第十九話 家康と冬の桃
安左衛門は再びかすていらを焼き始めた。いや、厳密にいえばもうそれはかすていらではないのかもしれない。まきものにするためにはかすていらのように厚く焼き上げたのでは不便であるから、鍛冶屋に特注して、四角く平たい鍋を用意してあった。これにまずはかすていらのたねを流し込み、焼き上げる。何筋かに切り分けて、細くなったものを巻いてゆく。どうも、たまに失敗するが、しかし成功することもあった。ふんわりとした巻きかすてらである。
「よし。これに、ずばいももの甘煮を合わせてみよう」
一筋のふんわりかすてらに、桃のジャムを刷毛で塗る。それを巻く。食する。
「ふーむ。これは、良いのではないだろうか?」
巻き物であり、甘く酸く黄色い何かを巻き込んでいる。土台はかすていらであるから、当然かすていらに似ている。安左衛門は自分の『たると』が完成したと思った。
「勘之丞さま。いかがでござろうか」
試作品を、まずは御膳番水野勘之丞が試すことになる。
「うむ。味には問題がない。要求された条件も満たしているようだ」
はじめて『たると』の試作品が完成したので、次は最初にこの件に関する話を請け負った家老、菅五郎左衛門にも相談することになった。あらかじめ使者を送り、対面の日取りを決めてもらって、その日にまた試作たるとを焼き、立派な重箱に入れて持っていった。……ところが。
「安左衛門。それに勘之丞。ちと、近う寄れ。そしてこれを見よ」
「何で御座いましょうか」
安左衛門はにじり寄り、重箱の中を見た。果たして、困ったことが起こっていた。
「……これが、そなたのたるとか。割れておるの」
安左衛門の試作たるとは、その表面に
「こ、これは……平にご容赦を。実は、五つに一つほどの割合で、わたくしの『たると』はこのようになることが御座います。平に、平に」
「いや。わしは何も、お前を咎めはせぬ。むしろ最初にこれに気付いたのが、わしで良かったと心底から安堵しておる。御毒味方のところならまだしも、殿の膳の上でこのような変事が生じていたらな、わしら三人まとめて切腹の沙汰を免れんかったからな」
「ははっ。二度とこのようなことがないように、さらに研究を重ねまする。今しばらくお時間の猶予を頂きたく」
「うむ、そうしてくれ。それと、桃についてだが」
「は」
「おそらく、お前の『たると』の研究が完成を見る頃には、桃はもう季節を外れていようと思う」
「お言葉ですが、そうでございましょうか? 桃には冬にて獲れるものも御座いますが」
「さあ、そこだ。実はこういう話がある」
菅は話し出した。
「むかし、神君家康公がまだ三河の大名であられた頃の、冬のある日のことだが。畏友、織田信長公から桃が届けられた。当時、冬桃の存在はあまり知られていなかったから、家臣たちはこれを珍しがり、さすが信長公はよくものをご存知だ、有難きことである、と喜んだ。しかし、家康はこの桃を、自分では食わず家臣たちにやってしまった。そして言った。なるほど信長公は珍奇なものを知っておる、だが、このような贅沢は自分には無用である。三河の侍は、冬の桃をありがたがるべきではない。また、この話をたまたま、武田信玄が知った。信玄はこれについて、家康を大いに褒めた。季節外れの桃は体によくないかもしれぬ。武士は身の養生を第一に考えなければならないものである。したがって、大望ある家康は冬の桃を食わなかったのであろう、と」
ちなみに、前にも述べたが、松平定行は家康の弟の子であるから、定行の方から見れば家康はその伯父にあたる。
「そのような次第だから、殿の御膳に冬の桃を出すわけには参らぬ。縁起が良くないのだ」
「……委細、承りまして御座います」
正直なところ、理不尽な話だと安左衛門は思っている。もしも定行がポルトガル船で食べたのが桃の菓子であったとしたら、どうするのか。次の夏桃の季節まで事を待てというのか? いつまでに完成させろと言われているわけではないが、それでは流石に遅すぎるであろう。今はまだ正保四(一六四七)年の秋なのである。
「では、下がってよい」
「ははっ」
というわけで、菅家の邸から戻った安左衛門は、まずはとりあえず果実煮のことは置いておいて、決して割れぬ巻きかすてらを作るための研究に乗り出すことになった。
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