歓楽街
葛原桂
陰陽師記録ファイル
都市に住む乱れた短髪に黒い瞳。行方不明になった彼女から貰った黄色と黒のストライプ模様のネクタイが特徴の
しかし、約一週間前に花さんは突如として行方を眩ませたのだ。
花さんがこのまま行方不明のままだったらと不安が積もっていく彼はある日、同僚の飲み会に誘われたのだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
蒸し暑い夏の夜、都会の喧騒が続く居酒屋の一角。
ざわめく声とグラスのぶつかる音が響く中、裕介は無表情のままジョッキを手にしていた。
「まだ、花さん見つかってないんだろ……」
隣に座った同僚の田中が気まずそうに声をかけてきた。裕介はジョッキの縁を親指でなぞりながら小さく頷くだけだった。
「……ああ、警察もまだ手がかりがないってさ」
自分で言った言葉が胸に重くのしかかる。田中は周りの状況を見ると軽く舌打ちをして裕介の肩を軽く叩いた。
「なぁ裕介、お前何か心当たりないのか? 花さんがいなくなる理由とかさ」
「……もし、俺が何かしちまったんだとしたら?」
裕介は虚ろな瞳でジョッキの中身を見つめた。黄金色のビールが揺れるたびに彼の心中の不安も波打っていく。
「……俺、何かしたのかな。 それとも俺に飽きて他の人に――」
「待て待て待て!」
田中が裕介の言葉を遮るように手を振った。
「バカ言うな裕介! お前は仕事でも超優秀だろ? どんなトラブルにもすぐに対応して必ず定時に帰るし、上司もお前のこと気に入ってる。 それになにより――」
田中は少し息をついて、裕介を真正面から見据えた。
「花さんがそんなお前を見捨てるわけないだろ……」
その言葉は慰めのつもりだったのだろう。けれど、裕介の表情は変わらなかった。
「……だといいけどな」
微かな呟きと共にジョッキを一気に飲み干した。
喉を通る苦味が彼の胸の奥をえぐるように痛かった。
「悪い、……今日はもう帰るわ」
裕介は財布から数千円札を出し、テーブルの上に置くと立ち上がった。
「おい、まだ早いぞ。 もう少し飲んでけよ!」
田中が引き留めるが裕介は上司の方を振り向いて一礼するだけだった。
「先に失礼します」
乾いた声が静かに響き、彼は居酒屋の自動ドアを押し開けた。外は湿った夜風が吹いていて街の明かりがぼやけて見える。
このまま家に帰っても、また一人だ……。
心の奥に沈むその思いが足をどこかへ導く。
彼は無意識のまま、気が付くといつもの帰り道から外れて暗い路地へと歩き出していた。普段なら絶対に通らない、ビルの隙間に挟まれた細い道。
薄暗い路地は静かで足音だけが響いていた。しばらく下を向いて歩いていると視界の先に古びた赤い鳥居が現れた。
ビルとビルの狭間にあるはずのない異物が暗闇に立っていた。
――カラン……。
すると風鈴のような音が一瞬、耳をかすめた。
背筋に冷たいものが走る。
「……なんだ、コレ?」
裕介は足を止めて鳥居を見上げた。その瞬間、どこからともなく不気味な風が吹きつけた。冷たくもなく、暑くもない。それなのに肌に纏わりつくような風だった。
一気に鳥肌が立つ。
「……帰ろう」
裕介は背を向けようとしたが、何かが"動く"音がすぐ背後から聞こえた。
「…………ッ!」
拳を握り締めて振り返った瞬間、視界が歪む。
目眩が襲い、頭がぐらりと揺れた。
「ぐっ……!?」
裕介はその場でしゃがみこみ、こめかみを強く押さえる。
風は止まないどころか、背後の気配が濃くなる。
ズッ……ズズズ……。
足音じゃない……"何かを這いずる"音だ。
裕介の背筋は凍りつき、動けなくなった。それでも好奇心が勝手に体を動かし無理矢理に振り返らせた。
そして、彼の目に映ったのは想像できないような存在だった。
ビルの壁を這い、無数の腕が絡み合いながら動く異形の存在。中心には顔のようなものが見えるがほとんどの部分が手で覆い隠されている。ただひとつ、指の隙間から覗く濁った目だけが彼を見据えていた。
「……ッッ!!」
息が詰まる。
喉がヒリヒリと焼けるような痛みが走る。
動けない、動けない――。
その間にも異形は音を立てて近づいてくる。
足音ではなく、折れた指でビルの壁を這う音が近づいて来る。
死ぬ……ここで死ぬ――!
