10. 勇者、覚醒する(2)

「レイノルド!」


 すぐ後ろから、掠れた声が掛かり、レイノルドは大声を上げた。

 振り返った瞬間、真っ赤な炎が視界に飛び込んできて驚く。

 煌々と照らし出されていたのは、焦り顔をした彼の師匠だった。


「この、馬鹿! なにをしているの!」


 アデルが声を荒らげるのを初めて聞いた。

 どうやら繊細な喉には相応の負担だったらしく、彼女は言葉を切ると、激しく咳き込んでしまう。


「し、師匠……」

「なぜ、こんな時間に、森に出たの? 怪我は? どこも、噛まれていない……っ? ごほっ!」


 咳き込む合間に、掠れ声で尋ねられる。

 同時に、ぎゅっと両腕を掴まれ、その強さに、レイノルドは痛みとはまたべつの理由で涙が出そうになった。


 師匠が。

 レイノルドの師匠、魔女アデルが、助けに来てくれた。


「師匠ー! 大丈夫ですか!?」

「こっちよ、エミリー……! エミリーの、察知した通り」


 少し離れた茂みから、エミリーが声を張っている。


 どうやら、レイノルドがここにいることは、彼女の精神感応能力で判明したらしい。

 優秀な二番弟子は、肌に触れれば意思疎通ができるし、触れなくてもおおよその感情が読み取れると言っていた。

 レイノルドが思い詰めていたことも、密かに修行しようとしていたことも、お見通しだったというわけだ。


 ――ぐるるる……っ!


 背後でまた魔獣たちの唸り声が聞こえる。

 我に返ったレイノルドは、傍らのアデルに縋り付いた。


「師匠。師匠、すみません、魔獣が、群れで、こっちに、僕がおびき寄せたせいで」

「大丈夫」


 語順も定まらないレイノルドの訴えに、アデルは静かに頷きを返す。


「実は……魔獣の群れが、森のこのあたりにやってくるのは、視えていたの……」


 囁き声で応じた彼女は、喉を押さえながら、精一杯の声を張った。


「マルティン……!」

「わかってる!」


 今度はエミリーとは反対側の茂みから、マルティンの声が響く。


「着火!」


 彼が叫ぶと、ぼぼぼっと籠もった音が上がり、あたり一面に、夜目でもわかるほどの白い煙が立ち上った。


 ――きゃうん!


 途端に、魔獣たちが怯えた鳴き声を上げて、次々と身を翻していく。


「このあたり一面に、魔獣よけの罠を、張っておいた。だから……もう大丈夫。ごほっ」


 自身も煙に喉をやられたのだろう。

 けほけほと噎せる師匠を見て、レイノルドは震えが込み上げるのを感じた。


「師匠……。師匠。すみません」


 自分は何をしていたのだろう。

 焦って、空回って、周囲に迷惑を掛けて。


 喉が弱いこの人に、散々叫ばせて、怒らせてしまった。

 肝心の魔力も、結局鍛えられぬまま。


「僕、早く、強くなりたくて」


 心が震え、止めどなく言葉が零れ落ちてくる。


 言い訳と、本音。

 隠していた感情が堰を切ったように溢れ出し、止まらない。


 いつの間にか斧を取り落としていた両手が、かくかくと震えていた。


「役に……役に、立たなきゃ、捨てられてしまうと、思ったんです。才能がないなら、そのぶん、努力をと」

「馬鹿ね……」


 不意に、ぎゅっと強く抱きしめられ、レイノルドは声を途切れさせた。


「何度も言っているでしょう? 魔力なんて……全然、本当に、全っ然……なくてかまわない。お願いだから、無茶をしないで……」


 末弟子を抱きしめたアデルは、万感の思いを込めて言い聞かせた。


 この真面目な少年には悪いが、魔力の発現なんてまったく求めていないのだ。

 むしろ弱いままでいてほしいし、安全な場所にいてほしい。

 万が一にも怪我を負って、こちらを恨まないでほしい。


「でも、下級魔獣すら追い払えないんじゃ、弟子失格で」

「私が、守ってあげる……」


 そして恩を売りまくる。

 静かに息を呑んだ弟子を、アデルは力業で丸め込んだ。


「とにかく、あなたには、幸せに生きてほしいの……。人生を楽しんで、どうか、寛容な人になって。私が願うのは、本当にそれだけ……」


 レイノルドは黙りこくっている。

 まだ反論しようとしているのかもしれない、と考えたアデルは、次なる一手に打って出た。


「ねえ、私は、今のあなたが好きよ……。あなたは、薬草の種類を、誰より早く覚えた。鍋釜の扱いも、丁寧だわ。薪はいつも、幅が揃っている。目を見て、挨拶してくれる……。食事の味つけも、好みに、合わせてくれる。こんな素敵な弟子がいて、幸せ者だわ。このままで、いいの……」


 褒め殺し攻撃である。


(現状で十分だと伝える! 褒めて満足させてしまうことで、相手の向上心を根腐れさせる! 現状維持こそベストなのだと相手に思い込ませる究極の技!)


