正保編

第十七話 伊予の干鯛

 安左衛門は酒屋に酒を買いに来ていた。自分で飲むための酒ではない。安左衛門は下戸というわけではないが、松山の酒はわりあい甘口であるため、あまり好きではなかった。といって、日本酒を菓子の研究に使おうと言うのでもない。勤めの日を減らしてもらっているとはいえ松山城の包丁侍であることに変わりはないので、これは殿のためのお料理に使う酒であった。


「来週、殿の御膳に干焼鯛を上げる。ついては、お前がそれを仕込め」

「ははっ。ですが干焼鯛とはどのようなものに御座いましょうか」

「うむ。松山の外れ、和気という土地のものでな。こういうものだ」


 小さめの鯛を用意する。うろこを取り、はらわたを抜いて尾に穴を開け、天気の良い日に干す。晩になったら取り込んで、一夜、酒に漬ける。翌日はまた干す。二日目の夜も酒に漬けて、翌日しばらく風に吹かせてから焼く。また、菜とともに煮てもよい。風味格別のものである。これを予州干焼鯛と称する。


 このレシピは天明五(一七八五)年に出版され、現存する『鯛百珍料理秘密箱』という本にも紹介されていて、伊予国和気の名物である、と記されている。ただし、現代ではほとんど作られることもなくなっている。なお、松山のあたりでは鯛の旬は春と秋に二回あり、秋の鯛がもっとも良いとされている。殿様の献立を考えるにあたっては、食材の旬というものを大切にしなければならないのである。


「難しくはないが、えらく手間のかかるものだな。野良猫に持っていかれてはかなわんから、見張りをせねばならんし」


 もちろん一尾だけの鯛を干しているわけではなく魚屋で買ってきた何尾かの小鯛をまとめて干しているのだが、それにしても暇であった。外で卵をこねているわけにもいかぬ。仕方がないから、鶏とあひるの世話などをしている。


「安左衛門さま」


 喜代が来た。ふんわりとした笑みを浮かべて、隣に座る。


「今夜は干し鯛ですの?」

「いえ。これは、殿の御膳のために予州干焼鯛を仕込んでいるので御座る」

「まあ。お役目を果たされているのですね」

「然様」

「御立派ですわ」


 野良猫の見張りをしながら庭でのんびり座っていることの何が御立派かということはともかく、『たると』に関する無茶な命令が下って以来気を張り詰めた日々を送っている安左衛門にとって、きょうは久しぶりののどかな日であった。


「安左衛門さま。いま、何を考えておられますか?」

「えーと、先ほどその鯛と一緒に買ってきた林檎のことを……これも甘煮にしてみようと思うのでござるが」


 林檎というのは明治時代に初めて日本に入ってきて定着した、ということが一般によく言われるが、これは必ずしも正しくない。江戸期以前の日本にもリンゴはあった。平安時代頃に中国から伝来したもので、古くは利宇古宇りうこうと言った。この言葉がいつしか『利牟古りむご』に転じ、いまの「りんご」に至っているらしい。ただし、このリンゴはこんにち和リンゴと言われるもので、現在の日本で一般に食べられている林檎とはかなり品種が違う。ゴルフボールくらいの大きさにしか育たず、甘みも少なく、酸味がかなり強い。というわけで、甘く酸く黄色い何かという条件を満たすので、安左衛門の実験の対象に選ばれたわけである。


「お仕事に熱心でいらっしゃいますのね」

「勤めに御座れば」

「ふふ。安左衛門さまのそういうところ、あたしは好きですよ」


 これはなんと返事をしたものか分からない。安左衛門はどぎまぎさせられっぱなしであった。

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