心の中で叫びながら裕介は後ずさろうとした。だが、一瞬だけ後ろから鉄を擦るような音が彼の耳に入った。
突然、背後から何かが続けざまに鋭い斬撃音が響いた。
キンッ――!
異形の動きが止まる。
一瞬の静寂の後、異形の体が真っ二つに裂けた。
腕がバラバラと地面に落ち、黒い液体を流してそのまま煙のように消えていく。
「はぁ……はぁ……」
裕介は息を呑んだ。
信じられない光景だった。
「危なかったな、大丈夫か?」
不意に、冷静な声が背後から聞こえた。
振り返るとそこには赤い羽織をまとった男が立っていた。
乱れた藍色の髪に長めの前髪が片目を隠している。彼は鞘に刀を納め、煙草を口にくわえたまま冷ややかに呟く。
「この街じゃ、視えちゃいけねぇもんがうじゃうじゃいんだよ……」
男がそう言うと吸っていた煙草をポケットから取り出した銀の箱に入れてまた新しい煙草を反対のポケットから取り出す。
銀箱をしまってライターを取り出すが上手く火が付かない様子で嫌味顔をしながらその男はライターを軽く振った。
「あ、クソが……オイルねぇじゃん」
裕介はまだ思考が停止したままで地面に尻もちをついたままだったのが男の目に入り、男は溜め息をついて裕介の肩を強く叩いた。その衝撃でようやく意識が戻った裕介ははっとして男の顔を見上げた。
「……あ、どうも」
なんとか声を出し、ゆっくりと立ち上がる。
スーツのズボンに付いた埃を軽くはたき、黄色と黒のストライプ模様のネクタイを整えた。そして、目の前の男に軽く頭を下げた。
「助けていただき、ありがとうございます。 では……」
すぐに立ち去ろうと路地裏の出口に向かおうとする裕介。
「何帰ろうとしてんだよ」
男の声が背後から響く。その瞬間、ガシッと背中から襟を掴まれた。
「うわっ、ちょ……!」
裕介は一瞬よろけ、首が苦しそうに引き上げられる。
背後にいる男の力は、驚くほど強かった。
「え、何ですか……?」
振り向きながら裕介は戸惑いの表情を浮かべた。男は不機嫌そうに煙草を指差し、片目を細めた。
「ライター買ってきてくんね?」
「……は、はぁ」
あまりにも予想外の発言に裕介は数秒間固まった。
「ライターだよ、火つけるやヤツ。 ねぇと吸えねぇだろ?」
男は当然のように言い放ち、軽く顎をしゃくった。
「……わ、わかりました」
裕介は完全に気圧されてしまい、反射的に返事をしていた。
今の状況が異常すぎて、考える余裕がなかった。
「ほら、行けよ」
そう言いながら男はようやく裕介の襟を放した。裕介は小さく咳き込みながら服の乱れを直した。
「ったく……何なんだよ」
愚痴をこぼしつつも、なぜか逆らう気になれなかった。結局、彼は路地裏を抜けて大通り沿いのコンビニに向かった。
「いらっしゃいませー!」
自動ドアの音と同時に明るい蛍光灯の光が裕介を包み込む。ここに入ると不思議と現実感が戻ってくる気がする。
無意識に震える指先を見つめながら彼は商品棚を歩き回った。
ライターを見つけ、ふと気が向いて500mlの水のペットボトルも手に取る。
恐怖で乾いた喉を潤したくなったのかもしれない。
レジに向かうと若い女性の店員が無機質な笑顔で対応した。
「ライターとお水ですね。 380円になります」
「……はい」
小銭を出して支払いを済ませ、レシートも受け取らずに店を出ると再び、蒸し暑い夜の空気が肌に纏わりついた。男は鉄製アーチに座りながら携帯をいじり、気だるそうに待っていた。
「おせぇよ」
顔も上げずに男が言う。裕介は黙ってライターを差し出した。
「ほら、ライター」
男は裕介からライターを受け取るとすぐさま煙草に火をつける。
チッ、チッ……ボッと静かな音がして、煙がふわりと夜の空気に溶けていった。
「サンキュ」
礼の言葉は短いがどこか心地よさがあった。裕介はふと、手に持っていたペットボトルの水を見つめた。
「……お前も飲むか?」
