第2章 現在

19. 手掛かりのあとしまつ(1)

「もう、こんな時期……」


 庭に出たエミリーは、身を切るような寒さに、整った顔を顰めた。


 はあと溜め息を落とせば、白い息は霧となって、ミルクのように白い肌をふわりと撫でていく。

 緩く波打つ金色の髪に、青緑の瞳。

 今年24となったエミリーは、匂い立つような美女に成長していた。


 もっとも――春の湖のようだった優しげな瞳は、今やすっかり、冷えた宝石のような、硬質な光を帯びるようになってしまったけれど。


「ああ、よかった」


 美しい瞳で、庭をぐるりと見回した彼女は、苺の花が健気にも咲いているのに気付いて、口元を綻ばせた。


「いい子ね」


 師匠が大好きだった苺。

 それに向き合うときだけ、彼女のまとう雰囲気が柔らかくなる。

 エミリーは、長いローブが土で汚れるのもいとわず、畑に屈み込んだ。


(師匠。今年も、苺の花が咲きましたよ)


 そっと白い花を撫でながら、心の内で呼びかける。

 残された小屋を継いだ彼女が敬語で話しかけるのは、兄弟子であるマルティンを除けば、アデルだけだった。


 東の魔女・アデル。

 お人好しで慌て者で、脳天気で抜けていて、けれど幼かったエミリーを躊躇わずに助けてくれた、ただ一人の師匠。


(春になれば、実がなります。師匠の好物ですよ。……どうして、出て来てくれないんですか)


 苺に向かって呟きながら、エミリーは俯いた。


 冬なんか嫌いだ。

 アデルが消えた日のことを、嫌でも思い出してしまうから。


 鬱々とした目で、空を見上げた。

 今日も曇りだ。


 レイノルドが教会を蹴散らし、王都中に呪いのような魔力を撒き散らしてからというもの、王都はもちろん、そこそこ離れた東の森まで、すっかり天候不順になってしまった。

 アデルに手を掛けた教会の連中なんて、何度滅びてもらっても構わないが、日が射さないのは困る。これでは師匠の好物が育たない。


(師匠。あなたがいない世界は……こんなにも暗い)


 白い息を吐き出しながら、エミリーはそっと目を閉じた。


 7年前の初雪の降った日を境に、穏やかだったはずの世界はめちゃくちゃになってしまった。


 レイノルドは、それまで身に付けていた愛想や社交性をかなぐり捨てて、教会の殲滅に臨んだ。

 教会どころか、処刑を娯楽として楽しんだ王都の民全員を滅ぼしそうな勢いで、むしろ彼こそが人民の敵・魔王ではないかと思ったほどだ。


 一番弟子のマルティンは、そんな状況を見かねて、大聖堂を占拠したレイノルドとともに王都に残った。

 いつもへらへらと笑っている男だったのに、すっかり眉間に皺を寄せる癖がついてしまった。


 時空魔法の研究を始めたと言っていたっけ。

「魔力なんて適当でいいのさ」としょっちゅう鍛錬の手を抜いていた彼が、研究に打ち込むだなんて、アデルが見たら顎を外していただろう。


 そしてエミリーはといえば、復讐に専念する男たちとは距離を取り、東の森の家に戻った。

 誰かが「アデルの家」を維持しなくてはいけないと考えたからだ。


 アデルを取り戻そうとするのではなく、あっさり店の継承に踏み切ったエミリーのことを、二人は「冷めた女」とでも思っているかもしれない。

 けれど実際は逆だ。

 エミリーはまだ、アデルが教会に殺されたことを、受け入れられすらしていないのだ。


 エミリーの時間は、7年前、17歳で止まったまま。

 師匠が好きだった小屋を、住み心地よく手入れして、大好物の苺を世話してやれば――穏やかな暮らしを保ち続ければ、アデルがある日突然「ただいまー!」と声を上げて、戻ってくるのではないかと、いまだにどこかで信じている。


(馬鹿みたい。昔のほうが、私は賢かった)


 アデルは気付いていなかったし、マルティンもどうだか怪しいが、エミリー――本名エミリー・フォン・ハウスドルフはもともと、柔和に微笑むだけの優しい少女なんかではなかった。


