可惜夜を、君と。

碓氷澪夜

逢いたい人

 雨が降っていた。

 アスファルトを打ち付けるような、強い雨。

 その音は耳障りで、耳を塞ぎたくなる。


 喫茶店の閉店後の掃除をしながら、何度目かわからないため息をつく。


 すると、壁を隔てて聞こえていた雨音が、やけにはっきりと聞こえた。

 雨音の中に、聞きなれた小さなベルの音がする。


「すみません、今日はもう閉店……」


 僕の言葉は、雨音にでも攫われたのかもしれない。


 そこにいる女性を見て、言葉が出なくなった。

 さっきまで耳障りだった雨音は、聞こえない。


 だって、そこにいたのは。


「ただいま」


 僕の恋人で。


「……ユウ」


 婚約者だった人だ。


 彼女は僕の記憶と変わらない声で僕を呼び、笑みを浮かべてそこにいる。

 僕はそれが信じられなかった。


 だけど、僕は黙ってこの状況を受け入れよう。


「おかえり……」


 声が震える。


 ああ、また君に”おかえり”と言える日が来るなんて。

 もう一度、君の名前を呼べるなんて。


 ずっと、ずっと会いたかったんだ。


「……風歌ふうか


    ◆


 再び雨音の存在に気付いたとき、僕はこれが夢であると理解した。


 だって、風歌は一年前に、僕の世界だけでなく、この世界からも消えてしまったのだから。


 あの日も、今日みたいに強い雨が降っていて。

 神様は簡単に風歌を奪っていった。


 僕はそれを理解しているし、ずっと寂しさを抱えながら今日までなんとか生きてきた。


 だけど、風歌と二人で始めたこの喫茶店に風歌がいると、僕は長い悪夢を見ていたのではないかと思えてくる。


 それくらい、風歌は昔と変わらない様子でそこにいる。


「ユウ、お店続けてくれてたんだね」


 風歌が懐かしみながら店内を見渡しているのを見ると、ずっと、風歌は僕のそばにはいなかったのだと思い知らされる。


 やっぱり、これが夢らしい。


「……遥希はるきが、手伝ってくれたんだ」

「あの不愛想な遥希君が?」


 風歌は信じられないと言わんばかりの表情で言う。

 僕だって、遥希が自ら手伝うと言い出したときには信じられなかったから、わからないこともない。


「大丈夫? クレーム来てない?」


 かなり辛辣なコメントに、僕は思わず笑ってしまった。


「大丈夫。バイトで女の子が入ってくれたんだけど、その子の雰囲気で緩和されてるから」

「バイト?」


 また驚いた顔をした。


「あんなに、バイトは雇わないって言ってたのに」


 だって、風歌と経営しているときは、二人がよかったから。

 ほかの誰にも、風歌との時間を邪魔されたくなかったから。


 たとえ手が回らなくなっても、僕たちのペースでこの店を育てていけばいい。


 そう思っていたから、バイトを雇うつもりはなかった。


 でも、状況は変わってしまった。


「ねえ、ユウ」


 僕の口が重くなったのを察してか、風歌は明るい声で僕を呼んだ。


「久しぶりに、ユウのコーヒーが飲みたいな」

「……わかった」


 そして僕たちはカウンターに移動した。


 夜、雨が降っているのに、キッチンスペースを物色する風歌は楽しそうに見える。

 心なしか、僕からも憂鬱な気分が消えている気がした。


「デザートは、売り切れたの?」


 冷蔵庫を見ていた風歌は、少し落ち込んだ様子で言った。


