第2話

 何回目になるのか数えるのも面倒になった英文学の授業は、教授の気分によって紹介される作品が変わっていく。一度として同じものを取り上げたことはなく、英文で書かれた創作物であるということ以外は共通点も無い。多岐に及んだジャンルは何度聞いても新しい発見に溢れていて、須賀は二年後期の必修科目であるこの授業を気に入っていた。

 初回に当たる今日は児童書がいくつか紹介された。メジャーなものが二冊と、全くの無名が一冊、それから先月に出版されたばかりだと言う一冊だった。真新しい紙には小さな子どもが喜びそうなビビットなカラーが印刷され、真ん中に描かれた魔法使いのおばあさんは可愛らしく微笑んでいる。

 珍しい絵だな、と最前列で授業を受けていた須賀は、ノートの端にタイトルを書き留めた。魔法使いのおばあさん、所謂魔女と呼ばれるような存在はどこか意地の悪そうな表情で描かれることが多い。それをこんなに明るく、楽しそうに描かれているなんて、どんな展開が繰り広げられているのか想像もつかなかった。

 早く読んでみたいと昂っていく心は、長く垂れ下がった前髪と顔の大部分を覆うマスクで綺麗に隠されてしまう。流れるような筆記体でタイトルを書き留めてから聞く姿勢に徹した後ろ姿は、真面目にも不真面目にも取られてしまう。

 既に単位を取得していても時間の許す限り何度も同じ授業を聴講している須賀は、いつの間にか所属する文学部で非常に有名な生徒となっていた。初めは見慣れない顔がいる、と注目を集め、ノート提出が必須の授業でも頬杖をついて聞いているだけ。偶然にも隣に座った生徒が声を掛けたこともあるが、それに対して須賀がまともな返事をしたことはない。

 他学年にいる生徒の顔や名前なんてものは、余程派手に学生生活を送っていない限りは早々分かるものでもない。単位を落として受講し直していてもそれは授業態度に出るし、ただ聴講しているだけの須賀は異質でしかなかった。

 見られている、噂されている、という自覚も薄っすらとではあるが、友人のいない須賀にも芽生えてはいた。無遠慮に向けられる視線が鬱陶しいと思う気持ちもあるにはあるが、特に否定しなければいけないようなことを囁かれているわけではない。放っておいてもそこまでの支障はない、と気付いていない振りをすることに決めていた。

 海外に於ける児童書の扱われ方と、どういった傾向の絵本が多いのか。説明されていく声に耳を傾けて、必要だと思うところだけをノートに書き込んでいく。目元に被さった前髪を邪魔に思うけれど、こんな人の多く集まる場所で素顔を晒したくはなかった。

 好奇心だけを込めた視線はあまり居心地の良いものではない。誰だろうかと不思議そうに遠目から見られるくらいなら構わないが、じろじろと探るように凝視されるのは耐えられない。どうして、なんで、と問い詰めてくる距離の近さに恐怖を帯びた虫唾を浮かべて、そうしてふと、先週会った男のことを思い出した。

 須賀は顔を見られたくないからと、人前では極力マスクを外さないようにしていた。それは焼けない肌を情けなく思う気持ちも少しはあったが、大半の理由はピアスを見られないようにするためだった。

 両耳に合わせて十五個と、左の眉尻に一個。鼻の左側に一個と、下唇には左右に一個ずつ。人と向き合ったときに見えるだろう場所にはこれだけのピアスホールが空いていた。他にも見えないところには空いていたが、それは気にしなくても服が隠してくれる。

 銀色に光を反射するアクセサリーを付けたいと思ったのか、それとも純粋にピアスホールに憧れを抱いていたのか。空けようと思い至った原因は今ではもう憶えていないし、その場のノリに近いような軽はずみなものだったはず。一個、二個、と増やしていくたびに空けるべき理由を探して、無機質な色で自分を飾った。

 幼い頃からずっと、注目されることが何よりも苦手だった。大学で噂されているのは精々何処にでもいるとか何とか、そういう分かりやすい理由だけで成り立っている。だけれど、今まではそういうはっきりとした理由もなく、ただ無遠慮に見られていた。

 這い回るように向けられる視線も、聞こえるようにわざと大きく囁かれる声も、自分の何を指しているのか分からない。どんな感情に染まっているのかが掴めない注目は、悪戯に須賀を苦しめるだけだった。

 ちなみに、髪の毛さえ整えてしまえば中性的な顔立ちとモデル顔負けの細く長い手足に、格好良いと視線を集めていただけ。彼女はいるのかな、と黄色い声援を上げられていただけ。それだけなのだが、親しい人間を作ろうとはしない彼に正しく伝わったことはない。

 幼い時分から向けられていた視線に加えて、銀色の光が増えるたびにその数は倍増していった。普通にしていなさい、と掛けられた声は誰からのものだっただろうか。薄れていく記憶の中でも、肩の上でゆらゆらと揺れるピアスに触れるたび思い出す。似合っていると褒められたいわけではなかったが、向けられた感情の一つひとつが鈍い痛みとなって突き刺さり、何年もずっと抜けないままとなっていた。

