藍電気石人形(インディゴライトドール) 3
男に連れられて到着したのは高級ホテルだった。実際に来たのは初めてだったものの話には聞いたことがある。
(フカフカのベッドに重厚な机と椅子があって、部屋に料理を運んでもらうこともできるんだよな)
作家でもある店主は締め切り間近の原稿を高級ホテルで書くことがある。「まるで籠の鳥のようだ」と話していたけれど、そんな贅沢な鳥籠なんて聞いたことがない。
「何か食べるかい? それとも横になる?」
部屋に入り、ソファを勧められたところで男がそう尋ねてきた。
(どうしよう)
僕たち
「ええと、」
それでも答えに詰まったのは好物が頭をよぎったからだ。僕たちはソーダ水が大好きだ。とくに好きなのは檸檬や蜂蜜入りのもので、アイスクリームが載ったメロンソーダも口にする。
(博士の息子の好物だったんだよな)
だから博士は僕たちを作るとき同じものを好むように設計した。飲んだソーダ水は鉱石と反応して体の芯をじんわりと気持ちよくさせる。それは癖になるほどの心地よさで、博士がいた頃はみんなでよくソーダ水をねだった。
でも、店の在庫となった今はソーダ水を飲む機会なんてない。だから迷ってしまった。
(きっとソーダ水もあるはず)
最後に飲んだのは十八年も前だ。あのときはまだ博士がいて、僕たちを交代で外に連れ出してくれた。そのとき飲んだソーダ水がとびきりおいしかったのは今でもよく覚えている。
部屋に連れて来た男を見る。品のいい三つ揃えのスーツといい部屋の雰囲気といい、結構なお金持ちに違いない。それならソーダ水の一杯くらいねだっても文句は言わないだろう。そう思って「ソーダ水があれば、それを」と答えた。
僕の言葉に男がメニューらしきものに視線を落とした。
「ソーダ水なら確か……あぁ、レモネードがある。これを炭酸割りにしてもらおうか」
「レモネード!」
思わず声を上げてしまい、慌てて口を閉じた。そんな僕を馬鹿にすることなく「レモネードの炭酸割りでいいかな?」と尋ねる男にコクコクと頭を縦に振る。
(レモネードもあるんだ)
さすが高級ホテルだなと感心した。そんなホテルに連れて来てくれたうえにレモネードの炭酸割りをご馳走してくれるなんて、この男は案外いい人なのかもしれない。
しばらくするとドアをトントンと叩く音がした。「どうぞ」と男が答えるとカートを押したホテルマンが入ってくる。磨き上げられたカートの上には、ほんのり黄色味がかったグラスが仰々しく載せられていた。
ホテルマンが部屋から出ると、男が向かい側のソファに座りながら「遠慮せずにどうぞ」とにこやかに勧める。もちろん僕は遠慮することなく「ありがとう」と言い、ストローに口をつけた。
口の中でしゅわっと弾けた檸檬と蜂蜜の香りが喉を通って体の中へと入っていく。しゅわしゅわしたものが中心にある鉱石に降り注いで、パチパチと小さな火花が弾け飛ぶのがわかった。
「ん、」
久しぶりの心地よさに思わず声が漏れてしまった。パチパチするたびにゾクゾクして背中がぞわりと震える。博士と一緒に飲んだときより弾ける感覚が強いのは、元がレモネードだからだろうか。
「気に入ってもらえたようでよかったよ」
「これ、とてもおいしいです」
「遠い海の向こうで育った檸檬を使っているそうだよ。あぁ、蜂蜜は内藤新宿の西洋蜜蜂ではなく熊野蜜のようだね」
再び立ち上がった男性がメニューを見ながらそう口にした。
「熊野?」
「最近では南から北にかけて花を追いかけるのが主流のようだから、実際は北海道の蜜かもしれないな」
よくわからないけれど蜂蜜にはいろんな種類があるらしい。どちらにしても、とてもおいしいことに変わりはない。
「少し落ち着いたかい? まだふらつくようなら横になるといい」
そう言った男が、テーブルに雑誌や飴玉の入った小さな缶を並べ始めた。
「わたしは少し用事を済ませに出てくるよ。退屈しないように雑誌を置いておこう。檸檬と蜂蜜の飴もあるから自由に食べてくれてかまわない。そうだ、あれも出しておこう」
そう言った男が隣の部屋から持って来たのは小さなビードロだった。
「それは……」
「これかい? わたしの家は昔から長崎貿易に携わっていてね。長崎でよく見かけるビードロだ」
テーブルにコトンと置かれたのは淡い青色をしたビードロだった。吸い口近くに月の模様が見え、思わず「あっ」と声が漏れそうになる。
「それじゃあ、一時間ほどで戻って来るから」
そう言って男が部屋を出て行った。僕は男を見送ることなく、テーブルに置かれたビードロをじっと見つめた。
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