無意識のうちに、そう言ってしまった。言った直後に「あ、なんで俺こんな事言ったんだ」と少し後悔する。
男は一瞬、裕介をじっと見つめた。その視線が鋭く、どこか底が見えない。
「……いや、いらねぇ」
男は小さく笑い、スマホに再び視線を向ける。
「だが、まぁ……オマエ、ちょっと気に入ったわ」
「え?」
「気に入ったって言ってんだよ」
男は携帯をポケットに突っ込み、煙草を指先でつまみながら言った。
「オマエのこと、ちょっとだけ面倒見てやるわ」
その言葉に裕介の頭が一瞬、真っ白になった。
「……いや、面倒って、俺別に頼んでないんですけど」
「頼まれたからやるわけじゃねぇだろ」
男は小さく笑った。
「この街じゃ普通の人間が一番危ねぇんだ。 さっきのアレみたいなのが毎晩のように出てくるからな。 しかもオマエはそれが目視できると来たからには更に面倒くせぇんだよ」
「……出てくるって……あんなのが?」
「今夜は運が良かったな。 普通の視える人間が出くわしたら即アウトだ」
その言葉が、裕介の胸に重くのしかかった。
「で、どうすんだ? このまま帰んのか?」
男は夜空を見上げながら煙草の煙を吹き出す。
「悪いが、もう帰る。 俺には用事があんだ」
ペットボトルの水をひと口飲み、喉を潤した裕介は一息つく。そして、男に背を向けて振り返らずに告げた言葉はいつも以上に強い口調だった。
男は特に気にした様子もなく、煙草をくわえ直しながら軽く微笑んだ。
「気をつけてなー」
その軽い反応に裕介の苛立ちはさらに増した。
何なんだよ、あの男……!
歯を食いしばりながら裕介は足を速めた。歩くのが面倒になり、ついに小走りから全力疾走に変わった。
「クソッ……!」
裕介の住む築10年のマンションは会社から徒歩7分の距離にある。
白い壁と黒いフレームが特徴の10階建ての建物だ。
裕介はマンションに入るとポストを見ずにエントランスを抜け、エレベーターの上ボタンを勢いよく押した。
エレベーターが到着する音が鳴り、裕介は素早くエレベーターに乗ると6階を押してスマホを見るがやはり花からのメッセージは無く、既読すら付いていなかった。
エレベーターが6階に着くと足早に「602号室」の扉の前で鍵を差し込み、素早く回す。
扉が開くと、彼は靴を脱ぎ捨てて狭い廊下を進む。生活感のある靴が乱雑に置かれた玄関、通り抜けるとすぐに現れるのは、6畳程のリビングルームだ。
照明のスイッチを押すとパチッと音を立てて白い光が部屋全体を照らした。
ソファ、ローテーブル、そしてテレビが並ぶ。だが、次の瞬間――
「コレ、オマエの彼女?」
「……は?」
その声に心臓が飛び跳ねた。
リビングの奥から聞こえたその声に裕介の思考が一瞬停止する。胸が一気に冷たくなり、喉の奥が詰まるような感覚に襲われた。
まさか、そんなはずが――。
ギクリッと首を動かし、リビングの奥を見た。そこにいたのは赤い羽織の男だった。
「よぉ、遅かったな」
彼はいつの間にかこの部屋に来ていたのだ。そして、彼の視線の先にあったのは本棚の上に飾られた写真だ。
写真の中では裕介と花が笑顔を浮かべていた。初デートの時に海辺で撮ったその一枚は裕介が最も大切にしていた写真の一つだった。
「これ、オマエの彼女?」
男は写真を指でトントンと軽く叩きながら、同じ質問を繰り返した。
「……なんで、ここにいる……?」
裕介の声は震えていた。
頭が理解を拒む。
たしかに、コンビニで男と別れた筈だ。
「な、なんで……」
部屋の鍵はかけた。エレベーターで6階まで上がった。誰も後をつけてきた気配はなかった筈だ。
なのに――、何故あの男が自分の家にいる?
「なんでって、オマエを加入させようかなって」
男は写真を見つめたまま不敵な笑みを浮かべた。
「……は? 何言ってんだ……」
「簡単に言えば、俺は"陰陽師"やってんだよ」
――陰陽師?