「それは風歌が作って提供していたでしょ? 僕は風歌みたいに美味しいものは作れないし。だから、今はコーヒーと軽食のみ」

「そっかあ……」


 口を尖らせる風歌は、僕の隣に立った。

 僕を見上げるその瞳には、期待が見える。


 真横で手元を見られるなんて緊張するからやめてほしいところだけど、言えるわけもなく。

 僕が豆を挽き始めると、風歌は手で仰いでその香りを楽しんでいる。


 この時間が、ずっと続けばいいのに。


 そんなことを思いながら、慣れた手つきでコーヒーを作る。

 すると、風歌が小さく笑い声をこぼした。

 笑うところがあっただろうかと風歌のほうを見る。

 目が合うと、風歌は優しく微笑んだ。


 僕の好きな笑顔だ。


「幸せだなって思って」


 風歌は、こういうことを素直に伝えてくれる人だった。

 僕はいつも頷くばかりで。


「……僕も、そう思うよ」


 もっと、自分の気持ちを言葉にして伝えていればよかったと、何度後悔したことか。


「ユウ?」


 僕が変な間を作ったせいか、風歌は心配そうに、顔を覗きこんできた。

 僕は笑顔を見せ、なんでもないふりをする。


「ん?」


 風歌はじっと僕の顔を見つめてくる。

 そして少し切なそうに眉尻を下げた。


「もしかして……新しい恋人でもできた?」

「まさか!」


 想像もしていなかった言葉に、思わず大きな声を出してしまった。


 風歌は数回瞬きをして、顔をほころばせた。


「……そっか」


 その安心した表情に、僕が風歌を忘れられないでいるのは、迷惑ではないのだと思い、僕も安心した。


「わ、いい香り」


 コーヒーをカップに注いでいくと、風歌が声をこぼした。


「もう少しで完成するから、座っておいて」

「はあい」


 間延びした声と共に、風歌はカウンター席に移動した。


 風歌から僕の手元が見えなくなったことを確認して、僕は完成したばかりのブラックコーヒーに砂糖をいれていく。


 ブラックが一番、僕の味を感じられると言っていたけれど。

 本当はコーヒーの苦味が得意ではないのを、僕は知っている。


 だからいつも、こっそりと微糖にしていた。


「さ、どうぞ」


 風歌の前にカップを置くと、風歌はそれを手に取り、一口飲んだ。

 すると、風歌の頬に涙が伝った。


「え、え? もしかして美味しくなかった?」


 風歌は首を横に振る。


「違うの、変わらない味だから」

「……そっか」


 一年も作らなかった、風歌だけのための味。

 ちゃんと風歌の記憶通りに作れていたことに、僕のほうこそ泣きそうだ。


「この味が失われなくて、本当によかった……」


 このお店がなくなっていなくてよかった。


 そう、言われている気がした。


「ここを守ってくれて、本当にありがとう、ユウ」


 まっすぐな言葉に、小さな罪悪感が芽生えた。

 僕は、感謝されるようなことをできていただろうか。


「……ユウ?」

「ごめん、風歌……」


 自分自身で違うと思っているから、まずその言葉が出た。


 すると、風歌は手招きで僕を呼んだ。

 僕は風歌の隣に座る。


「……僕、本当はこのお店を続けるつもりはなかったんだ」


 僕たちは雨音に包まれていく。

 話題のせいもあって、このまま雨音に攫われたいと思ってしまう。


「それは……どうして?」

