第1話
薄情だなぁ、と心の内だけで呟いて、日向は両手に何冊も抱えた分厚い洋書を握り締めた。誰でもいいから手伝ってほしいと掛けられた声に連れ立って歩いていた友人たちも反応していたはずなのに、こうして健気に旧校舎までの遠い道のりを辿っているのは自分一人である。
次は空きコマなのだから手伝ってあげればいいのに。そう思うのはこれで何回目だろうか。結局手伝おうと手を挙げるのは日向一人だけで、慣れた先生からはやっぱりお前だけか、と肩を叩いて慰められるまでになってしまった。自分一人しかいないことに申し訳なさを覚えつつも、誰かの役に立てることは素直に嬉しかった。
ふわりと巻き上がっていく風は肌に馴染んでいくようで、数週間前までの熱さが嘘みたいだ。随分と過ごしやすくなった気候に、日向はせっせと繰り出していた足を止める。深く吸い込んだ空気からは柔らかで、だけれどどこか淋しいような草木の香りがした。夏の盛りを生き抜いて、次に備えようと根を張る命の香りだ。
二度、三度と深呼吸を繰り返し、涼やかな空気で肺の中を満たしていく。そうすると、懸命に生きている草木から力を分けてもらえたような気がした。抱え込んだ重さに指先は痺れてきたけれど、日向はひとつ気合いを入れて歩き出した。
都会にあるからと気を遣った結果なのか、それとも全く関係がないのか。どちらなのか定かではないが、いくつもの学部棟が連なっている大学の広い敷地内には四季折々の植物が溢れかえっていた。校舎を囲むように生えた桜や楓の木々は季節ごとに色を変え、そこかしこに設けられた花壇には色とりどりの花々が真っ直ぐに育っている。
今はもう倉庫と化している旧校舎もそれは変わらず、所々に蔦が這う煉瓦作りの校舎の周りにはすくすくと育った銀杏並木が続いていた。エメラルドグリーンの葉っぱは少しずつ鮮やかな黄色へと変化し、ふっくらとした実が隙間から顔を覗かせている。どれもが同じに見えるようでいて、ひとつとして同じものはないのだと思うと日向の心は浮き上がるように楽しくなっていた。
母親の趣味が影響しているのだろうが、日向は子どもの頃から植物を見るのも育てるのも好きだった。母親が丹精込めて世話している小さな庭の花壇も、父親の気まぐれで選ばれてからは何だかんだとしっかり愛されている多肉植物も、大人の隣にちょこんと座っては飽きることなく眺めている。大学受験での決め手はいくつもあるが、その中の一つに自然を感じられることもあった。
乾いた草木の香りを抜けて、自動扉なんて近代的なものは備えられていない古びた扉を押し開ける。体重を使わないと動いてはくれない重厚感に、お手伝いとして通い慣れてしまった日向は少しの隙間から滑り込んでいく。出入口の観音扉は見た目通りの重さだけではなく、金具が錆びて建付けも悪くなっているせいで全部を押し開けるのは一人では出来ないのだ。
閉め切られた建物の中は湿気た匂いで溢れていたが、肌を刺す涼しさは僅かに汗ばんできた肌に心地良い。窓、廊下、教室と並んで横長に続いていく様はよくある校舎の形ではあるが、廊下側の窓は西向きになっているおかげで傾きつつある陽射しが建物内を明るく照らす。
ふぅ、と一度大きな深呼吸をして、痺れて感覚の失くなってきた指先に力を入れる。思ったよりも弱々しくなってしまった筋肉の動きに、早く下ろしてしまいたいと無意識のうちに歩幅は大きくなった。
長い廊下の突き当りに目的の教室はあり、一階の奥まった場所に配置されている此処が不思議と何処よりも光を集めていた。恐らく、視線除けで植えられた木々の隙間が丁度ぽっかりと空いているからだろう。扉を開けてすぐに広がった光景に、日向は自然と口角が上がったのを自覚した。