 注目されないように、不愉快な感情を向けられないように。人前ではずっと隠して過ごしていたのに、まさかあんな所で見られてしまうとは露ほども思っていなかった。

 大学内で煙草を吸うときは、いつもあそこと決めていた。倉庫としてもなかなか使われなくなった旧校舎の端に、何かから隠れるようにして置かれた錆びた灰皿。須賀は入学当時から通っているが、あんな辺鄙な場所を利用している人も、通りがかるような物好きもいなかった。だからあのときも大丈夫だと、気を抜いていたのだろう。

 日向秋久。そう名乗った彼は、あどけない笑みを浮かべていた。明る過ぎない程度に染められた茶色い髪の毛は、健康的に焼けた肌によく似合う。すっきりと伸びた身長と程よくつけられた筋肉は力強く、幼さを残しながらも精悍な見た目にモテるのだろうと思った。

 初めて見る顔に、訝しさばかりが漂った。顔を憶えているのは教壇に立ち続けている教授と同じゼミを選択している数人くらいだが、それでも同期にはいなかったように思う。煙草を持っている様子もなく、掛けられた言葉の意味も分からない。警戒心を滲ませていると、仲良くなりたいのだとひどく可愛らしい言葉を告げられた。

 あの時、自分はなんて言葉を返したのだろうか。咄嗟に飛び出た声は緊張で強張っていただろうが、少年のような彼がずっと笑っていたのだから可笑しなことは言っていないはずだ。

 煙草を吸うためにマスクを外し、被さった前髪が鬱陶しくて耳に掛けていた。明るい陽射しに照らされて銀色はよく目立っていただろうに、彼がそれに問いを向けることも、見慣れないものへの恐怖心を募らせる様子もなかった。

 不思議な少年だったな、と誰よりもその言葉の似合う本人が思った。人懐こい笑みを向けるべき相手はもっと他にいるだろうに、ただ偶然居合わせただけの須賀にも躊躇いなく声を掛けてくる。屈託のない性格は男女を問わずモテるだろうな、ともう一度思ったときに、丁度終業を知らせるチャイムが鳴った。

 昼休憩を挟んで、その後は自分で選択したゼミの授業があった。単独行動を良しとする教授に当たってくれたおかげで、一年を使って行われる研究はもう既に終盤へと差し掛かっている。今日と、確認のために来週いっぱいは研究に充てて、それからは個人的に気になっている課題に取り組むつもりだった。

 閉じたノートを鞄に詰め込みながら必要な資料を何処で入手しようかと考えていると、珍しく自分の名前が呼ばれたような気がした。

 伏せていた視線を持ち上げて、きょろりと周りを見渡しても声の正体は見つからない。二学年下の授業を受けていたのだから、須賀の名前を知っている者はいないはずである。同じ名前の人物が呼ばれただけだろうと結論付けて、中途半端に浮かせていた腰を真っ直ぐに伸ばす。消えてしまった煙草の匂いに、いつもの場所に向かおうと一歩踏み出した。

「っ、千秋さん!」

 三歩足を運んだところで勢いよく腕を掴まれてしまい、構えていなかった心臓は衝撃にばくばくと脈を打つ。触れられた肌は布越しであるはずなのに、伝わってくる温度の高さに自然と体が強張っていくのが分かった。

 腕の引かれていく先に視線を上げて、それが少し前に思い出していた少年の顔だと知る。嬉しそうに弧を描いた口元に、微かに赤く染めた頬が随分と可愛らしい。名前の知っている人物だったことに詰めていた息を吐き出した。狂ったように早鐘を打ち続ける心臓は、伝わってくる温度の高さに静まる様子は見せなかった。

「おはようございます! 千秋さんもこれから食堂ですか? あの、良かったらでいいんですけど、俺も一緒に食べていいですか?」

 矢継ぎ早に繰り出されていく言葉に、犬だな、と思ったのは秘密にしておこう。尻尾が生えていたら千切れんばかりに振り回している姿が簡単に想像出来てしまって、掴まれた場所から伝わってくる熱もそのままに笑ってしまう。

 ほとんどが覆われてしまった視界の端で、彼の友人であろう男子生徒たちが不安げに立ち竦んでいるのが見えた。噂だけが四方八方に広まった得体の知れない男と、気の置けない友人が絡んでいるのが心配なのだろう。その気持ちはよく分かるものなのだが、この少年が嬉しそうに声を掛けてきた理由は分からない。仲良くなりたいと言ってはいたが、本当に仲良くなろうと実践してきているのだろうか。

「君のご友人さんが心配しているようだけど、放置していていいの?」

「えっ、あっ! ごめん、今日はこの人と食べるから!」

 どうですか、と尋ねてきたくせに、彼の中ではどうやら一緒に食べることになっているらしい。可愛らしい顔つきに似合わない強引さに、須賀は敷き詰められた睫毛をぱちぱちと瞬かせた。険しい視線を取り繕うこともせずに向けてくる友人は納得していないまま、どうやら彼の言葉に従うらしかった。