「だって、もう……」


 もう、風歌はここに帰ってこないから。


 独りになって見たこの場所は、輝きを失っていた。

 初めて見たときには、あんなにまばゆかったのに。


 風歌がいなくなっただけでこんなにも変わるのかと、酷く絶望した。

 雨音を聞けば、何度でもその絶望の瞬間を思い出してしまう。


 だから雨は苦手なんだ。


「……それでも、続けてくれたんだね」


 僕が続きを言えないでいると、風歌がそう言った。

 また“ありがとう”と言われている気がした。


「……遥希に、言われたんだ。風歌との大切な場所を、僕が潰してどうするんだって。そのとき、目が覚めた」


 風歌との大切な場所。

 それをほかでもない、僕がなくそうとしていたなんて。

 僕はなんてバカなことをしていたんだろうって、自分をひどく責めた。


「でも……一人でここに立つことはできなかった」


 開店準備をしていたら、どうしても風歌の声が聞こえてきた。


『今日はお客さん、たくさん来そうだね』

『今日のガトーショコラはすごく綺麗にできたの』

『今日も頑張ろうね』


 この店には、風歌の面影がありすぎたんだ。


 風歌の言葉を思い出すたびに、僕は涙を流した。


 何度も、何度も、何度もそれがあって。

 半年くらいは店を開くことができなかった。


「それに気付いてくれた遥希が、手伝うって言ってくれたんだ」

「優しい子だね、遥希君」

「うん、自慢の弟だよ」


 僕の言葉に、風歌は優しく微笑んだ。


「遥希君とやってみて、どうだった?」

「どう……」


 初めて働く遥希のカバーをしたり。

 笑顔で対応できない遥希をカバーしたり。

 風歌とやっていたときにはあまり来なかった層が来るようになって、より忙しくなったり。


「……大変だったかな」


 忙しいあまりに寂しさを忘れるくらい、大変だった。

 それを思い返すと、つい苦笑してしまう。


 だけど、遥希に助言されて、このお店を再開して、またたくさんのお客さんと関わって。


 僕はまだ独りではなかったんだと教えてもらえた。


「……なに?」


 風歌があまりにも温かい目を僕に向けていたから、なんだか恥ずかしくなってきた。


「ユウが楽しそうでよかった」


 風歌にそう言われてしまうと、泣きたくなってくる。


 風歌がいない世界で、平気なわけないだろ。


「……ごめん、そんな顔させたかったわけじゃないの」


 そう言う風歌のほうが泣きそうになっていて、お互いに気まずい空気が流れてしまった。

 気付けば、雨音は弱まっている。


「そういえば、バイトの子は、どんな子なの?」

凪月なつきちゃんって覚えてる?」

「覚えてるよ! ガトーショコラが好きだった、黒髪ロングの子だよね」


 風歌の表情も声も、一気に明るくなった。

 風歌は、僕よりもお客さんと会話をすることが好きだった。


「そうそう。今はショートの茶髪になってるけど」

「そうなの? 見てみたいなあ」


 どんどん眩しい笑顔になっていく。

 それに加えて身を乗り出している。


「その凪月ちゃんの妹さんが、バイトしたいって申し出てくれたんだ」

「へえ。素敵な繋がりだね」


 風歌はまた、表情を和らげた。

 僕が風歌の知らない世界を広げていることが、そんなに嬉しいなんて。


 寂しいと感じているのは、僕だけ?