 だいたいそんな女なら、自分より四十近く年上の男を、男性機能を損なうまで蹴り倒すことなんてしなかったろうし、使用人を脅して路銀を確保することもなかったはずだ。


 エミリーの金髪碧眼の容姿や、ふんわりとした雰囲気は、彼女が人生を有利に進めるための武器だった。

 齢9つにして、彼女はそれを理解し、徹底的に使い倒して生きてきたのだ。


 だから、教会から除籍され、世界の秩序から切り離されてしまったときは、焦った。

 金髪碧眼が持て囃されるのは、あくまでそれを理想視する教会的価値観に属していたからに過ぎない。


 貴族社会を追放されたときのエミリーにあったのは、多少見栄えのする顔と、強かな頭脳。

 けれどそれ以上に足を引っ張る、脆弱な体と幼さだった。


 これからの自分は「弱者」になる。

 搾取の手を伸ばしてくる周囲すべてと、常に戦わなければならない――。


 敵愾心に満ちあふれたエミリーを、けれど、東の森にいた魔女は、想定外の優しさで迎えた。


『ええっ、9歳で逃げてきたの!? すごくない!? ここまで!? 偉かったねー!』


 薬草採取中に、ぼろぼろの出で立ちのエミリーと出会ったアデルは、目を丸くして身の上話に聞き入った。


『ちょっと、マルティン! あんたのローブ脱ぎなさいよ! この子をぐるぐる巻きにしてあげて、寒そうだもの。は? あんたも寒い? 知らないわよ、スクワットでもしてなさい』


 明らかに汚れていたし、臭かったろうエミリーに、アデルはまるで警戒することなく手を伸ばした。

 もっと厳しい追及に備え、作り話もたくさん用意していたし、金を求められた際の対応も考えていたのに、彼女はそんなことは構いもせず、ローブごとエミリーを抱きしめたのだ。


『よし、よし。寒かったねえ。もう大丈夫。怖くなかった? もう大丈夫だからね』


 エミリーは触れられるのが嫌いだった。

 ただでさえ気配に敏感なのに、肌に触れると、詳細な感情まで読み取れてしまうからだ。


 けれどそのとき、アデルの腕から流れ込んで来るのは、ただただ温かな、肉声と完全に一致した言葉だった。


『よし、よし。いいこ、いいこ』


 何もしていないのに。

 金も払っていない、喜ばせてもいない、役に立ってもいない、ただの弱者なのに。


 いいや、弱者だからこそ、アデルは相手を守ろうと抱きしめる。

 幼い子どもを守る――そんな真っ当な「大人」に接したのは初めてのことで、思わず、エミリーの目からは涙がこぼれた。


『わー! 泣いちゃった! あなた、泣き虫さんなのね? そりゃそうよ。まだ9歳だものね』

 貴族の9歳は、立派な大人だ。結婚だってできる。

 けれどアデルには、エミリーが小さな子どもに見えるらしい。

 自分だって、当時まだ15でしかなかったくせに。


 出会いがそれだったせいで、アデルはすっかり、エミリーを泣き虫で可憐な少女と思い込んでしまったらしい。

 エミリーもそれを訂正する気はなかった。


 都合がよかったし――そんな彼女の傍にいるのは、とても心地がよかったから。


(なのにあの男。レイノルドのせいで)


 苺の葉を撫でていた手に、思わず力が籠もる。


 天の使徒のような美貌と魔力を持つ男。

 レイノルド。


 金髪碧眼の麗しい容姿と、人当たりのいい態度に騙される人間は多かろうが、彼の心の奥底に眠る、黒々とした執着心を、エミリーは見逃さなかった。

 虐げられて育ってきた人間特有の、かつえるような欲望。

 エミリーにはよくわかるその感情を、彼はアデルにだけ向けていたからだ。


 見る目はあると思うが、大切な師匠に手を出さないでほしかったところだ。

 彼がアデルに縋り付くものだから、優柔不断なアデルは結局彼を手放せなかったし、最後にはレイノルドが暴走したせいで、教会に目を付けられたアデルが殺される羽目になった。


(14年前に、私が彼を殺しておけば……)