 背中を向けた友人にありがとうと声を掛けた少年は、満足したようにふっ、と息を吐いた。少しだけ潜められた微笑みは未熟さの中にも大人の色を滲ませていて、彼に抱いていたイメージが変わっていく。

「千秋さんは学食ですか? それとも、購買寄ります?」

 掴んでいた印象に真新しい色を織り交ぜていく彼に戸惑って、須賀は掛けられた問いに上手く反応を示すことが出来なかった。それをどう受け取ったのか、日向は捉えていた腕に力を込める。瞬きを繰り返す須賀が引き摺られていることに気が付いたのは、既に人気のなくなった廊下に飛び出してからだった。

「ちょ、っと。どうして一緒に食べることになってるの?」

 ようやく足を止めた須賀に釣られて、腕を掴んだままの日向も同じように立ち止まる。ぎりぎりと壊れた人形のように振り返る彼の表情は絶望に満ちていて、須賀は訳の分からない焦燥感に駆り立てられた。

 勝手に呼び止めて、勝手にご飯の約束をして、勝手に連れ出して。こちらの都合なんて何ひとつ考慮していなかったのは日向であるはずなのに、これではまるで須賀が苛めているみたいではないか。

 百八十を超えていそうな男が肩を落として項垂れる姿に、友人のいない須賀も流石に息を詰めた。萎れた耳と垂れ下がった尻尾が見えてくるようで、情けない様子にぐっと唇を噛み締める。

「ごめんなさい、俺、千秋さんを見つけたのが嬉しくて……」

 昨日はいなかったから、と続いた言葉に、そんなのは知らないと突き放せればどれだけ良かっただろうか。意図して親しい人間を作ろうとはしていないが、こうして正面から見せられる表情には滅法弱いらしい。

 懐かれたきっかけなんて須賀には分からなかったし、ましてや日向の胸に隠されている恋焦がれる気持ちなんて知りようがない。それでも項垂れた少年からは憧れに似た感情が真っ直ぐに向けられていて、尊いばかりの淡い色を無下には出来そうもなかった。

 英文学について聞かれたとき、彼はどこか興奮したような声色を含ませていた。自分も好きだと告げたときには嬉しそうに笑って、たくさん話したいと言った声には緊張が混ぜられていた。

 文学と名のつくものが全般的に好きな須賀にとって、英文学が好きだと惜しげもない笑みを添えて伝えてくる日向との会話はそれほど困るものでもないだろう。それに、彼にはもう既にマスクを取った姿を見られている。ピアスに気付いても不躾な質問をしてくることはなかったし、今更身構えるほどのことはないはずだ。

世間話が出来るほどの話題は持ち合わせていない。だけれど、授業に関する話に付き合うくらいはいいだろうかと、不安な顔を擡げてくる心に言い聞かせた。

「……分かった。けど、話すのは喫煙所だけ。それでもいい?」

 色んな感情を込めた溜息を吐き出して、唯一気軽に立ち寄れる場所を譲歩案として告げる。嫌だと拒絶したらそこまでだ、とささやかな願いもこめて。

 食堂も購買部も、須賀は入学してから一度も足を運んだことが無かった。大学じゅうの人間が集まってくるその場所は、須賀の苦手とするものが多く存在する。付き合いでも行きたいと思える場所ではなかったし、何より自分と並ぶ彼が一番に注目されることは容易く想像出来てしまうのだ。

 日向と出会ったさびれた場所を指定して、わざわざそこまでの時間を掛けるほどではないと踵を返してくれるのを期待した。彼には一緒に過ごせる友人がいるのだから、不明瞭な噂だけを纏った自分からは離れるべきだとさえ思う。向けられ慣れていない純粋な感情に、須賀の思考は迷路に落ちてしまっていた。

 このまま、じゃあいいです、と去っていった友人を追いかけてほしい。喋れることはないけれど、もう少しだけ彼と話がしてみたい。今まで浮かんだことのないような二択に、須賀の視線はぐるぐると円を描いていく。

 諦めて立ち去ってくれる方が、きっとまだマシなのだろう。自分の感情にもついていけない須賀の思いとは裏腹に、項垂れていた彼は餌をもらったかのように瞳を輝かせた。しょぼくれていた耳が復活して、尻尾ははち切れんばかりに揺れ動く。

「ありがとうございます!」

「……どういたしまして」

 布越しに感じていた熱いくらいの体温は、いつの間にか手のひらへと移っていた。握られた感触もないほどに柔らかく掴まれているのに、茹るような熱さからは逃げられない。大きくて厚い手のひらに包まれて、如何に自分の指が細いかを思い知らされた。

「あ、千秋さんって何年生ですか、って、聞いても大丈夫ですか……?」

 人気のなくなった廊下を、肩を並べてゆっくりと歩き出す。優しく握られた手のひらを振りほどくことはどうしても出来なくて、伝わってくる体温に身を委ねてしまう。初めて浮かべた感情に、比例して訪れる違和感がこそばゆい。

