誰もが一生一度は訪れたい温泉宿は、癒やしの場だったのか
ひゃくねこ
第1話 きさらぎと温泉
私がたどり着いたのは、山深い峡谷にぽつんと建っている温泉宿だった。
ここまでずいぶんと遠かったが、なにしろ評判の宿だ。予約も何年待ちだった。ずいぶんと待たされたが、ようやく私に順番が回ってきたのだ。
-ホントに長かった。この日の為に準備して来たんだ。思い切り楽しまなきゃな。
私は、私自身にそう言い聞かせ、宿の門をくぐった。
”思い切り楽しまなきゃ”、そうは思ったものの、宿の周りには民家が数軒と売店のような建物があるくらいで、他の宿はおろか土産物屋もなかった。自動販売機すら見当たらなかったから、宿に入ればもう外に出ることもないだろう。せいぜい宿の傍を流れる川に降りてみるくらいか。
宿の建物自体は古民家の風情たっぷりといったところだが、そういう宿は日本全国にあるから、特段に珍しいものではない。ただこの宿は本当に人気で、何の雑誌だったか、テレビの旅番組だったか忘れたが、一生一度は訪れるべき宿ナンバーワン!らしい。
しかし、古民家の風情ながらこの建物は大きい。玄関の正面に立ってみても、屋根がどれほど高いのか分からない。てっぺんが見えないのだ。建物の奥行きも、どこまで続いているのか見当がつかなかった。
「ああ、お客様、遠いところ、ようこそいらっしゃいました」
玄関の前で上を向いて突っ立っている私に気づいて、奥から和服の女性が話しかけてきた。
「本日よりご予約のお客様ですね、わたくし、女将のきさらぎでございます」
「あ、女将さん、お世話になります。えっと東京の、えっと」
「はい、ご予約で承知しております。さ、どうぞお上がりになってください」
「ああ、そうですか。はい、では、ど・・どうも」
この温泉宿の女将、きさらぎ、若い。二十歳を少し過ぎたくらいに見える。
ほかの従業員は見当たらないが、女将は丁寧にお辞儀をして、私を宿に招き入れてくれた。
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私の部屋に案内してくれる女将の後ろに付いて歩くと、廊下の両側に各部屋が並んでいる。宿の廊下は薄暗くて長く、はるか奥の突き当たりで左右に分かれているようだ。その先にも部屋があると考えれば、やはりとてつもなく大きな建物であることに間違いはない。
部屋にはそれぞれ名前が付いていた。
「女将さん、私が予約した部屋は、和室でしたよね」
私は女将の後ろを歩きながら聞いてみた。
「はい、そう承っております」
「洋室っていうのもあるんですか?」
「ええ、ございます。もちろんこのような宿ですから、洋風のインテリアにしてある和室、という感じですが」
「なるほど、人気の宿だから外国の人も来るでしょうしね」
「えぇ、でも外国の方は逆に和室がお好みなんですよ?洋風を好まれるのは日本の方が多いですね」
「はぁ、そういうもんですか」
「さぁ、このお部屋でございます」
女将と話しているうちに部屋に着いたようだ。
「あぁ、ありがとうございます。えっと、部屋の名前は」
「渓水の間でございます」
「ケイスイ、ですか」
部屋に入ると畳間が二間、窓は大きく、開け放すとサラサラと流れる水音が聞こえてきた。なるほど、この部屋は宿の外で見た川が窓のすぐ下を流れているのだ。だから、渓水。
「気持ちのいい水音、空気も爽やかで、風が気持ちがいいですねぇ」
私は正直な感想を述べた。
「左様ですか、それは私どもも喜ばしいことです」
女将はにっこりと笑いながら部屋の説明をしてくれた。
「お風呂はお部屋にはございません。皆様大浴場をお使いいただいております。大浴場は五つございまして、順番に掃除をいたしておりますので、大浴場の方へおいでいただいて、使える浴場をお好きにお使いください。24時間お使いいただけます」
五つの大浴場、さすが評判の温泉宿だ。そう思うと自然と頬が緩む。
「朝食、昼食、夕食はご準備の時間を毎度お伺いしますので、どうぞおっしゃってください」
「え?三食全部ですか?それはかなり手間なのでは?そちらで準備された時間に合わせますよ」
