09. 勇者、覚醒する(1)
さて、それから三月ほどが瞬く間に過ぎた。
レイノルドはといえば、連れ去った当初の反抗的な雰囲気は徐々に薄らぎ、今では自主的に薬草摘みや雑事をこなしてくれるようになった。
元々、とても真面目な性格の持ち主なのだろう。
しかも彼は大層器用で、飲み込みも早く、膨大な種類の薬草もあっという間に覚えてしまったし、簡単な薬ならマルティンやエミリー以上に上手に作れるようになってしまった。
適当に飼い殺ししようとだけ企んでいたアデルからすれば、これは嬉しい誤算だ。
ただし、
「師匠。僕にも、魔力の指導をしてください」
ある夕食時、彼がこのように申し出てきたのは、嬉しくないほうの誤算だった。
「魔力の、指導を……?」
「はい。僕はこの金髪碧眼の容姿と、微弱な魔力を見込まれて、教会に連れて行かれました。今は、少しだけものが浮かせられる程度ですが」
そう言ってレイノルドが強く目を閉じると、食卓に並べられていたシチュー皿が、ふわりと指一本ぶんほど浮き上がる。
ただし、彼がほっと息を吐き出すと、皿は中身を飛ばしながら、ごとごとと音を立てて元の位置に戻ってしまった。
レイノルドはばつが悪そうに口を歪めたものの、次の瞬間には真剣な顔になってアデルを見つめた。
「でも、今の年から一生懸命修行をすれば、大人になる頃には、それなりに使いこなせるようになると思うんです」
「うーん……」
困ってしまったのはアデルのほうだ。
なにしろ彼女は、レイノルドの魔力を増強させないという目的で彼を攫ったのだから。
ここで律儀さを発揮され、予知のとおりに勇者レベルの魔力を覚醒させられてしまったのでは、四肢切断拷問死にまた一歩近付いてしまう。
よってアデルは、末弟子が作ってくれたえらく美味なシチューを味わいながら、慎重に言葉を選んだ。
「私は師匠を名乗ってはいるけれど、マルティンたちにも、真剣に修行なんて、させたことないし……」
「それは嘘です。マルティン兄さんには火魔法を、エミリー姉さんには精神感応魔法を、師匠が教えているんですよね。前に見ました」
言い訳を、レイノルドはやけにきっぱりと否定する。
たしかにアデルは、二人の弟子たちに修行をさせたことがあった。
というのは、この二人がそれらの魔法を使えると、詐欺まがいの占い稼業をするとき、なにかとはったりを利かせられて便利だからだ。
アデルとて専門の教育を受けてきたわけではないが、育ての親だった魔女を通じて様々なタイプの魔力を見てきただけに、ちょっとしたコツの伝授くらいはできるのだった。
(この子、時々やけにはっきりした物言いをするのよね)
気迫に飲まれておどおどしていると、援護射撃するかのように、弟子たち二人が身を乗り出す。
「レイノルド。はっきり言っておまえには適性がないんだよ。だから師匠も教えないんだ」
「私は五歳くらいですでに、人の気配を探るくらいのことはできましたし、触れれば人の心を読むこともできました。魔力の才は、生まれつきの部分が大きい。諦めた方がいいと思います」
どうやらレイノルドの心を折ってしまう作戦に出たようだ。
目が泳いでいるマルティンはともかく、エミリーは可憐な口調ながら、なかなかの説得力を醸し出している。
レイノルドも、マルティンのことは冷めた目で見つめるだけだったが、エミリーの発言を聞くと、軽く手首をさすりながら――どうやら彼が嵌めている腕輪は形見か何からしく、彼はしょっちゅう腕輪を撫でているのだ――、しょんぼりと肩を落とした。
「……僕には才能がないんですね」
「いや、それはないけど」
思わず、ツッコミを入れる感覚できっぱりと否定してしまう。
もし教会に留まっていたなら、レイノルドは勇者として大成する器だ。
その彼が魔力を高いレベルで発現できていないのは、ひとえにアデルが稽古を怠っているからにほかならない。
ぽろりと本音が漏れてしまっただけだが、せっかくのフォローを台なしにされたマルティンがこっそり睨んできたので、アデルは慌てて軌道修正を図った。
「ただね、そうではなくて……レイノルド。あなたには、魔力を鍛える以外の、素敵な人生を送ってほしい……。たしかに、危険な目に遭えば、強制的に魔力も高まるけれど……、私は絶対、あなたをそんな目に、遭わせたくない」
目を見て伝える。
まるで子どもを甘やかす母親のような台詞だが、本心からの願いでもあった。
たとえば下級魔獣あたりに彼を襲わせて、生存本能を刺激することで強制的に魔力を高める方法もあるにはあるが、その際に、レイノルドがたとえば怪我を負ったりして、自分を恨むようになったのでは堪ったものではなかった。
日頃薪割りは頼んでしまっているが、本当のところを言うなら、レイノルドには薔薇の棘すら触ってほしくないくらいだ。
薬草摘みだって、以前は夕刻まで熱心に森を探索していたが、最近では「魔獣が出るから早く帰りましょう」と、レイノルドを安全に家に帰すことを第一義にして過ごしている。
「魔力なんて、発現しなくて、全然構わない。ただ、美味しいものを食べて、たくさん笑って……そういう、幸せな人生を、歩んでくれればと……」
そしてストレスなく余裕だけがある日々の中、寛容な心を育んで、魔女弾圧を止め、アデルたち辺境の存在のこともさらりと見逃してくれたら、これに勝る喜びはない。
(魔力なんて全然使えなくていいから、そのまま、だめだめな君でいてちょうだい!)