 人間という生き物は、褒められるとすぐいい気になって、努力を投げ出してしまうものだ。

 ソースはアデル自身である。


「師匠」


 渾身の褒め殺しが効いたのか、レイノルドがぽつんと呟いた。


「僕、嬉しいです」


 身を起こした途端、双眸からぽろりと涙が零れる。

 そう、彼は、嵐に揉まれる木の葉のように、激しく心を震わせていた。


(「守ってあげる」なんて、初めて言われた)


 アデルの言葉の一つ一つが、レイノルドの心の奥底にあった一番柔らかな場所を、強烈な眩しさで照らし出していたからである。


 夜の森に駆けつけてくれたアデル。

 喉を痛めてまでレイノルドの身を案じてくれたアデル。


 弟子が焦りを見せれば、彼女は静かな言葉でそれを諭した。

 気負いもなく弟子を「守る」と言い切り、未熟者でしかない彼を、かけがえのない存在であるかのように、些細なことまで褒めあげた。


 腕輪が教えてくれる。

 彼女が発するどの言葉にも、嘘はないと。

 こんなに優しい眼差しが、これまで自分に注がれたことがあっただろうか。いや、ない。


 彼女はレイノルドの初めての師。

 父をも、母をも越えて、自分を丸ごと受け止めてくれる、世界で唯一の人。


(強くなりたい)


 まるで闇に射す光のように、強く、きっぱりと、彼は思った。


(強くなりたい。この人に恥じないように)


 何をせずとも愛されている。

 そう信じられたからこそ、むしろ何かがしたいと思った。


 焦りや恐怖のためではなく、心の奥底から湧き出る希望のために、己を磨きたいと強く願った。


「僕」


 ――ごおおおお……っ。


 呟くと同時に、心臓の奥から、唸り声のような音が聞こえて驚く。

 だがその唸りは、獣の鳴き声などではない。

 熱き血潮、渦巻く魔力が立てる轟きなのだと、本能でわかった。


「僕は」


 膜のように全身にまとわりついていた何かが、千切れ、溶け消えていくのを感じる。

 レイノルドの魔力を抑え込んでいたそれは、諦念であり、絶望であり、己への憎しみだった。


 ああ、今ならわかる。

 魔力の発現に必要だったのは、危機なんかではない。

 力を揮って己を、または誰かを守りたいと願う心――何かを愛おしむ、切実な思いだった。


 ごおっ、と音を立てて、周囲に風が巻き起こる。

 内側から溢れる力、それに耐えかねて、魔獣の牙でひび割れていた腕輪が、ばきっと砕けた。


「えっ?」


 ぎょっとしたのはアデルである。

 先ほどまで、褒め殺しが効いてうるうる感涙にむせんでいたはずの弟子が、突然譫言とともに、魔力を解放したのだから。


(か……っ、覚醒~~~~~~~~!?)


 つい先ほどまで、下級魔獣を追い払うこともできない微弱な魔力しかなかったくせに、今では、目の前に立っているアデルが、思わずじりっと後ずさるほどの魔力に満ちている。


 太陽でも踏みしめているかのように、彼の足元から光が溢れ、風が起こり、火の粉が散った。

 こんなの、魔力の知識が一欠片もない人間にだって、高魔力の渦だとわかる。


「これは……」


 レイノルドは驚いた様子で、己の両手を見下ろした。その金髪は宵闇を照らすように淡く輝き、青い双眸も、一層明るさを増している。


 彼が本能に導かれるように、ふっと手を広げると、掌にはたちまち炎の玉が渦巻いた。

 軽く振り下ろすと、あたりを煌々と照らしながら炎の幕が広がる。


 草木に燃え移ったのを見て「まずい、消さなきゃ」と彼が拳を握ると、それだけで手首を囲むように水の輪ができた。

 レイノルドが思いついたように水の輪を「投げる」と、水は高貴な鳥のように炎の幕に襲い掛かり、見る間に鎮火してしまった。


 もちろんその間、ごうっ、ごうっ、と風が唸りを立てるおまけ付きである。


 ということは――少なくとも、火、水、風、三属性の高水準魔力。


(な、なんで!?)


 アデルは白目を剥くかと思った。


(なんでなんで!? そのままでいいって言ったじゃん! 魔力鍛えるなって、言ったじゃん!)


 衝撃のあまり、本来の彼女ならとっくに顎を外して魂を放出していただろうが、表情筋の鈍ってしまった顔では、せいぜい「唇からあえかな吐息を漏らす」くらいにしかなっていないのが口惜しい。


 呆然と立ち尽くす師匠の背後では、一連のやり取りを見守っていたマルティンが、やはり衝撃覚めやらぬ状態で呟いた。


「なんで、こんなことに……。せっかく甘やかしてダメにしようとしてきたのに」

「師匠の本棚に放置されていた育児書を、この前私も読んでみたのですが」


 隣で静かに佇んでいたエミリーも、遠い目をして話し出す。


「子どもというのは、まず全身で愛情を示して自己肯定感を育て、スモールステップで具体的に行動を褒めて、『できたね』『見てるよ』というメッセージを伝えると、すごく才能が伸びるのですって」

「おいおい」


 マルティンは青ざめた顔で、ぎぎ、と振り返った。


「それ、師匠まんまじゃないか」

「そういうことです」


 エミリーは投げやりな笑みを浮かべ、付け足した。


「師匠は、ご自身はぽんこつですが、育ての才があるということ……身をもって知っていたはずなのに、舐めていました」


 顔を輝かせて、「師匠!」と叫ぶレイノルドと、絶句して立ち尽くすアデルのことを、二人は掛ける言葉も失って、しばし見守り続けた。

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