 振り解いてしまったら、きっと彼が悲しんでしまうから。飼い主に叱られた子犬のように、しょんぼりとした日向の姿なんて見たくはないから。言い訳ばかりが頭の中を駆け巡っていく。

 問いかける声と一緒に覗き込んできた顔には、精いっぱいに下げられた眉尻があった。掴んだ腕を引き摺っていた強引さは消えて、彼らしいとさえ思えてしまう少年っぽさが戻っていた。

「さっきまでは我が道を行く、だったのに。よく分からないところでは消極的なんだね」

「うっ、すみません……。ほんと、うれしかったんで」

 ころころと変わっていく表情の眩しさに、須賀はそっと目を細めた。人気がないから、と前髪を払っていなくて本当に良かったと胸を撫で下ろした。

 真っ直ぐで、純粋で、明るい。疑うことを知らないのはきっと正しいことではないだろうに、彼のひたむきさはきっと評価されるべきものだ。

 眩しくて、眩しすぎて、目が焼けてしまいそうだと思った。恥ずかしそうに頬を染めて笑って、それからすぐに、でも、と嬉しさを力説する。自分ただ一人のために向けられるには眩しすぎて、どう頑張っても受け止めきれそうにはなかった。

「四年生だよ。君は二年だよね?」

「っはい! 二年で、だからまだ原文のままじゃ読めなくて……」

 裏口から抜けて、コスモスが満開に咲き乱れた横を通り過ぎていく。秋めいた空気は昼間でも穏やかで、点在するベンチには紅葉を始めた木々に誘われた生徒たちで賑わっていた。

 人が増えたからと、握られていた手のひらをそっと外す。繋いでいた自覚はなかったのか、日向は耳まで真っ赤に染めて謝った。それにはどこかむず痒い気持ちになって、そわそわと逸る心臓が落ち着かない。

「先週よりも黄色くなりましたね」

 旧校舎独特の赤茶けた煉瓦と、浸食するように伸びた深緑の蔦が見えた。古びた建物に沿って植えられた銀杏はどれも鮮やかな黄色に染められていて、絵画のような美しさがあった。まだ所々に残っている薄緑の葉っぱは次第に色を変え、全てが枯れ落ちる頃には染み入る寒さがやってくる。

 いつものように煉瓦に背中を預け、羽織のポケットに入れていた煙草を取り出した。同時に下ろしたマスクからは、淡く光る銀色が姿を見せる。

 箱を開けた瞬間に漂うメンソールのすっきりとした香りに、隣で同じように煉瓦に凭れていた日向が珍しそうに覗き込んでいた。須賀の提示した妥協案に頷いてはいたけれど、喫煙者というわけではないらしい。

「吸ってみる?」

 傾けた開け口に、興味はあるのだと顔面に書いてあるくせに大袈裟なほど首を振って見せた。吸うつもりはないのに目を奪われているとは、なんとも面倒な惹かれ方をしている。

「勝手なイメージですけど、もっと苦そうなのかなって思ってました」

「銘柄によっては、ね」

 塗り込められた黒い箱に、燃え盛るような青を切り取った銘柄はデザインに惚れて選んだものだった。最初は独特の苦みに一本吸いきるのでさえ難しいものではあったが、何年も吸い続けていると美味しいように感じてしまう。一種の中毒なのだと解かってはいるが、止めようと思ったことはない。

 かちりと響いたライターに、次は葉っぱの焼けるじりじりとした熱さが続いていく。燃えていく朱色に、吸い込んだ一口目の煙を吐き出した。

「千秋さ、ぇっと、千秋先輩は、」

「先輩は嫌、かな。偉そうにしたいわけじゃないから」

 四年だと聞いて遠慮でもしたのか、迷った末に日向は先輩、と口にした。行儀悪く煙草を咥えて前髪を横に流していた須賀は、戸惑いを含んだ声に眉根を顰める。太さはないけれど形の良い眉が歪められて、そわそわと挙動不審に横顔を覗いていた日向はそっと息を詰めた。

 好きに呼んでくれたらいいよ、と白い息を吐きながら告げて、踏み込ませ過ぎだろうかと気になってしまう。迷わずに下の名前を呼んでくるこの少年の真っ直ぐさは侮れないと思うのに、自分のことなんて好きにしてもらっても構わないという気持ちにさえなってしまう。拒むように距離を取っておきながら、自分の揺れ動く感情についていけない。

 彼自身から放たれる純朴さに目が眩んで、線引きしようと伸ばした指先が見えなくなる。輝きなんてものから随分と遠ざかってしまった須賀には、逃げる術さえ見つけられやしなかった。