恐縮して言う私に女将は微笑みながら応える。
「いえいえ、ご遠慮は不要でございます。ご所望のときにおっしゃってください。お夜食でもいいんですよ?」
さすがに人気の温泉宿だ。サービスは行き届いている。しかしこの女将の貫禄、とても二十歳過ぎの若さとは思えない。
「そうですか・・分かりました。それでは、お世話になります」
「はい、どうぞごゆっくりなさってください」
そう言って女将は部屋を出て行った。
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私はいっとき畳間に寝転がって、ぼんやりと天井を見上げた。
「さて、これからどうするか」
早速大浴場に行ってみるのもいいだろうし、川に降りて渓流の風情を楽しむのもいい。とにかく時間はあるんだ、このまま少し昼寝と決め込むのもいいだろう。
「いやいやいや、予約の取れない温泉宿に来たんだろ?」
いくつかの選択肢があったが、そもそもの目的を考えれば風呂一択だ。
「よし!行くか!!」
私は無駄な気合いを込めて起き上がり、大浴場に向かった。
大浴場棟は本館の隣に建っていたが、もしかしたら裏手なのかもしれない。宿に着いたときにも思ったが、このひなびた温泉宿は、信じられないくらい大きいのだ。
これほど大きな温泉なら、相当な宿泊客がいるはずだが、ここまで来る間に擦れ違った宿泊客はそれほど多くなかった。
夫婦連れや家族連れはあまり見かけなかったし、団体旅行とおぼしき客はまったく出会わなかった。どうやらこの宿の客は私のような一人旅が多いようだ。
-まぁ、若いカップルにこんな温泉宿は合わないか、熟年夫婦にはうってつけって感じだけどな。
そんなことを考えながら、私は大浴場棟に入ると、五つある大浴場のうち三つは清掃中で、後の二つが男湯、女湯に分けられている。どうやら男湯専用、女湯専用ということではなくて、清掃の後に入れ替えるようだ。
-常に清潔な湯を提供する。これは簡単そうだが、これくらいの設備がないと難しいんだろう。清掃中が三つもあるのは、きっと清掃の段階があるんだな。
私はそう勝手に想像し、男湯の暖簾をくぐった。
脱衣所から浴場への引き戸を開けると、さすがに大浴場という風情で、広々とした石造りの湯船に数カ所から温泉が流れ込んでいる。外に出る扉もあるから、露天風呂も楽しめそうだ。
先客は3名、一人は外国人か。私は早速下湯を使い、他の人たちと十分に間を置いて湯に身を沈めた。
「ふぅ~」
温泉に浸った瞬間のリアクションは皆一緒だ。体の疲れがお湯に溶け出すようなこの感覚。日本人独特の感覚だと思うが、外国人のお客さんも多く来るわけだから、日本人だけのものでもないのかも。
目をつむって顎を上げ、腕を広げ、足を投げ出して天井を見上げるような格好、至福のときだ。
いっとき名湯の心地よさを味わって、先客さんたちに目を向けてみると、いつの間にか一人増えて、私を含め五人になっていた。私も先客さんになったわけだ。
「一体何人の宿泊客がいるのかな?廊下で会った人もそれほど多くなかったけど」
私は取り留めもなく考えながら、十分に体を温めた。
「さ、少し外の空気にもあたるか」
そう思い湯船を出た私は、扉を開けて外に出てみた。
想像通り、そこは広々とした露天風呂になっていた。東屋造りの屋根も大きい、これほど大きな東屋は見たことがない。
岩が配置された湯船には、孟宗竹のように見える管から温泉が注がれている。緑も多く、苔むした雰囲気はまるで庭園だ。
「すごい、こんな露天風呂は見たことないな。さすが予約の取れない温泉宿だ」
私は身も心も洗われるような時を過ごし、部屋に戻った。
つづく
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誰もが一生一度は訪れたい温泉宿は、癒やしの場だったのか ひゃくねこ @hyakunekonokakimono
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