第3話
無自覚のうちにゆるゆると持ち上がっていく口角に、宗教学の准教授から厳しい視線が向けられる。必修科目ではない一般教養には他学部の生徒も入り乱れて教室の中は九割が埋まっている状態だったが、授業が始まってからずっとだらしない表情の日向は目をつけられていた。
遅刻も自主休講もしない真面目ぶりに加え、課題レポートを遅れて提出するなんてこともしない日向は模範生の部類に入れられる。雑用も笑って引き受けてくれるから教授からの憶えも良いのだが、昨日の昼休憩から後はこうして睨まれるか、名指しで注意されてしまうことがあった。
その理由がよく分かっている本人はまただ、と頬を抓り、緩んだ口元を引き締める。授業は残り五分もないが、課題や期末テスト以上に授業態度が評価ポイントになる宗教学でこれ以上の失点は防ぎたい。日向は普段よりも真面目に見えるよう目頭に力を込め、黒板に増えていく参考資料を書き写すことに専念する。
知らず知らずに表情が溶けてしまうのは、須賀と約束出来たことが要因だ。英文学の授業で紹介された児童書の日本語訳を、留学経験もあり英語が得意らしい須賀に合っているか見てもらう。泣き落としのような、無理矢理のような、結構な強引さで結んだ約束ではあるが、渋々でも須賀が分かったと頷いてくれたのが嬉しかった。
もっと知りたい、仲良くなりたい。その一心で授業が終わるたびに追いかけるようになって、まだ二回しか会っていない。英文学の授業が終わって、元々ノートとペン以外の物を机上に出していない須賀は教室を出るのが誰よりも早かった。隣に座っていても教授と話す日向を置いて行くし、追いかける日向は毎回が大変だった。
喋るのが好きなようには見えなくて、噂好きの友人が語るには学内で一緒に過ごすような相手もいない。仲良くなりたいと初対面で告げる日向に返した「なんで」と言う疑問も、一匹狼みたいな須賀には当たり前に浮かんだものだったのだろう。
焦ってしまった自覚も、須賀が断らないように追い込んでしまった反省もある。突き放すようなことを言いながらも最後までちゃんと話を聞いてくれる優しい須賀が、頭を下げた状態の日向を放って何処かに行ってしまうはずがない。ただあのときは必死で、後先のことは考えられなかった。
自分自身があの本を読みたい、読めるようになりたい、という気持ちは勿論ある。だけどそれ以上に、須賀に読んでほしいと思った。須賀に喜んでほしい、笑っていてほしい。そんな欲が湧いてきて、なりふり構わず頭を下げていた。
強引過ぎたかな、とノートの端っこに後悔を丸めたぐちゃぐちゃ模様を描いていると、狙いすましたかのように終業のチャイムが鳴った。准教授には五分前に睨まれてから注意されることはなく、表情に出なかったものの心此処に在らずだったことはバレていないようだ。
「飯行こうぜ」
今日でどれくらい評価が落ちてしまったのか怖いな、と思いつつ教材にノートにと広げていたものをリュックに仕舞っていると、ぽんと軽い調子で肩を叩かれた。誰だろうと考えるまでもなく、一年に続き二年でも選択科目がそっくり同じになった噂好きの友人、山田である。
「うん、ちょっと待ってね」
英文学を専攻している生徒は必修ではないものの、宗教学を選んでいる人が多い。文学と宗教でどうしても関連してくることがあるため、取っていた方が何かと便利になってくるからだ。それでも一年次に取る生徒の方が圧倒的に多く、二年の英文学専攻で出席しているのは日向と山田の二人だけだった。
ペンケースにシャープペンと消しゴムを入れ、リュックの空いているスペースに落としてから日向は立ち上がった。山田は既に歩き出していて、置いて行かれないようにと早歩きになる。
「……なぁ、ほんとに大丈夫なのかよ」
隣に並んで廊下に出たタイミングで、わざと小さくしたような声で尋ねられた。日向は初め、何が「ほんとに大丈夫」なのだろうか、と質問の意味が分からずに首を傾げてしまう。二列ほど後ろで授業を受けていた山田には、緩んだ口角も准教授に睨まれたことも分からないはずだ。
だけれどふと、昨日の放課後にも同じことを聞かれたな、と思い出した。不満気に見上げてくる視線も、昨日振りに向けられたものだと気が付く。
「もちろん、大丈夫だよ。千秋さんは優しい人だよ」
誤解されていることが悲しくて、勝手に眉尻が下がっていく。出逢ったきっかけは偶然によるものだったが、須賀がどういう人物なのかを多少なりとも知っている。だから、須賀はただ文学が好きで、楽しいから授業を受けているのだ、と噂になった原因を知っている。
だけど、須賀が否定したり説明したりしないことを日向が話すわけにはいかない。名前は昨日の時点で口が滑ってしまっていたが、須賀がどうして二年の必修科目を聴講しているのかも、表情が分からないくらい前髪やマスクで顔を隠しているのかも、喋るわけにはいかなかった。
「でも、あんな顔隠してさぁ。なんか、やべぇ奴だったりしたらどうすんだよ」
学部棟を出て、食堂のある多目的棟までは三分もしない内に着く。自然とあちこちに向かって移動する生徒が集まってきたが、それでも山田の不満気な声は止まらない。日向はどう説明していいかも分からなくて、ただ困ったように笑った。
山田の心配する気持ちは分かるし、ありがたいとも思う。きっと日向も親しくしている友人が得体の知れない人間と付き合うようになったら心配するし、大丈夫かと声も掛けてしまうだろう。大学で知り合って友人になった山田には課題で助けてもらったこともあるし、冗談も言い合えるような気安い仲だし、出来ればちゃんと説明をしたい。
日向の垂れていく眉尻に、不満を露わにしていた山田は大袈裟なくらいに大きな溜息をつく。これ見よがしな仕草はこの話はここで一旦終了、という合図で、何人かで集まったときに山田がよく見せる表情だった。
「なんかあったら、すぐに教えろよ」
「山田……! 分かってるよ!」
なんとか沈めてくれた山田に、日向は体重を被せるように肩を組む。それに重たい、と文句を言いつつ、山田は面白そうに笑っていた。
日向も須賀とはまだ知り合ったばかりで、互いのことはよく知らない。人生で初めての一目惚れを経験して、どうしていったらいいのか見当も付いていない。
須賀と昨日のあの時に約束したのは明後日、つまりは明日の放課後だ。英文学の授業と昼休憩以外で須賀と会うのは初めてだから緊張してしまう気もするが、日向は組んでいない方の左手をぎゅっと握り締める。
日本語訳を確認してもらうのは第一だけれど、それと同時に須賀ともっと仲良くなれたらいい。そんな決意を握り締めた手のひらにのせ、食堂のある多目的棟へと入っていった。
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