「じゃあ、千秋さんで。俺のことも秋久って呼んでください!」

「……遠慮しておくよ」

 ぐらぐらと揺らいでいく境界線に、須賀は煙を吐き出すことで新しい壁を作り上げた。口の中いっぱいに広がった苦さを、舌を丸めることでどうにか喉の奥底へと湿らせていく。二股に分かれた舌を絞るように絡めて、先端に一個ずつ空けたピアスを確認した。

 淋しそうに肩を落とした彼には何故か懐かれてしまったが、目を眩ませたまま過ぎ去ってしまえばいつかきっと苦しくなる。そう分かってしまうのが既に苦しいことなのだと、今の須賀には欠片も分からなかった。

「君は、英文学が好きなんだっけ」

「好きです! 特に今日みたいな児童書が好きで、早く原文で読めるようになりたいんですよね」

 煙を吐き出すついでに聞いてみると、日向は力が入ったのか背筋を正し、両腕をぶんぶんと振りながら言葉を溢していく。英語と、第二外国語としてフランス語を勉強してはいるものの、慣れない文法に苦戦するばかりでなかなか思うようにはいかないらしい。やっと短い絵本なら辞書をフルに活用しながらも何となく読めるようになったのだと嬉しそうに話す横で、挿絵が主になっているからね、と意地悪く言えば悲しそうに眉を垂らしてしまった。

「ち、千秋さんは読めるんですか!」

「英語とフランス語なら原文の方が早く読めると思うよ」

 留学経験があるのだと説明すると、ずるいと非難がましい視線が向けられた。自慢したいわけではなかったのだが、ふと思い返せばこの話をしたのは彼が初めてだった。英文学の教授にも、フランス文学の外部講師にも教えたことはない。両親以外で知っているのは彼だけなのだ、と思うとなんだか背筋が痒くなった。

 自分が第二外国語として取得したロシア語は未知の領域で、慣れるまでにも一年は掛かった。文章として成り立っているものを読み解けるようになったのは二年の後期からで、地道に勉強するのが一番の近道なのだと身を以て知っていた。

「すぐに読めるようになんてならないよ」

 未だに研究が続けられているような分野のことを、一朝一夕で理解出来たら天才以上の逸材だ。焦らなければきちんと読めるようになるよ、と慰めて、引き締まった表情で頷く姿に安堵する。

「あ、そうだ! 教えてくれませんか! 千秋さんが教えてくれたら、もっと頑張れる気がします! 早く読めるようになりたいし……。駄目ですか?」

 コツさえ掴んでしまうと一気に読めるようにもなるだろうし、気長に勉強すればいい。そう思って掛けた言葉のはずが、早くはやくと心が急くのか、縋る色を瞳の奥から溢れさせた。須賀よりもずっと身長は高いのに、覗くように背中を縮めて見上げてくる。

「却下します」

 当たり前のように滑り込んでくる太々しさに溜息が漏れて、じりじりと燃え立つ朱色を消すことで緩やかな会話に終わりを告げた。顎先に留まっていたマスクを上げて、耳に掛けていた前髪を適当に下ろす。ぱらぱらと散らばる髪の毛によって視界は狭まり、隣で不満そうな気配を醸し出す少年のことも気にならなくなった。

 袖に隠れていた腕時計で確認すると、昼休憩は後三十分程残っていた。食堂に行こうと誘ってきた日向は喫煙者でもないくせに、須賀の条件に従ってここにいる。早く食べに行かないと間に合わないよ、と告げた声にも拗ねたように唸るだけで、なかなか動こうとはしなかった。

「千秋さんは、どこで食べるんですか」

 一緒に食べましょうよ、と言外に含ませた意味には気付かない振りをする。お互いに好きだと告げるほどの文学について、気ままに話すだけの関係性だ。何度も舌の上を転がして、蛇の如く分かれた舌を持ち上げて飲み込んでいく。

「授業、遅れないようにね」

 真っ直ぐに伸ばされた視線は見えませんでした。誰に聞かれることもない言い訳を心の内に並べて、淡いとも濃いとも取れる花々の間を潜っていく。自然を通して生まれ出た色の中で、黒にしかなれない自分は歪なのだと、そう言われているような気がした。



*****



 今日の英文学の授業も、先週から引き続き児童書の紹介だった。教授の受け持つゼミに児童書好きがいるらしく、今日はその生徒から直々にお願いされたのだとにこやかに告げる。突き出たお腹を愛でるように撫で、教室全体を眺めて、その最後に須賀の隣へと穏やかな視線を向けた。

 どの授業でも同じように、須賀は必ず最前列で講義を聴いていた。何度も繰り返し同じ授業を聴講していることと、いつだって教卓の真ん前に座ることから有名になってしまったのだが、この日はいつもと様子が違っていた。

 喫煙所で並び立った二回とは反対の右隣に、嬉しそうに頬を緩ませた日向が座っていたのだ。教室に入ってくるなり迷わず選び取った席に、友人たちは怪しい男と何かあったのだろうか、と後方の席で目を光らせている。

