた。


「…………」

「知世さん、大丈夫ですか?」


 どうやら自分は、花奈に心配されるほどドキドキしているらしい。

 かく言う花奈も瞬き多めにそわそわしていて、「花奈ちゃんもね」と心の中で思う。だけど口に出す余裕すらなくて、弱々しい笑みを返すことしかできなかった。


(まさかここまで緊張するなんて)


 自分の鼓動の速さに驚いてしまう。

 あれやこれやと雫と話す話題は考えていたはずだ。なのにみるみるうちに「どうしよう」が頭の中を埋め尽くしてしまうのだから不思議だった。


 そして――意外にも早くその時は訪れる。

 あと三人。あと二人。――あと一人。


(きた。…………あれ)


 と思っていたら。

 知世の出番の前でちょうど水分補給の時間になってしまったようだ。

 公開録音があって、トークコーナーがあって、そのあとすぐにお渡し会でファンと会話をして……。確かに雫はずっと喋りっぱなしだった。まさか自分の前でストップになるとは思わなかったが、水分補給があるのは当然の話だと思った。


(か……可愛い)


 雫は今、片手でペットボトルを持ちながら、もう片方の手で謝るポースをしている。しかもウインク付き。

 これは所謂ファンサービスというやつなのだろうか? もちろん自分の後ろに並んでいる花奈達にも向けられたポーズだとは思うのだが、至近距離で浴びてしまったのは知世だけだ。

 雫は知世よりも一回り以上年上の女性だが、それでも頭の中に溢れる「可愛い」が止められなかった。


(……良かった)


 少なくとも「どうしよう」状態からは脱却できたのだ。

 だから一安心……なのだが、ここから冷静に会話ができるようになる訳ではないのが現実で。


「ごめんね、お待たせしちゃって。わ、百合子さんのラバストだ。ありがとうね~」


 気付いた時には目の前に雫がいた。

 いつにも増して温かみを感じる琥珀色の瞳。小柄でシュッとした身体付き。ライブ映像での堂々とした印象が強いからか、意外にも小さくてビックリしてしまう。多分、知世よりも背が低いのではないだろうか。やっぱり「可愛い」が止まらない。


 ステージ上での彼女とのギャップと、鞄に付けていた桃ヶ池百合子のラバーストラップに気付いてくれた喜び。

 二つが混ざりに混ざって、なかなか言葉が出てこない。


「今日は来てくれてありがとう」


 言いながら、雫はブロマイドを手渡してくれた。

 ブロマイドは『希望のアンブレラ』のアーティスト写真が使用されていて、なんと直筆サイン入りだ。お渡し会も直筆サインも、何もかもが初めての知世にとっては目が回りそうだった。


「あ、ありがとうございます。……えっ、と」


 このままでは貴重な数秒間が無駄になってしまう。

 スタッフに肩を叩かれたら終わりなのだ。その前に伝えたいことは伝えなくてはいけない。だから知世に必死になって雫の瞳を見つめる。人と目を合わせるのが苦手という訳ではないはずなのに、自分の顔が強張るのを感じる。


「あの……。少し早いですが、十周年おめでとうございます。武道館ライブ、楽しみにしています!」


 十周年のお祝いと、武道館ライブに行くこと。

 それだけは絶対に言いたいと思っていたため、無事伝えられてほっとする。まぁ、心なしか声が震えてしまったような気はするが。


「わぁ、ありがとうね~。十周年を祝ってくれるのも、ライブに来てくれるのも、どっちも嬉しいよ。当日は目一杯楽しもうね?」

「……はいっ……!」


 頷くと同時に肩を叩かれてしまい、声が裏返ってしまった。

 恥ずかしい。けれどそれ以上に雫の温かい笑顔と声が頭から離れなくて、自分でもビックリするほどに満面の笑みを零してしまった……ような気がする。

 そうだと良いな、と知世は思った。



「え? 花奈ちゃん、今なんて……?」

「十周年おめでとうございますっていうのと、武道館行きますっていうのと……」

「……と?」

「最近雫さんのファンになったっていうのと、従姉と一緒に応援しているっていうの……だったと思います」

「…………そ、そっか」


 お渡し会が終わり、花奈と顔を合わせる。

 となると「雫さんと何を話したか」という話になるのは当然のことで、知世は花奈の言葉に絶句していた。


「あの短時間で……凄いね」

「それを言うならファンサを目の前で浴びた知世さんも羨ましいですけどね」

 雫の真似をして片手で謝るポーズ&ウインクを放ってから、花奈は羨望せんぼうの眼差しを知世に向ける。

 確かにあれは奇跡のような時間だった。思い出すだけで頬が緩みそうになる。


「…………うぅ」

「花奈ちゃん……? あ、花奈ちゃんも可愛いよ」

「ち、違います。別に雫さんの真似をして恥ずかしくなった訳じゃないです……よ?」


 思い切り赤面しながら小首を傾げる花奈。

 今日は大人びた恰好をしている花奈だが、やはりこういう言動は可愛らしくてたまらない。


「わかってるよ」


 言いながら、知世もまた小首を傾げる。

 結局頬が緩んでしまったのは言うまでもない話だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る