元々は少人数のゼミ用として使われていた教室には簡易的な本棚が並び、手垢の滲んだ洋書やページが破れるまで読み込まれた資料が所狭しに保管されている。どこか甘さを感じさせる古書の香りに溢れた部屋には、大きな窓から惜しげもなく光が差し込んでいた。絶版になってしまった本を置いておく場所としては些か明る過ぎるものではあったけれど、本棚には直射日光が当たらないようにとの配慮はされている。
薄いレースカーテンさえ取り払われた狭い教室に、金色に染まりつつある陽かりが降り注ぐ。普段自分たちが使っている教室では辿り付けない、厳かな空気を漂わせていた。
端に追いやられてしまった机に持っていた本をどさりと置き、重さで固まった指をゆっくりと開いていく。雑多に積み上げられた洋書はどれも代表的なフランス文学で、背表紙に叩きつけられた文字をひっそりと撫でた。二年生である日向にはまだ読めない単語も多かったが、それでも勉強次第ではこれから読めるようになるのだと期待に頬が緩んでしまう。
またね、と。舌の上だけで転がした言葉は、日向の中だけで昇華されていく。言葉を返す存在こそ黄金色に染まる教室にはいなかったけれど、撫でられた分厚い本には等しく届いているはずだ。
使われなくなったとはいえ清掃の行き届いた廊下を、今度は足取り軽く進んでいく。重たい荷物を抱えて熱を持った身体に、冷えた温度が気持ち良い。空いた時間は食堂で過ごすか、それとも図書館に向かうか。悩んだものの通る道は同じなのだと一つ頷き、燦燦と注がれる光の中を歩いていく。古い建物ならではの重たい扉を押し、さっと身を潜らせた日向は迷うことなく右に曲がった。
旧校舎の代わりに建てられた学部棟は三つで、その全てが同じ敷地内にある。医学部棟や研究室棟などはまた別の敷地に建ってはいるが、学部棟に図書館、食堂が入っている多目的棟、それから旧校舎のある此処がキャンパスの中では一番広くなっている。日向が旧校舎への荷物運びを手伝うようになって真っ先に覚えたのが、図書館や多目的棟へと続く近道だった。
赤茶けた煉瓦を這い上がっていく蔦を横目に、日向は整備されたコンクリートではなく、剥き出しの土に所々雑草が生えた脇道を突き進んでいく。色を変えていく銀杏の木々と、サルビアが植えられた花壇の間を縫うように通り抜けた先には、ぽつりと喫煙所があった。
錆の浮かんだ銀色の灰皿がひとつ置かれただけのそこは人気がなく、旧校舎からの帰りは近道としてよく通っている日向もここで誰かと出会ったことはない。わざわざこんな遠くにまで来なくても、新校舎にはクーラーの効いた広い喫煙所がいくつも設備されているからだ。非喫煙者である日向にしてみれば外の方が煙たくならないのでは、とも思うのだが、如何せん此処は日常使いにはしたくない程度に距離があった。間違いなく、十分間の休憩では戻れない。
金色のベールがかかったように淡く鮮やかに色付いている草木を抜けて、日向はいつもと同じように喫煙所へと真っ直ぐに歩いていく。忘れられたように佇む灰皿を通り過ぎて、塀と煉瓦の壁に挟まれた薄暗い隙間を抜ければすぐに図書館へと辿り着ける。
だけれど、今日はいつもとは違っていた。
珍しく、喫煙所を正しく利用している人がいたのだ。秋に差し掛かったばかりの日中は汗ばむことも多いのに、煉瓦作りの壁に凭れ掛かったその人は真っ黒いタートルネックをしっかりと顎下にまで伸ばして着込んでいた。細い足には大きすぎて幅の余っているスキニーパンツも、首まで下ろしたマスクも、耳に引っ掛けて横に流した髪の毛も、全てが黒に染められている。
人気のない所に人がいる、と驚いた日向はぴったりと足を止め、距離があるせいか未だ気付いていない相手を呆然と見つめる。季節感が若干合っていないことは横に置いて、街ではよく見掛ける服装であるはずなのに、まるで彼のために作られたみたいによく似合っていた。