 得体の知れない先輩‐とも彼らは知らないだろう‐が誑かしたのではないだろうか。そう思われていそうだと、須賀はマスクに覆われた下で深い溜息をついた。

 遠巻きにされているくらいが丁度良いのに、この純粋な少年は何を期待しているのだろうか。文学部の必修科目なのだから話せる人はもっと他にいるだろうし、彼と話すために勉強を頑張ろうとする女の子も出てくるだろう。自分に懐く理由も、自分が彼に出来ることも、何もないのだと諦めるよりも先に知っている。

 友人のところに戻ったら、と掛けようとした声は始業の音に遮られてしまい、鳴り終わる前にやってきた教授のおかげで離れることも出来なかった。

 諦めて広げたノートには、先週メモをしておいた絵本のタイトルが残っていた。中身が気になって図書館や近くの本屋で探したものの、海外で出版されたばかりの絵本はまだ置かれていなかった。教授のところに行けば借りることも出来るのだろうが、ゼミを取っているわけでもない教授の元に行けるほど社交性に優れてはいない。渡米する機会など早々ありはしないが、そのいつかのときに探してみようと未練は捨てる。

 今日も先週とは違う四冊の児童書が紹介された。読みやすさを優先させたのか、今回は映画にもなっているものばかりである。映画は四作品とも観ていたが、原文は読んだことがない。これもまたノートの端っこにメモをして、有名な作品だから図書館にもあるだろうと昼休憩の予定を決めた。

 隣に座っている日向も英文学が好きだと言うのは本当のようで、教授の言葉を一つひとつ丁寧に書き綴っていた。ノートを捲る拍子に見えてしまった字は流麗で、その意外さに思わず自分の字と比べてしまう。見た目に反して字が汚いと何度も叱られていた。

 興味のあるところだけを拾っては書き写し、四冊目の説明に入ったところで終業になった。日向が何を思って隣に座ってきたのかは知らないが、話しかけられる前にさっさと図書館に逃げてしまいたい。

 広げていたノートにシャープペンを差して、転がっていた消しゴムと一緒に鞄の中に突っ込んだ。幸いにも日向は教壇の上に立つ教授と会話に花を咲かせている。今の内だと立ち上がって、彼の視界から逃げるように教室を飛び出した。羽織っていたロング丈のカーディガンが風に靡き、何処からか金木犀の香りが届いてくる。

 人の波に逆らって廊下を進み、正面玄関から外に出て東の方角へと進んでいく。桜の木々に沿うように歩いていくと、右手側にサルビアの赤が見えてきた。銀杏は満遍なく黄色く塗られ、丸く膨らんだ実は今にも落ちてきそうだった。

 錆びた灰皿の傍はやはり人気がなく、凍えてしまいそうな淋しさに満ちていた。煉瓦作りの壁に凭れ掛かったところで、いつの間にか張り詰めていた糸が途切れてしまう。撓んで、緩んで、そうして千切れてしまった糸は、須賀の真っ直ぐに伸びた背中を丸めさせるのには充分な威力を持っていた。

 ずるずると力の入らない足が折れ曲がっていく途中で、細い毛糸で編みこまれたカーディガンが傷付いていく。裾が地面についてしまうことなどお構いなしに、須賀は折りたたんだ膝を抱えて丸くなった。

 日向が隣にいることで、浴びせられる視線は何倍にもなった。なんで、と不可思議に滲む視線は何も気にならないが、今日の視線には嫉妬や羨望が塗り固められている。自分でも今の状況はよく理解していないのに、第三者の感情が混じってしまうと疲労はどんどんと積み重なっていく。

 きっと、彼は珍しいだけだ。噂話に上ってしまう程度には有名になってしまった男と偶然知り合って、隠していた鈍い輝きを放つ銀色のピアスを見てしまって、珍獣を眺めていたいと思ってしまっただけ。きっとそれだけで、いつかは彼も何処かにいなくなる。

 膝頭に額を擦りつけて、ひとつ溜息を溢してしまえば揺らいでいた気持ちも凪いでいく。カーディガンの裾と地面についたお尻を払いながら立ち上がって、鞄に入れていた煙草を一本取り出す。

 このカーディガンは使い勝手も良くて気に入っているが、ポケットがついていないことだけが難点だった。鞄に入れておくと葉っぱが散るから好きではないのに、カーディガンには煙草もライターも入らない。

 ライターの点ける音も、焼かれていく葉っぱの香りも、肌に馴染んだものは心地良い。吐き出した煙は淡く霞のかかった空へと消えていった。

「千秋さん!」

 二度目の煙を吐き出して、疲れたなぁと舌の上だけで転がしていく。落ち着いたはずの心は、煉瓦作りの壁からにょっきりと飛び出してきた声によってまた騒ぎ出した。ころころと変わっていく表情と同じくらい突拍子もない登場に、口の底で僅かに残っていた煙が一息に吐き出されていった。

「席に戻ったらいなかったので、びっくりしましたよ」

 口では驚いたと溢しているが、和やかに緩められた口元を見ると本当にそう思っているのだろうかと疑ってしまう。けれど、中途半端に肩からずり落ちたリュックや汗ばんだ額に、急いで追いかけてきたのだと分かってしまった。