予想外の言葉に裕介は思わず目を見開いた。その間も男は無造作に藍色のボサボサの短髪をボリボリと搔いていた。
「まぁ、今は依頼サボってるけどな」
そう言いながら自分の家かのようにリビングを歩き回り出す。テーブルの上の雑誌をペラペラとめくったり、ソファに腰を下ろして大きく伸びをしたりとやりたい放題だった。
「おい、勝手に触るなよ!」
裕介は声を荒げて男を止めようとしたが、男はまったく気にした様子もなく、薄く笑みを浮かべて続けた。
「陰陽師ってのはな、不可解な現象から人を守る組織のことだ」
「……は?」
「最近の
呆れたように頭を振りながら男は続ける。
「まぁ、知らなくてもいい。 要するに俺らは怪異とか霊とかそういうもんと戦ってんのよ」
「……戦う?」
裕介は、頭の中でその言葉を
戦うといえば、普通は警察や軍隊の話だ。だが、怪異や霊と戦うなんて、空想の物語じゃないか。
「で、オマエにはその素質があるって感じたんだよ」
「なんでそうなんだよ」
今度はまともな言葉が出なかった。それは彼の人生において一度も聞いたことのない評価だったからだ。
「だから、先回りして追って来たってわけよ」
「やっぱ着いて来てたのか。 てかなんで俺の部屋が分かったんだ!? それに……どうやってここまで来たんだよ!!」
混乱したまま声を張り上げると男はその問いにニヤリと笑った。
「オマエの足音を辿った」
「足音……?」
「人間の足音にはな、痕跡が残るんだよ」
男は指をコキコキと鳴らしながら当然かのように言った。
「足音は必ずその場に残るんだよ」
「……それだけで?」
裕介は信じられなかった。足音だけで人の家を特定できるなんて聞いたことがないからである。
「ま、俺は戦闘特化の異能授けられてるから戦えるんだしおまけに、マンションの壁ぐらい簡単に登れる」
「……はぁ!?」
裕介の思考が止まった。
「陰陽師をナメんなよ」
男はドヤ顔でソファにドカッと腰を下ろした。まるでマンガの主人公のセリフのような言い方に、裕介は絶句した。
「それにオマエがここに住んでるのは前から知ってたんだよ」
男の言葉に裕介はピクリと肩を震わせた。
「……なんでさ」
疑いの目を向けながらも自然と声が低くなる。視線は鋭く、相手の真意を見透かそうとするかのようだった。
「……なんでオレの家を知ってんだ?」
裕介の問いに、男は一度くいっと首を傾けた。すると静かに彼の方を向いた。その目は先程までの軽薄なものではなかった。
「……理由か?」
彼は冷たい視線を裕介に突き刺す。その鋭さは鋭利なナイフのようだった。
「オマエの彼女――佐々木花を殺したのは、俺だからだ」
「……」
瞬間、時が止まった。
何を言った。
頭が理解を拒んだ。
耳が聞き間違えたのかと思った。
裕介の心臓がドクン、ドクンと嫌な音を立て始める。
「おい、今……なんて言った?」
言葉を絞り出すように裕介は男を睨みつけた。
「聞こえただろ? オマエの彼女を殺したのは俺だって」
――確かに聞こえた。
ハッキリと聞こえた。
「……ッ!?」
彼は何とか冷静を装おうとしたが、胸の奥が猛烈な怒りで煮えたぎっていた。
「お前……それ、本気で言ってんのか?」
震える声だったが、その瞳の中には強い怒りが燃えていた。だが、男は怯むどころか逆に不敵な笑みを浮かべた。
「本気だよ」
バチッと火花のような視線がぶつかり合う。裕介の中で何かがブチンと切れた音がした。
「……クソ野郎ォ!!!」
激昂した裕介は全力で拳を振り上げた。何も考えず、ただ本能のままに男の顔を狙った。だが、男はひょいっと軽く身を躱した。
「へぇ、いいパンチじゃん。 でも、そんなんじゃ当たんねぇよ」
ふざけた調子で言いながら男は右手をポケットに突っ込み、そのまま無造作に今咥えてた煙草を銀箱にしまって再び煙草を取り出して火をつけた。
「くそっ、ふざけるな!!」
裕介は再び突っ込もうとするがその瞬間、男は手を伸ばしてきた。
「動くな!」
鋭く響いた声が裕介の全身を貫いた。すると裕介の体が一瞬にして硬直した。
「なんだよ!!」
必死に声を張り上げ、体を動かそうとするが足も手もびくともしない。恐怖が背中を伝い、冷たい汗が流れる。
