1-4 残夢のフラーテル

 翌日。


 今日は月曜日だ。

 花奈と二人でトースト+アッサムティーの朝食を済ませたあとはそれぞれの日常が始まる。花奈は朝から中学校へ。いつもは徒歩で登校しているらしいが、今日から一ヶ月間は電車を利用しなければいけない。


 ついつい、


「良かったら、一回学校までついて行く……?」


 なんて提案をしてしまったが、すぐさま涼しい顔で「たった二駅ですし大丈夫ですよ」と断られてしまった。

 赤チェックのセーラー服に紺色のカーディガン、そしてトレードマークのワンサイドアップ。容姿だけで言えば可愛らしい中学生の女の子なのに、ふとした瞬間に大人びた表情をする。

 やっぱり、まだまだ知らないことばかりだと痛感する知世だった。



 そして知世も大学へ――と言いたいところだが、今日は午後からの講義を受ける予定だ。つまり、知世にはまだまだ時間があり……。


 柚木園雫のことを知るチャンスということだ。

 そうと決まれば、と知世は動き出した。自室のビーズクッションの上に座り、スマートフォンを弄り始める。ライブ映像は昨晩花奈と堪能したが、だいたい知世には柚木園雫の基本的な情報がないのだ。まずは彼女のことを知ることから始めなくてはいけない。


「…………え」


 インターネット百科事典の「柚木園雫」のページを開くや否や、知世は思わず驚愕の声を漏らす。


 柚木園雫(三十五歳)は日本の声優、歌手、ナレーター。東京都出身。声優事務所はシグナルナインで、所属レーベルはシトリンレコード。公式ファンクラブは『柚木園ゆきぞのツリーハウス』。あだ名は「雫さん」「雫様」「ゆきさん(声優仲間から)」。ファンの呼び名は「おとなさん」で、お隣さん+ツリーハウスが由来。イメージカラーはライトブルー……。


(三十五歳……?)


 そう。知世が最初に驚いてしまったのは雫の年齢だった。

 確かに見た目はクールで格好良くて、落ち着いた女性の印象がある。

 だけど知世としては二十代半ばくらいだと思っていたのだ。それくらい若々しい……と言ったら身も蓋もないかも知れないが、ステージ上の彼女はこちらがニコニコしてしまうほどの愛嬌に溢れていた。思い出すだけで口元が緩んでしまうくらいだ。


(って、年齢に驚いてる場合じゃないか)


 一つひとつのことにいちいち驚いていてはあっという間に時が過ぎてしまう。気を取り直して知世はスマートフォンの画面に集中した。

 次に注目したのは代表作だ。


残夢ざんむのフラーテル』モルスひめ

魔法まほう少女しょうじょらないチャイム』ベル=ルーメン(光野ひかりのスズネ)役

『あなたの忘却ぼうきゃくになりたい』皐月さつき有栖ありす

百合子ゆりこさんのなやみごと』桃ヶ池ももがいけ百合子ゆりこ


 ズラリと並ぶアニメタイトルと役名を眺めながら、知世はうっと顔をしかめる。

 一つも知っているタイトルがない。

 唐突に自分の「にわか」が浮き彫りになってしまって、何とも言えない気持ちに包まれた。


「……でも、私はこれから知ることができる訳だし、ね」


 自分に言い聞かせるように知世は独り言を零す。

 アニメの詳細を調べてみると、『残夢のフラーテル』は劇場アニメだということがわかった。しかも主題歌も雫が担当しているらしく、曲はなんと誤タップで初めて触れた『ペクトライト』。これは観る以外の選択肢はないだろう。


 知世はすぐにストリーミング配信されているページを開いた。再生時間は二時間強。長めではあるが、今から観れば午後の講義には間に合うだろう。

 知世は二杯目の紅茶をティーカップに注ぎ、タブレットPCが置かれたローテーブルの前に正座をする。変に身構えている訳ではなく、無意識だった。再生ボタンを押してから「あれ、何で正座……?」と遅れて気付いてしまうほどで、自分自身にビックリしてしまう。


 まるで映画館で上映されるものを観に行くようなわくわく感だ。

 でも今まで『空っぽ』だった知世にとっては、そのくらいの感覚でも大袈裟ではない。そう断言できてしまうのが不思議だった。



 ――二時間ちょっとが経った頃。


「………う、ぐ……っ」


 知世は小さな嗚咽を漏らしながら、溢れ出る涙をティッシュで拭っていた。

 画面には雫の歌う『ペクトライト』とともにエンドロールが流れている。『残夢のフラーテル』は高校生の兄弟が主人公のロボットアニメだった。

 雫が演じるモルス姫は物語のヒロイン的ポジションであり、悲痛な運命にさいなまれるお姫様。しかし芯が強く優しさに満ちた女性で、時に主人公達を力強く引っ張るパワーを持っていた。


(そっか。モルス姫の想いも背負っていたから、こんなにも前向きな歌だって感じたんだ)


 たった今、知世は本当の意味で『ペクトライト』を好きになってしまった。

 ライブ映像だけであんなにも引き込まれてしまったのに。今はモルス姫に寄り添う雫の歌声を聴いて涙を流している。自分はこれほどまでに感受性が豊かだったのかと驚いてしまうくらいだ。


(……そろそろ大学行かなきゃな)


 しばらくは余韻に浸っていたい気分だったが、そうもいかないらしい。

 知世はふうっと息を吐いて動き出す。きっと目は赤らんでしまっていることだろう。大学に着く頃には治まってくれていることを祈りつつ、知世は支度を始めていた。

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