 喋る気分ではなかった。足早いんですね、運動部とかイメージないです。何が楽しいのかにこにこと笑いながら、日向は一人分の距離を空けた隣で自由に話していた。

 最後の足掻きだと葉っぱの燃えていく音と、遠くから微かに響いてくる誰かの笑い声が、少しだけ高さの残す声と混ざり合っていく。先週までは半袖のTシャツにチノパンを履いていた彼も、今日は長袖のシャツを羽織っていた。侘しさを残すように灰色を混ぜ込んだ空を見上げて、季節がひとつ終わってしまったのだと知った。

「お昼ご飯、食べなくても大丈夫なの?」

 勝手に喋り続けている日向に対して、須賀は淡々と言葉を吐き出した。組んだ腕に煙草を挟んだ手のひらを置き、風向きによって覚束なく揺れる煙を眺める。自分を真似るように背を預ける後輩に対して、正面きって立ち向かうような勇気は持っていない。

「だ、大丈夫では、ないんですけど」

「食べてきなよ。お腹、空いているでしょ?」

「そっ、」

 ぎゅるるぅ。

 そんなことないです、と否定したかったみたいだが、身体は持ち主以上に正直に出来上がっていた。身長の高い彼のお腹には、体格に見合った腹ペコの虫が住み着いているらしい。

 計ったようなタイミングで鳴り響いた音に、日向は恥ずかしさに首を竦め、耳まで真っ赤に染め上げた。少年らしい顔によく似合っていると吐き出した煙を揺らせば、拗ねたような、情けないような、なんとも複雑な表情をしてみせた。

「……千秋さんは、食べないんですか?」

「うん、食べない」

 笑った拍子に垂れてきた髪の毛を引っ掛けて、ついでとばかりに耳の淵に並べられたピアスはなぞっていく。ひとつ、ふたつ、みっつ。変わらずに付いていることを確かめて、一口煙草を吸った。

 首だけを回して、その先に浮かぶ少年を見上げる。少しだけ垂れた眉尻は、心配させてしまったのだろうか。だけどそれは、自分には関係のないものだと切り捨てた。

「あの、これ……」

 巻き上がった風は二人の間をすり抜けていき、正体を隠すように生え揃った銀杏を揺らしていく。囁くような葉擦れの音は、天高く貫かれてはひっそりと消えてしまった。

 抱えるように腹側に回したリュックから取り出されたのは、今日の英文学の授業で取り上げられた四冊の児童書だった。出版された年の全く違う有名な本は、厚さも大きさもばらばらで統一感とはほど遠い場所にいたけれど、何故だかどの表紙にも煉瓦のように錆びた赤色が使われていた。

「タイトルを写してるのが見えたんで、先生に借りてきました」

 何か真面目に話しているな、とは思っていたけれど、まさか自分のために児童書を借りているとは思わなかった。児童書が好きなのだと恥ずかしそうに、でも隠しきれない誇らしさを滲ませて話してくれたのは目の前にいる彼本人だ。勉強中で読めないのだとも言っていたが、折角借りられたのなら辞書を片手に自分が読めばいいものを。

 左手に四冊の本を挟み、反対の手ではまだごそごそとリュックの中を漁っている。純粋なままに向けられた優しさに何て返したらいいのかが分からず、須賀は灰が崩れていくのも忘れてただ呆然と日向を見上げていた。

「あとこれも、書かれてたのが見えたので……」

 次に差し出されたのは、先週の授業で取り上げられたビビットカラーの絵本。真ん中に描かれた可愛らしい魔法使いのおばあさんが特徴的で、書店でも図書館でも見つけられなかったものだ。

 勝手にノートを盗み見てしまったのが申し訳ないのか、日向の目線はぐるぐるとあちこちに飛んでいる。一方の須賀は自分ただ一人に向けられた優しさに戸惑って、何も言えないでいた。

「勝手にノート見ちゃって、ごめんなさい」

「いや、それは別に、いいんだけれど」

 重ねられた五冊の洋書は、胸の高さまで持ち上げられていた。空いた隙間を埋めるように差し出された表紙には英語が踊っていて、捲ると懐かしさを感じさせる温かさと優しい甘さが広がっているのだろう。

 じりじりと葉っぱの燃える音がして、須賀は慌てて灰皿に朱色を押し付けた。絶版になってしまった貴重な本というわけではないが、それでもなかなか手に入らないことには変わらない。吹き抜ける風が、灰色の煙を本に浴びせないとは限らない。

 一番上に置かれた短い絵本には鮮やかなオレンジ色と、湧き立つような赤色と、澄み切った空の色。溶け合うように色付けされたのは、水彩絵の具だろうか。淡いのに力強く、生命力に満ち溢れている色合いだった。