その時、目の前の男が静かに腰の刀に手をかけた。鞘からわずかに見える刃が、鈍い銀色の光を放つ。
「は? な、なんだお前……!」
裕介は混乱しながらも一気に警戒心が高まる。
「おい、何するつもりだ……!」
しかし、男は一切の表情を変えず、刀をスッと静かに抜き、鋭い刃を構えた。その瞬間、裕介の背後の空間が裂けたのだ。そして、真っ白な空間の亀裂から白い手がズルリと這い出てきたのだ。
「……!」
その手は人間の腕のような形をしているが皮膚は真っ白で不気味にツヤツヤしていた。人じゃない何かが出てこようとしている。
男の目が一瞬だけ鋭く光った。そして一瞬の出来事だった。
男は全身を捻るように振り向きざま、その白い手を刀で一刀両断した。
「ギャアアアアア!!」
甲高い不気味な叫び声が部屋中に響き渡った。
人の声ではない。人間ではない何かの絶叫だった。切られた白い手は黒い霧となって消えていった。
「な、何だよ……」
裕介は、その異常すぎる光景を前に完全に思考が停止していた。
目の前で何が起きているのか、どうにも理解が追いつかない。
「クソッ、油断してた……!」
男はすぐさま裕介の腕を掴み、窓際まで一気に後退した。
「お、おい! 離せよ!!」
抵抗する裕介を男は片手で軽々と持ち上げている。
「動くなバカ!! アレがまだ来る!」
「アレ……?」
その時、再び裂け目"が開いた。
ズズズ……。
白い霧の中から”それ”がゆっくりと姿を現した。
「……え?」
裕介の目に映ったのは――。
「……花?」
佐々木 花だった。
「……うそ、だろ」
彼女は私服のままその場にじっと立っていた。
彼女の髪は長く、サラサラと流れるような黒髪。
彼女の顔も声も全てが彼の知っている佐々木花そのものだった。
「おい!!」
「……っ!」
彼女が彼の名を呼んだ瞬間、裕介の心の中で何かがパリンと砕けた。
「花、なのか……?」
「そうだよ、裕介……」
彼女は微笑んだ。その笑顔は彼がずっと会いたかった"花"の笑顔だった。
「嘘だろ……花、生きてたのか……!?」
「……うん、ずっとね」
救いだ。――彼女は生きていたのだ。胸の奥が温かくなるのを感じ、込み上げる涙を必死にこらえようとするが目の奥が熱くて仕方なかった。
「花……!」
思わず彼は前に進み出した。
「待て!! 行くな!!」
背後から男の叫び声が轟いた。
「……アイツは――」
「うるせぇ!! 花は、花はそこにいるんだぞ!?」
裕介は必死に怒鳴り返した。だが、男の表情は険しいままだった。
「……違う」
「は?」
「違うんだよ、あれは"佐々木花"じゃねぇ……」
男の声は低く、震えていた。
「オマエの彼女はもういないんだよ」
「ふざけんな!! そこにいるだろうが!!」
怒りが限界を超えた。
裕介は男の腕を振り解こうと必死にもがいたが、男の力は異常なまでに強かった。
すると男は一切れの紙を裕介に差し出した。
「アレはもう俺達の手には負えない。 だからこの紙に書いてある場所に行け! そこには俺の愛弟子がいる、説明もそいつから全部聞いてくれ」
「なんで会えたのに、離そうとすんだよ!!」
怒声が部屋の空気を一気に凍らせる。
裕介は怒りに震え、紙を強く握り締めた。目の前にいる男の姿がなぜか理解できない。
「俺の名は
「総大将……?」
その言葉が、裕介の耳にとっては別世界の話のように響いた。
「オマエが総大将になれば、自由に生きられる」
男は深く息を吐くと最後の言葉を吐き捨てた。
「頼んだぞ、
その瞬間、裕介は凄まじい勢いで蹴り飛ばされた。
背後のガラスが音を立てて割れ、彼は無防備にマンションの外へ放り出された。
「えっ…! おま……!!」
真っ逆さまに落ちていく感覚の中、地面に激突する直前で胸の辺りに走った衝撃波が裕介を救った。
その衝撃波により、彼はすぐ近くの自転車小屋に吹き飛ばされた。
「がっ…!」
痛みに堪えながら裕介はすぐさま立ち上がった。目を凝らし、腹部に目をやるとそこには一枚の札が貼られていた。だが、その札は黒くなると瞬く間に消えてしまった。
「アイツ……」
裕介は急いで紙切れを握りしめ、息を呑みながら自分の部屋を見上げた。
自分はこの後どうするべきなのか。
心の中で無数の考えが交錯するが答えを出す時間などない。
行かねぇと……!
