第20話 永訣の離郷
そして十月十八日、子規は松山を発った。彼自身は知るよしもないが、このときが正岡子規の最後の帰郷であり、彼は二度と郷里の土を踏むことはないのであった。
「じゃあ、またな。途中で便りを出すよ」
「うん。体に気を付けて」
それはそれとして、子規は鰻屋にツケを残したままである。仕方がないから、金之助はそれを全額建て替えた。結構な金額になった。しかも子規は旅立ち際、「旅費を貸してくれ」と言った。金之助は現金で十円を貸してやった。
金之助はその日は仕事があったから三津浜港までついてはいかなかったが、松風会の者たちは十人くらいついて行った。その連中があとで金之助に報告したことには、子規が乗るはずだった船は故障があって欠航になった。仕方がないので、子規は翌日、西予丸という別の船に乗って、広島の宇品港まで航海をした。
十日ほど経って、子規からの手紙が金之助のもとに届いた。大阪で手紙を書いている、と記されていた。
「借りた十円だが、もう使い果たしてしまった」
と書いてあるので金之助もさすがに呆れた。まったくもって、磊落放胆の性質であった。
「ごめんください」
漱石は池内正忠のもとを訪れた。愛松亭である。ここにはあのあとも時々やってきて、本を探させてもらっている。
「今日はこの本をお借りしていきます。御邪魔いたしました」
「いえいえ、御構いもせず」
今回借りたのは『松山町鑑』という古典籍である。江戸時代後期のものだが、松山の城下町について詳しく記述した史料であった。松山城下のどの町に何軒家があったとか、それぞれの町人の家に課せられた公共奉仕の義務はどのようなものであったかとか、そんなようなことが書いてある。非常に詳しいもので、研究資料としては貴重なものであろうが、別に読んで面白いという読み物ではないし、何より漱石の研究のために役立つかというとそれも微妙なところではあった。
「天明四年の町内の商家の数は以下の通り、と」
天明四(一七八四)年、松山には四千二百五十一軒の商家があった。その子細な内訳も記されている。例えば、造酒屋は十軒、小売りの酒屋は八軒であった、とある。しかしこの当時、松山の酒は甘すぎると言われて、江戸の者にはあまり好まれなかったという。
「なんでもいいから菓子に関する事柄は……お、あった」
この頃、松山に『菓子屋』は総数二十五軒あったらしい。煎餅屋は別に書いてあって、三軒である。ちなみに二十五軒のうち、自宅でやっているものが十三軒、貸家でやっているものが十二軒だ、などということまで分かる。だが、それは特にいま金之助に必要な情報ではなかった。
「せめて、この菓子屋のうちに南蛮菓子屋が何軒含まれていたか、それが分かればな。或いは一軒も無かったという可能性もあるが」
まあ、分からないものはしようがない。その本はそのまま返すことにした。
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