願いを込めて告げると、レイノルドははっとしたように息を呑み、強く手首を握りしめた。
「師匠は、本当にそう思っているんですね。お荷物でしかない僕でも、幸せに生きてほしいと」
「もちろん」
アデルは心から告げた。
「お荷物だなんて……誰が言ったの? 私は、今のままの、あなたがいい……。もし、あなたを馬鹿にするやつがいたら、私が、ぶっ飛ばしてあげるわ……」
主に、「私の未来を拷問死に近付けるんじゃねえ!」という理由でだが。
アデルは我が身が可愛かった。
と同時に、この末弟子が可愛くなってきたのも本当だ。
レイノルドは、最初こそツンツンしていたが、打ち解けてみればなかなか素直だし、器用だし、気が利く。
それにこの通りの清らかな美貌の持ち主なので、ただそこに立っているだけでアデルの商売の信用度が増す。
アデルのする中途半端な占いも、レイノルドに結果を読み上げさせるだけで人々はありがたがって涙を流すし、マルティンたちに作らせたそこそこの薬も、レイノルドに売らせるだけで人々は競うように買って行くのだから。
おかげでこのところ、「アデルの家」の収益は前年の二倍以上だ。
悪夢の頻度もだいぶ減ってきたように思う――とはいえ予知夢の内容自体は変わっていないのでさほど安心できないが――。
アデルとしては、現状になんの不満もなかった。
この状態が続くなら、予知夢の示す十四年後が過ぎたあとも、彼の面倒を見てもいいと思うくらいだ。
「楽しい人生を送る……それだけが、私の望みよ。レイノルドにも、ぜひ、そう思ってほしい」
レイノルドはしばらくアデルを見つめていたが、やがて消え入りそうな声で「はい」と頷いた。
目が少し潤んでいるように見えたが、機嫌を損ねたようではない。
(わかってくれたみたいね!)
アデルは安堵し、再びスプーンを手に取った。
レイノルドが作ってくれたシチューは、どういうわけだかアデルの好みにぴったり合い、どれだけ食べても食べ足りない美味しさなのだ。
淡々とした無表情の下、ご機嫌でシチューを貪っていたアデルは、レイノルドが強く手首を握りしめたことも、それを見たエミリーが心配そうに顔を顰めたことも、気付かずにいた。
***
レイノルドは夜の森にいた。
右手には斧、左手には松明。これが、彼のできる最大限の装備だ。
なんの装備かといえば――魔獣を殺すための。
そう、彼は今、魔獣が出没するという森にいた。
日中の穏やかな雰囲気とは打って変わって、夏だというのに冷えた風が吹き、木々がざわざわと不穏な音を立てる。
どこからともなく聞こえる、不気味な鳥の鳴き声。
背筋がぞくりとしたが、レイノルドは短く息を吐き出し、覚悟とともに森へと一歩踏み出した。
(強くならなくては)
痛切な思いが、彼の歩みを力強いものにした。
(師匠たちに、迷惑を掛けないように)
日中のアデルたちが、下級魔獣も倒せないレイノルドのため早々に森を引き上げていることに、彼は早くから気付いていたし、心苦しく思っていた。
同時にこうも思っていた。
なぜ彼女たちは、自分にこんなによくしてくれるのだろうと。
レイノルドは生まれてこの方、誰かに守ってもらったことなどなかった。
常に嫌悪と嘲笑を向けられ、臭いと罵られ。
ささやかなパンをもらうのにも、寝床を確保するのにも、頼み込み、または労働力を提供し――とにかく対価を払わずには何も得られなかったのだ。
魔力が認められ、教会に引き取られたときもそうだった。
彼らは最初こそ三食を手当てしてくれたが、レイノルドにろくな魔力が見込めないとわかると、掌を返したように搾取を始めた。
だというのに。
――あなたには、幸せな人生を送ってほしいの。
アデルはいつも、レイノルドにそんなことを告げた。
初めて家を案内してくれたときは、「これはあなたのベッド」、「これはあなたにあげるパジャマ」と、物をひとつひとつ指差して教えてくれたものだ。
レイノルドは、こんな自分でも何かを所有していいのだと言われた気がして、ひそかに涙が出そうなほどだった。
――美味しいものを食べて、たくさん笑って……そういう、幸せな人生を、歩んでくれればと。
まるで祈るような、囁き声。
そっと心に染み入る声を聞くたびに、彼女はなんて美しい人なのだろうとレイノルドは思う。
儚げで、たおやかで、静謐で。
いつも本心から他人の幸福を祈っている。
(そう、本心から)
レイノルドは左手の腕輪に視線を落とした。
彼女がレイノルドの幸福を祈る言葉に、嘘はない。
このままでいい、何もできないままでいいと言ってくれたときすら、腕輪は熱を帯びなかった。