 微笑んでさえ見える魔法使いのおばあさんを指先で撫でて、端まで辿り着いたところで日向の方へと押しやった。

「児童書が好きだって言っていたでしょう?後ろの四冊も、この絵本も、多分簡単な言い回しが多いだろうから、自分で読んでみなよ。辞書片手でも、ずっと良い勉強になる」

 緊張したように口元を引き結んでいた少年は、どこかがっかりとした調子で肩を落とした。人のために動けるのは良いことだろうけれど、折角の機会は自分に回しておいた方がいい。

 悲しそうに項垂れた姿はやっぱり叱られてしまった犬にしか見えなかった。萎れた耳と垂れ下がった尻尾に少しだけ申し訳なさが浮かんできてしまうが、一応は学部の先輩であるのだから譲るつもりは無かった。

「借りてきてくれたのは嬉しかったから。ありがとう」

 告げたお礼の言葉に、しょぼくれていた少年は分かりやすく元気を取り戻した。勢いよく上がった顔にはじんわりと赤が滲み、瞬きを繰り返す瞳には溢れんばかりの光が宿っている。弾かれていく輝きに眩んで目を細めたけれど、すぐ前にいる少年の輪郭はぼんやりと掠れてしまう。

 ぶんぶんと右に左に振られていく尻尾は毛量が多く、雑種犬のように見えた。大型犬に近いイメージを持っていたのに、くるくると変わる表情やこの人懐こさは愛らしい中型犬だ。

「あの、千秋さん! 一緒に読んでくれませんか?」

「……え?」

 懐かれてしまったこと自体は、そこまで嫌だと感じてはいないのだろう。客観的に見れば可愛らしい年下の少年と、こうして談笑する程度なら楽しいと思える範囲だった。付かず離れずの程度を守ってさえいれば、疲れてしまうことも少ないはずだ。

 そう判断したのに、元気を取り戻した少年から飛び出した言葉に息が詰まった。

「辞書使えばなんとか読めるんですけど、合ってるかどうかの自信がなくて、ですね……。だからあの、一緒に読みませんか!」

 勢いを増していく言葉に圧倒されて、須賀は真っ直ぐに立ったまま何も言えなかった。ぱち、ぱち、と丁寧に瞬きをしても期待を膨らませる日向の表情は変わらなくて、投げられた提案を噛み締める。

「一緒に、って。僕は読めるから、無理じゃないかな」

「合ってるかどうか、確認してくれるだけでもいいんです! お願いします!」

 五冊の本を持ち上げたまま、日向は深く頭を下げた。人気のない喫煙所であってもこの光景はあまりにもよろしくない。傍から見れば、須賀が自分よりも背の高い男に貢がせているようにしか見えないだろう。

 旧校舎は人の寄り付かない場所ではあったけれど、倉庫としては今でも使われている。慌てた須賀は日向の肩を押して頭を上げてもらおうとしたけれど、逞しく育っていた筋肉に阻まれて叶わなかった。

「ちょっと、やめて、ほんと、やめて……!」

「お願いします!」

 頭を垂れた姿勢も、捧げるように持ち上げた本も。普段の鍛え方が違うのか、それともそれだけ日向の決意が固いからなのかは分からないが、一向に引こうとはしない。周囲に視線を配っても人影は見えないが、いつ誰が通ってしまうかも分からない不安に、須賀は年甲斐もなく泣いてしまいそうになった。

「千秋さんの予定に全部合わせるんで! お願いします!」

 繰り返されるお願いの言葉に、須賀はぐっと喉奥に力を込めた。彼はきっと、了承の返事以外を受け取る気はない。昼休みの時間を全て使ってしまっても、こうして頭を下げ続けるのだろう。

 初対面で名前を知り合ってから、まだ二回しか会っていない。それでも彼の意外にも思える我の強さに、自分が折れるしかないのだと須賀は解かってしまった。出来ればこれ以上関わりたくもないのに、日向が須賀の手を離してくれない。そんな錯覚さえも起こしそうになって、ごくりと空気を飲み込んだ。

「千秋さん! お願いします!」

「っ、わかった、分かったから!」

 押しても叩いてもびくともしなかった体は、絞り出すように零れ落ちた了承の声に容易く持ち上がる。見開かれた瞳も、最大限に緩められた口角も、きらきらと音が聞こえてきそうな程の喜色に溢れていた。

「本当ですか!?」

「……僕は、確認するだけだからね」

 一度言ってしまったことは変えられない。長い溜息を吐き出して渋々告げた言葉に、日向は素直に頷いた。何がそんなに嬉しいのか、須賀にはひとつも分からない。全部訳して教授にでも確認してもらえばいいのに、とは思ったが、こんなにも喜んでいるのだから、と水は差せなかった。

 須賀が根負けする形にはなってしまったが、結局は読みたかった本なのだから良いことにしようと煙草を一本取り出した。差し出されていた本はまた日向のリュックへと仕舞われていく。

 あれだけ豪快な腹の虫を鳴らしていたのに、にこにこと嬉しさを隠そうともしない日向は一本の煙草が灰になるまで煉瓦に凭れていた。

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