「ほかの常連さんは元気?」

「え? あ、うん、元気だよ」


 風歌のその言葉をきっかけに、僕はほかのお客さんについて話していった。


 風歌の表情は明るくなったり、寂しくなったり、驚いたり。

 そしてまた笑ったりと、ころころと変化した。


 こうして話していると、風歌は本当にこのお店が好きだったのだと伝わってくる。


「ねえ、風歌……このまま、ここにいてよ……」


 叶わない願いだということはわかっている。

 でも、願わずにはいられなかった。


 僕の言葉を聞いて、風歌は少し困ったように見えた。


 どうして僕は、風歌のことを考えずに、わがままを言ってしまったんだろう。

 でも、言わないと、風歌が消えてしまうような気がしていた。


「ごめんね、ユウ」


 わずかな沈黙ののち、風歌は言った。


 その表情は僕よりも苦しそうで、僕はそれ以上わがままを言うことはできなかった。


 僕たちの間に流れる沈黙。

 また、雨が強くなっている。


 夜の雨は、また風歌を連れ去っていくのだろうか。


 嫌だ。


 風歌は“ごめん”と言ったけど、やっぱりどこにも行ってほしくない。

 ここにいてよ。


「……好きだよ、風歌」


 僕のわがままは、別の言葉となって口を出た。


 それは、今まで素直に言ってこなかった言葉で、風歌は驚きを隠せていない。


「えっと……嬉しいけど、急にどうしたの?」


 少しずつ、喜びの表情へ、そして頬を赤らめていった。


 どうして僕は、一番大切なことを伝えていなかったんだろう。

 風歌がいなくなってから、何度も後悔していたけど、こうして風歌の反応を見ると、改めて後悔の念に襲われる。


「今、伝えないとって、思ったから」


 僕はまっすぐ、風歌と向き合う。


「風歌の、周りも明るくする笑顔が好きだ。困っている人、悩んでいる人にそっと寄り添える優しいところが好きだ。ブラックが苦手なのに、僕のコーヒーを美味しいって言いたくて少し無理しちゃうところも、可愛くて好き」


 どれも陳腐な言葉かもしれない。

 それでも、少しでも風歌に僕の想いが届いてほしくて、懸命に紡いでいく。


「お客さんに喜んでもらうために、夜遅くまでお菓子作りを研究したり、過ごしやすい環境を作ったり、たくさん努力してたところも、全部、全部、大好きなんだ」


 だから、君と生きていきたかった。

 君と、一生の愛を誓いたかった。


 それはあまりにも残酷な言葉だから、言えなかった。


 気付けば、僕の頬には涙が伝っていた。

 風歌はそっと手を伸ばし、僕の頬に触れる。


 二度と、温もりは感じられないと思っていた。

 実際、今でも感じていないのかもしれない。


 でも、風歌と触れ合っているというだけで、僕の心は優しい温もりに包まれたような気がした。


「ユウ……」


 愛しい声で、風歌は僕の名前を呼ぶ。


「……優人ゆうと


 僕はそっと、風歌の手に自分の手を重ねた。


「たくさんつらい思いをさせて、ごめん。今日まで生きてくれて、私たちの大切な場所を守ってくれて、本当にありがとう」


 ただ静かに、首を横に振る。

 もう、涙は止まりそうになかった。


「優人」


 風歌は何度も僕の名前を呼ぶ。

 柔らかい声で、何度も。


 まるで、それが風歌の“未練”のようで。


 風歌が僕の前から消えてしまう、カウントダウンが始まった気がした。


「……風歌」


 僕は静かに、風歌の声を止めた。


 つらいけれど。

 受け入れたくないけれど。


 現実は、相変わらず容赦ないから。


 僕は、精一杯の笑顔を見せる。


 ずっと、君に言えていなかった言葉を、今。


「……さようなら、風歌」


 風歌は涙を浮かべ、微笑んだ。


「……バイバイ、優人」


 そして風歌は、僕の前からいなくなってしまった。



    ◇



 目が覚めると、雨は止んでいた。

 どうやら僕は、カウンター席で眠ってしまったらしい。


「起きたか?」


 上から降ってきた声は、遥希の声。

 僕はゆっくりと身体を起こす。


「うん……」


 いい夢を見ていた気がするのに、覚えていない。

 でも、不思議と満たされている感覚だ。


「コーヒーで眠気覚まししようとしておきながら、一口も飲まずに寝るとか、なにしてんだか」


 遥希はそう言って、鼻で笑った。

 そして僕の傍にあったカップを運んでいる。


 ……コーヒー?


「……遥希、ちょっと待って」


 なにか大切なことを思い出せそうで、慌てて遥希を止める。


「ごめん、ちょっと」


 遥希からカップを受け取り、すっかり冷めてしまったコーヒーを喉に通す。


 間違いない。

 これは、風歌用の微糖コーヒーだ。


 そうだ、僕は、ここで風歌と話したんだ。


「兄貴? 大丈夫か?」


 遥希が心配そうな顔をして言うから、僕は自分が泣いていることに気付いた。


「……大丈夫、大丈夫だよ」


 遥希は納得いっていないように見えるけど、本当に、大丈夫なんだ。


 今でも風歌を失ったつらさは消えないけれど、僕の気持ちは、とても晴れやかなんだ。


 ずっと、大好きだからね。


 僕は青空を見上げ、そう、心の中で呟いた。






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