 苦い溜め息を一つ。


 ――ふ……っ。


 とそのとき、周囲の空気が歪んだのを感じ、背筋を伸ばした。

 軽く目を伏せれば、背後に感じる人の気配。


 7年前から、苦しい思い出が伴う精神感応能力は、すっかり鍛えるのをやめてしまったが、小屋周辺の気配を探るくらいなら造作もない。


「…………!? え……っ?」


 背後の人間はきょろきょろとしながら、こちらへと近付いてくる。

 まだかなり距離はあるが、その人物が、無遠慮に苺畑の端に足を掛けたのを悟り、エミリーは激しい怒りに肌をざわつかせた。


「――……よくも」


 師匠の大好物の苺を荒らす輩なんて、許しがたい。


「侵入者め」


 振り向きざま、相手の顔も見ぬまま水の攻撃魔法を放つ。


 この7年、エミリーは夢の中で火刑に処されるアデルを救いたいばかりに、ひたすら水魔法だけを鍛えてきた。


 複数属性持ちとは珍しいが、それを言うならレイノルドもマルティンもそうだ。

 まったく、あの師匠はおっちょこちょいのくせに、人の潜在能力を引き出すことに掛けては右に出る者がいなかった。


「きゃああ――うぷ!」


 うねる水の拳を叩き込まれて、近付かんとしていた人物が弾き飛ばされる。

 悲鳴から察するに、どうやら年若い女のようだった。


(女?)


 ここからでは顔が見えない。

 怪訝に思ったエミリーはゆっくりと苺畑を抜け、倒れ込んだ女へと近付いていった。


「――……!」


 そして、息を呑んだ。

 畑に仰向けになって倒れていたのは、ローブをまとい、長い黒髪を持った女。


 7年前に姿を消した当時のままの、アデルだったのだから。


(…………!? いえ違う、偽物よ)


 一瞬愚かにも高揚しかけた心を、慌てて制する。


 この東の森の家には、教会勢力が「アデル」を真似ようと、記録や物証を奪いに忍び込むことが何度かあった。

 彼女もその類なのかもしれない。


「殺してやる」


 大切な人の猿まねをしようなど、一層許せない。

 エミリーが思わず拳を握った途端、畑に倒れ込んでいた女は「ひぃっ」と尻で後ずさった。


「エ、エミリー! あなた、どうしてそんな、不穏なことを、口走る子になっちゃったの……!」


 水の渦を練り上げていた手が、思わず動きを止める。


 掠れ声。

 喉に極力負担を掛けないための、途切れがちな話し方。

 それらが、記憶を強く刺激したからだ。


「……え?」

「やだ、もう! わからない……!? 私よ! アデル……」


 縋るように抱きつかれる。

 あまりに自然で、咄嗟に振り払うことができなかった。


 同時に、もう何年も使っていなかった精神感応能力が反射的に展開され、心の声が流れ込んで来る。


『ああああー! わかってよエミリー! 私よ、アデルよ! どうして突然人様を攻撃するような子になっちゃったのこの子! あっ、私が前に、野菜を盗む侵入者は容赦なく倒せって教えたから!? もしやそれを律儀に守って!? ていうか水魔法すご! しかもすっごく大人になってる美女ー!』


 思考があちこちに散らばった、早口でまくし立てるかのような言葉。


「――……」


 気付けば、ぽろりと声が漏れていた。


「師匠……?」


 同時に、涙も。


「そうよ。あなたの師匠、アデル……」

『あー! よかった伝わったー! でも泣いちゃった! 相変わらず泣き虫さんなのね、この子ったらもー!』


 心の声に一致して、アデルが慌ててローブの袖を伸ばしてくる。


「泣かないで……」


 けれど、土まみれになったローブでは、むしろエミリーの頬を黒く汚すことになってしまった。


「あっ、やだ……」

『きゃー! やっちゃった!』


 ふふ、と笑おうと思ったのに、後から後から、涙ばかりがこぼれてしまう。


「……師匠ったら」


 素直な人。

 疑うことを知らぬ人。


 土まみれにされたローブで、相手の涙を拭う人。

 こんなの、アデル本人でしかありえない。


「な、7年も、何を、していたんですか……っ」

「そ、そうよね……。あなたからすれば、そういう感覚よね……」


 エミリーがしゃくり上げると、アデルはおろおろと背中をさする。

 さする傍から心の声が、


『しまった、今度は背中を汚した!』


 と呟くのを聞いて、とうとうエミリーは涙を流したまま噴き出した。


 ――ああ。彼女だ。


「ごめんなさい、師匠。私、師匠をずぶ濡れにしてしまいましたね。中に入って着替えましょう」


 エミリーは素早く涙を拭うと、落ち着いた口調で切り出した。


「どうぞ、こちらへ。じっくり話を聞かせてください」


 冬の寒さは厳しいまま。

 けれど珍しく、空では雲が切れ、光が射しているようだ。


 エミリーは家の中に光を取り入れるように、恭しくアデルを導いた。

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