14. アデル、懊悩する(4)

 時は少しだけ遡る。


(師匠への来客とは、誰だろう)


 小屋からほど近い草原に出て、薬草摘みをしていたレイノルドは、こんもりと山をなした籠を見下ろしながら、考えに没頭していた。


 薬草摘みなど、魔力を使えばものの数分で終わる。

 生まれた余暇は、すべて魔力の鍛錬か、アデルが喜びそうなものづくりに充てる。

 それがこの数年の、レイノルドの日々の過ごし方だった。


(恩とは、どんな? 師匠のことは、すべて知っておきたいのに)


 東の魔女に誘われ、教会を抜け出してから、もう7年。

 その間、アデルは常にレイノルドにとっての光そのものだ。


 物憂げで儚げで、神秘的な人。

 寡黙な唇の内側には、けれど計り知れぬほどの慈愛心を秘めている。


 幼い頃のレイノルドは、その陽光のような愛情に恐る恐る手をかざすだけだった。

 けれど今では、その光を自分の掌だけに閉じ込めて、誰にも触れさせたくないと願っている。

 拒絶なんてされたら、自分でもどうなるかわからないほどだ。


 だからこそこの7年、レイノルドは心を砕き、アデルに誰より近しい弟子となれるよう、あらゆる努力を重ねてきた。


 エミリーなどはこちらの執着心に気付き、アデルと距離を取らせるべくなにかと画策しているようだが、無駄なことだ。

 要領のいいレイノルドは、マルティンには「エミリーが付いているから大丈夫」、エミリーには「マルティンが付いているから大丈夫」と思わせ、巧みにアデルとの時間を作ってきた。


 今日だってアデルに髪を染めてほしくて、マルティンたちが駆けつけにはいられないような事件を起こして人払いしたところだ。

 二人とも気のよい人物だとは思うが、アデルの美しい瞳に映るのは、自分一人であってほしいと、レイノルドはつい思ってしまうのである。


(優れた弟子にはなれたと思うのに……いまだに師匠は、あの二人を手放さないんだものな)


 アデルの役に立ちたい、ただそれだけの理由でレイノルドは魔力を鍛えた。


 実力はかなり付いたと思うし、町娘たちの反応を見るに、容姿もそれなりのはずだ。

 気遣いも欠かさぬようにしている。


 それでもなお、アデルはマルティンやエミリーを重用し、レイノルドを「末」弟子とする態度を崩さない。

 一番に信用するどころか、レイノルドが強くなるたびに、むしろ物憂げな様子を深めているようにすら見える。

 彼はそれが不安だった。


(どうして師匠は、僕が強くなると浮かない顔をするのだろう)


 師匠の高邁な考えすべてを、レイノルドでは理解することができない。

 だが、彼女が満足しないというからには、自分にはなにか欠けたところがあるのだろう。


 では、なにが。

 もどかしさに胸を焦がしながら、レイノルドは組んだ両手を額に押し当てた。


(師匠のためなら、なんだってするのに)


 ――ふっ。


 そのときである。

 あたりの空気が突然張り詰めたように感じ、レイノルドは顔を上げた。


 瞬時に表情を強ばらせる。

 これは、アデルの小屋全体に掛けておいたとある魔法が反応した結果だからだ。


 過保護なレイノルドは、風魔法を応用し、「アデルが恐怖を感じたら、周囲の風を伝って恐怖感を伝播させる」術を小屋周辺に掛けておいた。

 来客というのがどんな人物かわからず心配だったからだ。

 あの師匠は、心根が美しすぎるあまり、ときどき無防備なところがある。


 おかげで高価な魔晶石を一つ使いきってしまったが、アデルのために秘密の稼ぎを蓄えているレイノルドにはなんら問題なかった。

 とにかく、彼女が無事でいることだけが大事なのだから。


「師匠!」


 レイノルドは凄まじい速さで小屋へと駆け戻っていった。


 ばん! と扉を開ければ、カウンターの手前には、小太りの男に手首を掴まれた最愛の女性の姿が見える。

 黒髪の一筋かかった白い頬が、うっすらと腫れているのに気付いた途端、レイノルドは、己の血流がざわりと騒ぎ出すのを感じた。


「今、店に掛けておいた結界が揺らいだのですが……いったい、何が?」


 ――ごおっ!


