無彩色

 「今を、わすれて――?」


 忘れたい出来事だけども、継いで話して良いものか明智は悩んだ。少女の目が冷たく空洞のように先が見えないからだ。底の見えない暗闇に石を落として、なんの音も返ってこない。そういった虚無の深さがある。


「助けてくれたん、だよな? ありが――ッ!?」


とりあえずお礼をと頭を下げると、骨と肉の断面が見えた。思わず吐き出しそうになった明智だが、何とか気力で踏ん張った。

のだが吐いた。


「おえっ、そ、その手」


 深紅の液体が、細い指先から腕へと纏わりついている。怪物の血だろう。

 少女は明智が嘔吐したことに小首を傾げた。気付いたようで、腕を振るうと血がグラウンドに飛び散った。


「待ってくれ。君はどこから? この怪物一体何なんだ」

「わすれて」


 淡々と事務的に、少女は忘れろという。

 忘れられるか。もうトラウマ確定だ。と内心荒ぶる明智。


「君は命の恩人だ。この先生や不良三人衆に俺の。唐突にでてきたんだ、君みたいに」


 疑ってる、と直接言ってみたが、少女の表情はピクリとも動かない。

 まさか本当に陶器で作られた顔なのか。


「…………」

「表情無くて正直困ってるけど、心当たりあるよな。だって君も突然でてきたんだ。この怪物だって登校中に現れた。何百人の生徒の視線の中にいたんだ。あんただってそうだ。後ろから今もクラスメイトや先輩方が注目してるよ」


 親指で後ろの観衆を示す。ほぼ学校関係者すべてが目撃者で証人だ。変にごまかそうとしたって無駄だ。という牽制を決めたつもりだった。

 少女はそれを見つめる。見つめる。

 見つめるだけだった。


「わすれる、よ」

「その忘れるってのはどういうことだ。今回の危機的状況の記憶が飛ぶってことか」

「ちがう。でも、そう」


 どっちだよ。

 煮え切らない態度に明智は少しイライラしていた。ちょっとした安堵、会話ができる相手。そのために感情のタガが外れかかっているのかもしれない。

 いや、少しだけ違う。

 怪物は怖かったし、黒装束の少女に感謝する気持ちもある。

 ただ一つ、

 この少女がいつでも助けられる立場だったとしたら?

 

 教師が体を張る必要は無くて、クラスメイトや先輩達が必死に逃げることもなくて、朝礼がいつものように始まることが、あったんじゃないか。


「忘れてとか忘れるとか、そのどこか慣れた態度に疑いたくなるんだよ。こういうの初めてじゃないだろ。感情が読めなくてもそれは分かる。だからこそ答えてくれ。この怪物はどこから来て、君はどうやって来たんだ。あんたは命の恩人だ、感謝だってしまくってる、だけど、

 誰かが死んでたかも知れないんだ、倒したら終わりみたいな雰囲気出さないでくれよ!」


 そうだ、死んでたかもしれないんだった。動画の手伝いで心霊スポットを行ったり、検証のために怪しい儀式めいたこともやった。それとははっきり違う確実な脅威が生きて襲い掛かってきた。


 少女の銀髪が風にそよぐ。足首に到達しそうな髪は、少女の腰から下までが紫に輝いていた。よく見ればそれは血が付着していて、銀と鉄分と赤が複雑に反射しているんだと理解できる。

 紫の毛先が風で洗われる度に、血だったものが運ばれていく。だったものは風の中で赤く発光した。それがまるで、彼岸花の花びらが散っていくような、妖しい幻想を明智に見せる。幻想の中心にいる少女は、問いかけた。