百八十を超える長身の日向と比べると少し小柄なようだが、無駄な肉のない薄い体は手足が長く、腰の位置が随分と高い。これがモデル体型と言うのだろう。首を隠すように伸ばされた髪の毛は無造作に毛先がはねていて、木々の隙間から差し込む光にきらきらと輝いて見えた。
全身をくまなく黒で着飾っているのに、遠目でも分かるほど彼の肌は白かった。皮膚に隠された肉も、血管も、生きている証は見て取れるのに、モノクロ映画を観ているような気持ちにもなる。細い指先に挟まれた煙草は咥えるたびに橙色の明かりを灯し、それが無ければ二人の間にはスクリーンでもあるのだと錯覚してしまいそうだった。
剥き出しになった耳に、光を受けて輝く何かがあった。なんだろうかと気になった日向は止まっていた足を持ち上げ、一歩二歩と近付いていく。二メートルにも満たない距離を空けたところで、黒に身を包んだ彼もこちらに気が付いたのか、伏せていた睫毛を持ち上げた。
黒目の大きな瞳は何処かで見たことがあるような気がして、日向はどこだっただろうかと思考を回す。芸能人のような曖昧な感じではなく、もっと近くで覗き込んだ気がする。
真っ直ぐに向けられた黒目が、ゆっくりと睫毛に包まれて隠される。そうして瞬いたその時に、手繰り寄せた記憶のど真ん中、友人が語っていた言葉を思い出した。
日向の所属している文学部にはそれぞれの分野に応じてコース分けがされている。入学時に選ぶコースは年度毎に変更することも出来るが、大半の生徒は選んだコースのまま卒業まで進んでいく。そのため、例え他学部の生徒と肩を並べて教壇に向かっていても親しくなるまではいかず、同じコース内で友人を作る場合が多くなる。日向も例に漏れず、話すことの多い数人はオリエンテーションで出会った同じコースの人たちだった。
同学部でもコースが違えば知らない生徒は何十人といる中で、文学部全体で有名な生徒がいるらしい。知らないのは自分のことばかりで余裕の無い一年生くらいだ。そう語ったのは選択授業がそっくり同じになった噂好きの男子生徒で、元々大きくない目を細めてにやにやと笑っていた。
何年生なのか、何という名前なのかはっきりとしない渦中の人物は、学年を問わず文学に関係する授業でさえあれば何度でも繰り返し出席しているようだった。日本文学の授業でも、海外文学の授業でも、外国語の授業でも、時間さえ合えば一番前の席に座って授業を受けているらしい。
らしい、とか、ようだ、とか。母親が丹精込めて作ってくれた葱入りの卵焼きを咀嚼しながら、日向は何とも曖昧な説明に真面目な人なんだな、とぼんやり思うだけだった。予習や復習を兼ねてたくさんの授業に出席しているのなら、それだけ文学が好きだということ。教授の言葉を聞くたびに学びたい意欲を溢れさせている日向にとって、噂の中にいる不確かな存在にも尊敬の念は大きくなる。
一年生の授業には専門的なものが少ないせいか、最前列で授業を受けているらしいその人物は見当たらない。今日もいないのかと肩を落とす友人の横で、さして興味の無かった日向は苦笑いを浮かべて授業を受けていた。
噂話で盛り上がったあの日から半年以上が経ち、二年生へと進級する頃には彼の姿を探す者はいなくなっていた。在籍している内は何処かで会えるだろうからという達観と、本当はそんな人物はいなかったのだという諦め。日向も想像の中にある伸びきった背筋を見てみたかったと少しだけ残念な気持ちを浮かべていると、とうとうその日はやってきた。
ピンクに色を付けた花びらが散り終わって、若葉の色が目に爽やかな日だった。日向がその人を見かけたのはその一度きりではあったけれど、想像とは違う背中が強く印象に残っていた。