同時に、素質がないと落ち込むレイノルドに、「そんなことはない」と告げたときも。
(ということは、師匠は僕の実力を信じてくれているんだ。なのに無理をしないでいいと言ってくれている)
才能を信じてくれている。
そのうえで付け込もうともしない。
そんな人間に接したのは、初めてだった。
一方でマルティンやエミリーは、レイノルドに時々呆れたような視線を向けている。
告げ口のようだと思ったから言わなかったが、マルティンに「この程度の実力なのに、どうして師匠は……」と溜め息を吐かれたこともあったし、エミリーにも同様の言葉を呟かれたことがあった。
「どうして師匠は」の後に何の言葉が続くのかは、聞かないでもわかる。
「こんなに面倒を見るんだろう」といったところだろう。
(見捨てられたくない)
心の奥底には、漠然とした恐怖があった。
無償で捧げられる愛情なんてないのだ。
きっといずれ、アデルもレイノルドを捨てる。
ならば、その時期が少しでも先になるよう、自分にできる対価を差し出さなくてはならない。
(食事作りも、薬草販売も、誰だって替えが利く。師匠の「弟子」と名乗るなら、魔力が使えなくてはだめだ)
教会でもこんなに必死に魔力を鍛えようとしたことはない。
だが今、レイノルドは焦燥感に追い立てられるように、一心に森の奥を目指した。
森の奥、沼が広がるあたりには、狼のなりをした下級魔獣が出没するという。
おそらくだが、炎と斧があれば、なんとか撃退できるだろう。
それなりの危機にこの身をさらして、魔力を上げなくては。
そのためなら、レイノルドは腕の一本くらい失ったって構わないくらいの覚悟だった。
(魔獣は、肉の匂いに惹かれて集まるという。肉なら持ってきた。おびき寄せたところを、火と斧で倒して)
腰に下げた巾着には、干し肉の塊を入れてきた。
これでやって来た魔獣に、斧を使って斬りかかればいい。
日頃の薪割りで、斧の扱いはだいぶ慣れてきたし、十分な食事のおかげで体力も付いてきた。
きっとこれなら、下級魔獣程度ならどうにかなる。
(危機に接すれば、魔力は高まる)
勇気を引き出す呪文のように、レイノルドは内心で繰り返した。
考えてみれば、今の指一本ぶんだけ物を浮かせる魔力だって、酔った父親が力任せに灰皿を投げつけてきたときに発現したものだ。
重厚なガラスでできた灰皿が、もし幼いレイノルドの頭蓋に当たっていたなら、死すら免れないものだった。
レイノルドは恐怖し、咄嗟に悲鳴を上げ――すると灰皿は、彼から指一本分だけ離れた位置で静止したのだった。
もっとも、その後すぐ床に落ちてしまったけれど。
(あのときの感覚を思い出すんだ)
死に接する恐怖。
きっとそれさえあれば、自分はもっと強くなれる。
覚悟を決めて、レイノルドは斧を握り直した。
「さあ、来い」
小さな呟きに応じるように、森のあちこちから、甲高い遠吠えが響き渡る。
最初は、数匹。
だが、鳴き声は呼応するように広がってゆき、たちまち、数十匹と思しき大合唱になった。
――うおおおおお……ん!
何十と束ねられた遠吠えは、まるで地響きのようだ。
思わずびくりと肩が揺れる。
茂みががさっ! と鋭い音を立るのを聞き、急いで松明の火をかざしたレイノルドは、そこに映る光景に息を呑んだ。
「こんな……」
炎を反射し、爛々と輝く瞳。
闇の中で不穏に輝くそれらは、一対ではなく、軽く見積もっても二十対はあった。
「――……っ」
敵わない。
本能が激しく警鐘を鳴らす。
腕一本どころの話ではない。
こんなのに囲まれたら、あっという間に内臓まで食らい尽くされてしまう。
(怖い……っ)
無意識に、じりっと足が草むらを踏みしだく。
ぐるる……という魔獣の唸りを聞いた途端、レイノルドは脱兎のごとくその場を逃げ出した。
(怖い、怖い、怖い――!)
あまりに激しく走ったがために、松明の炎が掻き消えてしまう。
真っ暗になった視界で、レイノルドは叫び声を上げながら斧をめちゃくちゃに振り回した。
――がう……っ!
だが、俊敏な闇色の狼は、斧の猛撃を躱し、うちの一匹が腕へと噛みついてくる。
「うわあああ!」
幸いにして、腕輪を嵌めていた部分だったために食いちぎられずに済んだが、牙が金属に食い込むがちん! という音と衝撃は、レイノルドの理性を完全に吹き飛ばした。
「あ、あ……、ああ!」
逃げなくては。どこかへ。
誰か。
自分を助けてくれる人のもとへ。
だが、どこへ――?
「レイノルド!」
すぐ後ろから、掠れた声が掛かり、レイノルドは大声を上げた。
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