「だから?」

「はっ?」


 淡泊な声音。最低限の抑揚が少女の口から発せられる。


「生きていた。それでいい。苦しいなら、わすれる方がいい」

「そんなの、勝手だろ!」

「うん。そう」

「えっ」

「勝手。苦しい、悲しい、そんなの勝手、大切なのは、今生きていて、そう思ったこと」


 ぽつり、ぽつり。書いているものを読むように、少女は言葉を紡ぐ。


「今、目羅めらはうれしい。今、生きてる。依頼もできた。目羅はそれで満足」

「メラ? 君の名前?」

「うん。そう」

「そうか。目羅、俺も生きてることに喜んでる。けど、この状況を理解しないと安心出来ないんだ」

「なんで?」


 こくり、と首を傾げる。

 目羅という少女の問いが、明智を戸惑わせた。表情や瞳から感情の色がないと思っていた明智は、この問いによって考え方を少し変えた。


 希釈。


 限りなく薄まった感情。明智の頭にこの単語が過る。

 見えるか、見えないか、

 そうじゃなく、

 あるか、ないか。

 この銀髪の少女は、あるなしに重点を置いているらしい。


 少年は考えを慎重に、言葉に乗せた。


「また怪物が来たら怖い。いつ来るか分からないから怖いんだ。今」

「そっか」


 軽いな、おい。

 話し方も寄せて結構頑張ったのに。

 妙なズレに心を挫かれ、さあどうするというタイミングで、目羅が怪物の亡骸から降りた。

 降りると、大きな画面の携帯電話――スマートフォンを取り出し、画面部分を怪物に向ける。


「大丈夫、今をわすれるのは、目羅の勝手」

「? どこかのエージェントみたいに記憶を消すとか」

「それ、分からない。でも」


 薄桜色の唇から、零れる。


「記憶を消すの、


 怪物が、崩壊した。

 砂に描いた絵を手で払ったように、線をほどき輪郭を歪ませ、小魚の群生のように空へ泳ぐと、拡散し見えなくなった。

 少女と共に明智は現象を見送った。何が起きたのか分からなくて、頭の奥がじりじりとする。どんな表情をすればいいのかも分からない。

 赤の群生が舞った空に、白や黄色、黒や灰色が混じる。まるで色付きの狼煙。


「って、なんだよこれッ!! ガッコ、いやグラウンド、何にもねぇ!」

「大丈夫」

「大丈夫じゃないだろこれ。これ、まるで世界が崩壊してるじゃんか」


 明智の言葉は、その言葉通りであった。

 光も影もなく、無彩色の世界がただ続く。


「……死ぬのか」


 でたらめな夢のようで、神様が気まぐれに世界を白で塗った。そんな神話の世界に紛れ込んだような、孤独。


「まだ、なにもしてないんだ。部活も恋も青春も、やりたいことも」


 懺悔のようにぽろぽろと言葉を落とす。崩れた膝から、あるのかないのか、白い地面に手を付ける。

明智の手は、指先からほどけ粒子の砂へ成っていく。もしかしたら、文字通り膝は崩れたのかもしれない。

 意識が遠のく、頭も崩れてるのか。思考がまとまらない。


 「………………あ」


 銀髪が、みえた。

 明智は手を伸ばす。もはや遠近の区別など存在せず、手が届くか届かないか、それしかない。


「……諦めるかよ」


 世界がなくても、無駄な行いだとしても。


「今、目羅を追いかけるしかないなら、追いついてやらぁ!」


 銀の尻尾を追う。不思議と力は入る。足は動くし、眼も見える。

 走って、

 走って、

 走って、

 やっと、届く。


「いい加減説明しろや! 目羅ッ!!」


 紅い瞳がこちらを見た。

 微かに、眼が広がったようにみえる。


 細い肩に手が乗った。勢い良くこちらに振り向かせる。


「は~い。ゲスト同士のお戯れはご遠慮願いま~す。ご容赦願っちゃうよ」


ガタン、

ゴトン、


「今度は誰ッ!?」

「自己紹介? 良いよ」


 車掌服か燕尾服か、足して二で割ったような服を着た、細い男がにっこりと微笑んだ。


「僕ちん、の車掌を務める。世迷よまい シャーロック。よろしくね♪」

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