隣に座る友人が指した先はやっぱり一番前の席で、真っ黒いカーディガンを羽織った背中は頬杖をついているのか、左側に傾いている。黒板には英文学の有名な作品がいくつも並べられていたのに、時折真っ黒い頭を真っ直ぐに正すその人からは真面目な印象を受け取れなかった。
終業のチャイムが鳴って、気が付いたときには真っ白なままのノートだけが取り残される。やってしまったと頭を抱える日向は、こつこつと小刻みに床を蹴る革靴の音に視線だけを持ち上げた。迷いのないそのスピード感は、なんだかあまり慣れない音のように聞こえる。
項垂れたまま視線だけを持ち上げて、そうして飛び込んできた人物に喉の奥で空気が止まった。最前列で聴講していた彼が、こちらに向かっていたのだから致し方ない。
向かっている、と言うと語弊もあるが、前側の扉から出た方が近いのにわざわざ後ろ側に歩いてきたのと、ずっと気にしていた人物が近付いてくると混乱した日向には向かっているようにしか見えなかった。噂話自体には大した興味も湧かなかったが、いざ本人が話しかけられる場所にいるのだと思うと心臓が爆発しそうに早くなる。日向はぐ、と喉奥で詰まっていた空気を飲み込んだ。
しかし結局、話しかけることはおろか真っ直ぐに見上げることも出来なかった。日向は視線だけを向けた状態で盗み見ることしか出来なくて、だけれど長い前髪の隙間から目元だけが覗き見えてしまう。影になっているはずの瞳に湛えられた光は、目が眩むくらいに輝いて見えた。
長い睫毛に縁取られた瞳は、あのときに見たものだった。真夏でもマスクを外さないのだと誰かが話していたのに、煙草を吸うために下げられた黒い綿布は顎下でくるくると輪を描いている。暑そうだと感想を漏らすよりも先に、窺うようにじっと見られていることに気が付いた。
「あ、えっと、いつも最前列で授業受けてる人、です、よね?」
黒目の大きな瞳に真っ直ぐ見つめられてしまって、慌てて告げた言葉は情けないことに少し震えていた。何だか緊張するような、照れくさくなるような視線にゆるりと口角を上げて、日向は人からよく褒められる笑みを浮かべた。
少年の名残りが色濃い日向が笑うと、女性陣からは犬っぽいよね、と揶揄されることがあった。だけれどそれ以上に壁の作らない微笑みは周りに人を集め、自身でも認めるチャームポイントとなっている。ふにゃりと持ち上がった頬に、見上げてくるだけだった青年はふ、と肩の力を抜いた。
「多分、そうだと思うよ」
鼻に掛かったような低音に、日向の心臓はどきどきと常よりも随分と早い振動を伝えてくる。まるで、初めて彼とすれ違ったときのような鼓動に、詰まってもいない喉奥の空気を飲み込む。
睫毛の長さも、線の細さもどこか中性的で、甘さの含んだ高めの声を想像していたのだ。鼓膜を擽るように漏らされた音は彼に不釣り合いなくらい低く、だけれどしっくりと頷いてしまいそうなほど似合っていた。
薄い唇が煙草を咥えて、苦さの混じった煙を吐き出していく。長い睫毛が伏せられて、なだらかな頬に影を作る。太陽の光と溶け合ってしまいそうな薄ぼやけた白さに誘われて、一人分の距離を置いて日向も煉瓦作りの壁に背を預けた。
「英文学、好きなんですか?」
どくり、どくりと血を巡らせていく心臓の音を聞きながら、日向は彼の横顔からじっとりと目が離せなかった。不健康なほどに白い肌も、晒されて銀色に輝くアクセサリーも、生きてきた中で初めて目にする目映さは日向の心に強く刻まれていく。白と、銀と、黒と。はっきりと線引きのされたコントラストが美しい。
以前すれ違ったときは、肩上まで落とされた真っ黒い髪の毛とマスクに隠されていて知らなかった。少しだけ吊り気味の眉尻にも、つんと尖った鼻先の横にも、色の薄い唇の左右にも、柔らかそうな耳にも、銀色に光るピアスがいくつも飾られている。それが青年の白い肌にはよく似合っていて、どんな感情よりも先に綺麗だと、ただそれだけを思った。
