第二十話 小麦の秘密
「もっと上等のうどん粉はないか?」
心中に焦りを得た安左衛門は、そんなことを言って城下の粉屋を困らせていた。
「いままでお売りしていたものが、最上級の小麦でございますよ。讃州丸亀の産です。これを上と為し、饅頭にして色白しと申します。それをよく粉に引き、何度もふるいにかけて作ったものが今までお売りしていた小麦粉です。これ以上はありません」
「ううむ。では逆に考えてみよう。下等の小麦粉を寄こせと言ったら、どれを出す?」
「そうですね……なれば、上州(現在の群馬県)の小麦でしょうな。うどんにしても粘りが出ず、あまり良い粉ではありませんが、現地では饅頭を蒸すに向いているとして重宝される、と聞き及んでおります」
前に述べた話に繋がるが、小麦にはもっとも一般的な区分として強力粉・中力粉・薄力粉がある。江戸時代の日本に強力粉はほぼ流通していなかったが、中力粉と薄力粉は両方あった。だが、中力粉・薄力粉という言葉それ自体は知られていなかった。ただ、収穫時期の早い・遅いによって三種類に分けられるのと、産地ごとの品質の違いというのは知られていた。讃岐の粉はうどんに向くと言われていた以上、中力粉である。一方、蒸し饅頭に向く粉というのは、薄力粉であろう。上州は今でも関東地方では屈指の小麦産地だが、当時は薄力用の小麦を主に産出していたのである。
「それはいいかもしれぬ。在庫はあるか?」
「……裏を見て参ります。少々お待ちくださいませ」
相手が武家だからむげに出来ずにいるだけで、粉屋の方はしつこい客にうんざりさせられていた。だが、幸いなことに粉屋の倉庫には上州の小麦が一俵、在庫されていた。
「粉にお挽きするのにお時間をいただきますが」
「いや。俵ごと売ってくれ。研究せねばならんから、まるごと買っていって、自分で粉に挽いてみる」
「かしこまりました。では、のちほどお届けさせていただきます」
この頃の製粉は主に回転式の石臼を使って行われていた。現代の製粉技術に比べれば原始的なものだが、それでも手の力だけで粉を挽くやり方の石臼しかなかった時代に比べればそれは長足の進歩と言うべきものなのであった。
「石臼も買って帰らねばならんな」
安左衛門は落ち込んでいたが、落ち込んでいる分だけやる気も出している。へこたれない性格なのである。臼屋の近くだから、今日は何を買おうというわけでもないが、いつもの果物屋にも顔を出してみる。
「水野さま。珍しい果実があるのですが」
「なんだ」
「まるめろ、と申す南蛮渡来の果実で御座います。今は信州にても産するのだそうで、行商人が置いて行ったのですが、店に出すには数が少のう御座いますから。よろしければお試しになりませぬか」
「ほう。南蛮渡来か。有難い、貰おう」
まるめろは、日本ではのちにかりんの名で知られるようになっていく果実である。非常に酸味が強く、生では食せないが、砂糖漬け、蜂蜜漬けなどに適する。そしてもちろん、ジャムにもなる。
「うーむ。これも、甘煮にすると風味がよい。南蛮渡来ということは、万が一という可能性もある。しかし……量が手に入らぬでは、いかんともし難いな」
珍しいのは有難くはあるが、痛し痒しであった。結局そのまるめろのジャムは試作品として安左衛門の腹に入るにとどまった。
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