 店中に強い風が吹き渡り、飾られていた雑貨が音を立てて落下してゆく。


「レイノルド……!」


 アデルが掠れた悲鳴を上げたが、魔力で起こした風の勢いは止まらなかった。


「うわあああ!」


 醜悪な男を風で持ち上げ、宙に浮かせる。

 じたばたともがく相手を押し潰すかのように、ゆっくりと周辺の空気を練っていった。


「この屑が、まさか師匠に手を?」

「おい! ひ……っ?」


 男は、自身の腕が勝手に持ち上がり、動き出すのに気付いたのだろう。

 ぎょっとしている。


 レイノルドが「風よ、この男の穢れた右手を折れ」と呟くと、彼の右手は奇妙な方向に押し曲げられていった。


「よ、よせ! 止めろ! やめ……あああああ!」


 ごきっ、と鈍い音が響く。


「レイノルド……! やめて!」


 アデルが叫んだが、レイノルドの怒りはこの程度では到底収まらなかった。


 彼女は優しすぎるのだ。

 だから周囲が、厳しい態度で臨む必要がある。


「師匠をいやらしい目で見たのですか? ならば、目も抉りましょう。汚らわしい言葉を吐いたのなら、喉も潰してしまわねば。手も、折る程度では物足りない。いっそ切り落として――」

「やめてえええ!」


 どのように男を処分するか検討していたら、アデルが、まるで自分自身が拷問されでもしたかのように悲鳴を上げたので、レイノルドは言葉を切った。


「き、聞きたくない……! それ以上、聞きたくな――ごほっ、ごほっ!」


 強く叫んだあまり、弱い喉が耐えきれず、噎せてしまう。


(しまった。師匠はこんな屑のような他人の苦しみにも心を寄せる人だった)


 レイノルドは心配になって、慌ててアデルの元へと駆け寄った。

 突然風魔法による拘束を解かれた男が、だんっと床に叩きつけられる。

 彼は呻きながらも、素早く店を去っていった。逃走本能だけは優れた男だ。


「すみません、師匠。先に手当てをしましょう。あの男の処分はその後に」

「し、しなくていい。しなくていいから……! ごほっ、逆恨みでもされたら、まずい……」

「させません。必ず息の根を止めますから」


 ほっそりとした背を撫でながら、レイノルドは誓った。


「この末弟子は、報復は必ず完遂させる男です。安心してください」


 逆恨みに怯える師匠を安心させようと思って告げたのに、アデルはむしろ顔を一層強ばらせ、こわごわとこちらを見つめた。


「レイノルド……。あなた、この程度のことで、人を……殺してしまえるとでも言うの?」

「『この程度』? もちろんです」


 レイノルドは即座に頷いた。

 アデルの指を傷付ける薔薇のとげですら許しがたいのだ。

 彼女の体をまさぐり、頬を打った男など、何度殺したって足りない。


「あ、あなたは、優しい……礼儀正しい、子よね? なのに、相手が、些細な過ちを犯しただけで、簡単に、殺意を向けるの……? お、恩があろうと? 長い付き合いだろうと……?」

「それは、その相手が、殺意を向けさせるだけの過ちを犯したということではないですか」


 さてはこの誠実な師匠は、恩がある相手だからと、あの男を許そうとしたのだろう。

 過剰に義理堅い師匠が愛おしくて、レイノルドはアデルの両腕をそっと掴んだ。


「どれだけ恩があろうと、どれだけ長い付き合いであろうと。大切な宝物を傷付ける人間のことなんて、僕は絶対に許しません。逃がしなどしない。必ずこの手で仕留めてみせます」


 レイノルドからすれば、それは遠回しな告白であった。

 たとえどんな相手を敵に回してでも、アデルという名の宝を守るという。


(ひっ、ひえええええ!)


 だがそれを聞いたアデルは、泡を吹く寸前であった。


(ダメなの!? どれだけ優しくしようが、恩を売ろうが、酌量の余地には繋がらないの!?)


 もちろん今のレイノルドの発言が、「どんだけおまえに恩があろうが、気にくわねえと思えばぶっ殺すぜ」と聞こえたからである。


 では、これまでの積み重ねはなんだったのか。

 アデルの顔が自由に動くなら、思いきり顔を歪めて号泣したかったし、喉が自由に動くなら、力の限り叫びたかった。


「――……っ、レイノルド。それはいけない……」


 だが現実には、アデルは物憂げな顔で、ほんの少しだけ目を潤ませながら、囁き声で告げるくらいのことしかできなかった。


「やむをえない、事情があったのかも、しれないでしょう……? まず、話し合いましょう。相手が真心を込めて、詫びたなら、許してあげるべきだと思う……」


 今だ。

 今この瞬間の説諭に、自分の未来が掛かっている。


 アデルはレイノルドの腕をきゅっと握り返し、祈りを込めて繰り返した。


「レイノルド……。寛容でありなさい」

「――……!」


 途端に、レイノルドは静かに顎を引いた。


 眉を寄せ、アデルの震える拳を見下ろしている。

 もしかしたら、「これだからビビりのババアは」とでも思っているのかもしれない。


「……師匠が仰るなら」


 だがやがて、レイノルドはそう言って主張を引っ込めてくれた。


(よかった! 勝った! 言質取った!)


 この7年、「偉大な師匠」を演じ続けてきた甲斐があるというものである。


「ひとまず、店を、片付けなくてはね……」


 ほ、と肩の力を抜いたアデルは、レイノルドが切なげに自分を見つめていたことも、「本当に、師匠はなんて……」と愛おしげに呟いたこともまったく気付かず、床に散らばった雑貨を掻き集めはじめた。

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