「ちょっと違うけれど、……うん。好きだよ」
橙色に色付いた灰を眺めていた青年は、黒に沈ませた瞳を持ち上げた。静かな光は滲んでいくような明るさを漂わせていて、真っ直ぐに見上げてくれたことが嬉しくなる。自分が好きで専攻していることを、この謎ばかりの青年も好きだと言ってくれた。たったそれだけのことが、日向の胸に柔らかく広がっていく。
じわじわと赤く緩んでいく頬を取りなすこともしないで、そっと視線の外された彼の横顔に微笑みかけた。社交性に優れた日向は誰とでも気軽に話すことも出来たが、たった二言の返事にこれほどまで心を弾ませたのは初めてだった。
自分よりも少しだけ小さな背丈に、よく眺めると心配になってしまうほど細く伸びた手足。黒い瞳には静謐に流れる光が宿っていて、それを守るように縁取る睫毛にも穏やかさがあった。飾られたピアスは数えるのも億劫になるほど多いのに、怖い人なのだと思えないのは彼の持つ存外に柔らかな雰囲気のせいだろう。
噂を聞かされたときは、ただ真面目なんだろうな、と思うだけ。実際に聴講している背中を見て、すれ違い様の目元を覗き見て、なんだかイメージと違うかも、と感じただけ。
視線を交わして五分も経っていなくて、ほんの僅かに言葉を交わしただけなのに、日向はまだ何も知らないこの青年に近付きたいと思った。名前も、学年も、どんな人なのかも、余すことなく知っていきたい。
暴れ回る心臓に、日向は溢れ出る感情を止められそうになかった。
「あ、の! 名前! 聞いてもいいですか!」
逸る心のままに飛び出してきた言葉は思っていた以上に大きくなって、煙を吐き出していた彼を驚かせてしまった。びくりと持ち上がった肩に、けほりと一度咽てから、訝しむような視線を見せた。
「……どうして?」
「えっ? え、っと、仲良くなりたいから、です」
まさか、どうして、と切り返されるとは思ってもいなかった。ただ純粋に、彼のことがもっと知りたいと思った。噂話を友人伝いに聞くのではなく、本人の口から色んなことを教えてもらいたい。
学部内では教授よりもずっと有名な存在ではあるけれど、彼の勤勉さを揶揄う気持ちなんて日向には欠片もなく、この綺麗で柔らかな彼ともっと話してみたいと、それだけを思ったのだ。
胡乱気に顰められた眉に、英文学が好きだと告げたときの真っ直ぐな瞳が思い出された。表情を消してしまうと人形のような精巧さが際立っていたが、こうして感情を露わにすると随分と人間らしい。
「それこそ、どうして?」
錆びた銀色に煙草を押し付けて、橙色に燃える灯りを掻き消してしまった。じっ、と小さく唸って消えた炎を見つめる彼の横顔は、垂れてきた前髪で隠されてしまう。日向は潰されてひしゃげた煙草から、俯いて表情を覆ってしまった横顔へと視線を流す。陽に輝く黒色の隙間から、ちりちりと揺れる銀色が見えた。
すれ違ったときも、煙草を咥えているときも。ひたむきなまでに黒く輝く大きな瞳が印象的だった。視線を集めていることにはきっと気付いていながら、学部生の間で噂話が広がっていることもきっと知っていながら、自分だけで真っ直ぐに立っている姿がどこまでも格好良かった。
それなのに、今は何かを守るように背中を丸めていた。授業中に一度だけ見掛けた姿とよく似ているはずなのに、今はあのときよりもずっと弱々しい。項垂れたおかげで見えた首筋は女性よりもずっと細くて、少し力を加えるだけで折れてしまいそうだった。
変なことを言ってしまっただろうかと考えて、項垂れてしまった彼を守りたいと思った。どくり、どくりと忙しなく血流を巡らせる心臓と昂っていく心に、これが一目惚れなのだと思い知る。何もかも説明出来ない力強さで惹かれてしまって、日向の頬は一層赤く色付いていった。