裕介は迷いを断ち切るように全力で走り出した。
夜風を切り裂き、闇の中を疾走する。
会社を通り過ぎ、駅を通り過ぎて裕介は無意識に足を進めていた。時間の感覚がすっかり消え、ただひたすらに前を見つめながら走り続けた。
足の裏が血だらけになり、痛みが全身に広がる。
呼吸が荒くなり、胸が苦しくても、体が悲鳴を上げても、足を止めることはなかった。しかし、限界を迎えた彼は途中で転んで頭を激しく打ち付け、そのまま気を失ってしまった。
ふと気が付けは布団で寝ていた。裕介は体を起こし、目をこすりながら部屋の周囲を見渡す。しかし、目に映るのは見慣れたはずの風景ではなく、静かな和室の中だった。
自分がどこにいるのか、そしてどうしてこんな場所にいるのか、全く思い出せなかった。
すると近くの襖が開いて入って来たのは小学生か、中学生くらいの子が心配そうな顔で彼を見ていた。
「起きたんですね。良かった……」
その子は柔らかな声で言ったが裕介の耳には響かなかった。その言葉すらもまるで遠くから聞こえるように感じた。
裕介は必死に思い出そうとした。
脳が混乱し、すぐに記憶を辿ろうとするがそれは痛みを伴う作業だった。そして、突如として頭がフラッシュバックに襲われた。
瞬間、彼の目の前に現れたのは――。
渉が冷酷に笑いながら花の首を切り裂いている場面だった。その恐ろしい光景が目の前に現れてきた。
裕介は息を呑み、心臓が凍りつく感覚を覚えた。その瞬間、苦しそうに息を荒げて頭を抱えてうずくまった。
「ア、ア”ァ”……!」
脳内で渉の冷徹な表情が何度も浮かび、花の最後の瞬間がリアルに再生される。その記憶が現実となり今まで抱えていた疑問を全て吹き飛ばすように突き刺さる。
裕介はその痛みを受け入れられず、布団の上で体を震わせていた。
すると心配してきた彼女に裕介は顔を上げてゆっくりと口を動かした。
「君は誰なんだい?」
「僕は、紫原渉さんの弟子の
そうか……コイツも……。
その言葉が裕介の耳に響いた。彼の目に映ったその顔はどこか無感情に見えたがどこか哀しみを秘めているようにも感じられた。
裕介はその言葉を聞いた瞬間、深い苦しみと同時にひとつの真実が浮かび上がった。
紫原渉。その名前を聞いた途端、過去の出来事が脳裏に浮かぶ。花の死、その瞬間の冷酷な姿が鮮明に蘇る。その一方で裕介の胸にある謎の使命感が徐々に膨れ上がってきた。
彼はゆっくりと目を閉じて斑鳩に冷酷に言い放った。
「俺は陰陽師の総大将にならなくちゃならねぇ。 このクソみてぇな世界を一からやり直す為にな……」
その言葉に、斑鳩は一瞬驚いたような表情を浮かべた。しかしすぐに彼女の表情は固まった。
裕介は自嘲気味に笑ったがその瞳には決意が込められていた。
花も死んだ……今の俺には何も残ってない。 それならせめて自分の手で全てを変えてやる。 俺が総大将になってこの世界を――。
その後、裕介はトイレから帰っている途中、ある部屋の扉が開いているのを見つけて足を止めた。
部屋には窓が無く、暗いがパソコンの画面がわずかな明かりを放っていた。画面には何かのデータが表示されているがそれを確認する為に裕介は足を運んだ。
「……これは一体?」
パソコンの前で立ち止まるとモニターには大量の文字とファイルが並んでいた。何かのデータベースのように整理されていない情報が次々と流れ出している。
裕介は深淵に満ちた目で試しに一番端のファイルを押すと二つのデータが彼の目に映った。
【データファイル① 夏に咲く血桜の傍で眠る支配者に恵まれた唯一の存在、
その下にはもう一つのデータがあったがまだ中途半端であった。
【データファイル② 全知全能が結び付いた先、アヴィリオンについて】
歓楽街 葛原桂 @keibun09
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