「英文学の話もそうですけど、他にももっと、たくさん話したいんです」
好きだからです、と告げるだけの勇気はまだ持ち得ていなかった。同性だから、と躊躇ったわけではない。こちらの態度を訝しむ彼に溢れ出すままの感情を伝えてしまえば、何かを守ろうと項垂れる彼を傷付けてしまう。日向は隠された横顔をじっと眺めて、それから人好きのする笑みを浮かべた。
ゆらり、と長いピアスが揺れて、窺うように見上げてくる瞳があった。一対の光は穏やかで、それでも物珍しさを隠そうとはしていない。取り敢えず拒絶する色を見せられなかったことに安堵して、評価の高い微笑みに力を込めた。
自分でも鬱陶しいくらいに感情を表に出した感覚はあって、それを目の当たりにした彼はひとつ溜息を吐くと観念しましたとばかりに両手を持ち上げた。
「
呆れたような微かな笑みに、日向は太陽にも負けないような完璧な笑みを顔面に貼り付ける。静謐に沈む彼が笑ってくれたことも、訝しんでいたくせにちゃんと名前を教えてくれたことも、彼に近付けたのだという嬉しさに心が逸って仕方がなかった。
自分も自己紹介をしようとして、告げられた名前に当て嵌まるだろう漢字にぷつり、と動きが止まってしまう。
すが、ちあき。舌で転がすだけの音の並びですら、呼び慣れた文字がある。一般的によく見かける字面で合っていれば、自分の名前にも入っている一文字が使われているはずだ。
「ちあき、って千に秋ですか? 俺、
手のひらに書いて見せた漢字に、気圧されてしまった彼はゆっくりとひとつ頷いて見せた。そこまで珍しい名前ではお互いになかったが、偶々出向いた先に彼がいて、一目惚れを自覚して、お揃いのものまで持っていた。まるで運命のようではないか、と日向の心は熱く火照っていく。
頬を赤く染めて興奮する日向に、須賀と名乗った彼は口元を抑えて小さく笑った。たったこれだけのことに、と子ども扱いされたようにも思えたが、知り合って間もない彼の違った一面を見せてくれたことの方が嬉しくて、日向の心は高鳴るだけだった。
「これからよろしくお願いします!」
「……うん、よろしくお願いします」
勢いよく差し出した右手に、笑っていた須賀の肩がぴたり、と止まった。猫のように黒目がきゅっと細くなった気がした日向はどうしたのだろう、と少し低い位置にある黒目を覗きこもうとする。だけれど、小さく首を振った須賀に止められた。
大丈夫か、と声を掛けようとして、差し出した手のひらに触れる冷たい温度に視線を落とす。日向の人並みに焼けた肌と比べると紙のように白い手が、壊れ物を扱うような優しさで添えられていた。返された握手は一瞬だったものの、日向の手のひらには触れた低い体温もその細さも残っている。
重なった彼の白い手は、やっぱり細くて折れてしまいそうだった。心許ない厚さに日向は力を入れ過ぎないようにと注意して、離れていった指先を視線だけで追いかける。煙草を吸い終わった彼は黒いマスクを付け直し、流していた髪の毛を乱すように目元を隠してしまった。
じゃあね、と呟かれた声に、反応出来たのは彼の後ろ姿が見えなくなってからだった。興奮に汗ばんでしまった日向とは対照的に、タートルネックを纏った須賀は温度を感じていないように見える。すっきりと伸びた背筋に、項垂れていた姿は重ならない。
「すが、ちあき、さん」
分かったのは名前だけで、学年もコースも、聞けずに終わってしまった。だけれど、いつもは隠されている肌の白さや静かな光を携える瞳を知ってしまった。何も知らなかった彼を少しでも知れたのが嬉しくて、日向は火照った頬を冷やすことに空き時間の全てを使い、食堂にも図書館にも寄れなかった。
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