第19話 花廼舎の別れ

 子規の送別会は松山市中、二番町の花廼舎はなのやという料理屋で行われた。集まったのは主に松風会の面々で、子規と金之助を一緒に数えて総勢十八人の盛会である。場は賑わい、多くの者酒が進んだ。もっとも、金之助と子規は下戸であるから飲まない。俳句の競吟をしたあと、子規は即興で、自分を除いた十七人の雅号を詠み込んだ句を十七句吟じた。全部は紹介しないが、金之助の俳号『漱石』を詠み込んだ句はこうであった。


 石女の あさがおの花に 漱かな


「金之助。結局、伯爵には紹介してやれなかったな。すまん」

「いや、いいよ。それは仕方がない」

「まあ、紹介状を書いて置いていくから。それで何とかするといい」

「うん」

「ところで、あれからまた研究は進んだか?」

「ああ。定行公がポルトガル船の上で出会ったポルトガル菓子はジャムが使われたものだった、という説があるんだが、この菓子の正体じゃないかと思える可能性のあるものが二つ、見つかった」

「というと?」

「一つはトルタ・デ・アゼイタオンという、今でもポルトガルにある菓子。これは、卵黄に砂糖を加えたものをクリームにしてかすてらのような生地で巻き込むんだが、それに使う、その卵黄のクリームというのが『オヴォシュ・クリーム』と言ってね。日本人にとっての小豆餡くらいに、ポルトガルでは馴染みのあるものだそうだ」

「ふうん」

「で、もう片方は、これも今もポルトガルにあるもので、トルタ・デ・ラランジャ。ラランジャというのは英語でいう『オレンジ』のことだ。つまり、オレンジのジャムというかマーマレードを使った菓子だというわけだが、これにはオヴォシュ・クリームを使う場合もあれば、使わない場合もある」

「その先、その二つをどう絞り込む?」

「それが問題だ。その船の上で実際に食われた菓子というのが、酸っぱかったのならばラランジャだ。そうでなかったならアゼイタオンだろう。いかんせんこればっかりは、実際にそこに居た人間からの伝聞が伝わっていないことにはね」

「お前さんの好奇心もたいしたものだ、金之助」

「いやあ」


 ちなみにこの日はあくまでも送別会であるので、実際の出立が予定されているのは十月十八日である。同日午後三時、三津浜港を出る赤穂丸という船の切符が取ってあった。ところが、その前日のことである。子規とは直接関係のない話だが、大きな、重大な話が金之助のもとに持ち込まれた。


「なに、縁談? お前にか?」

「うん、そうなんだ。兄から話が届いた」


 荷物はまとめているところだが、子規はまだ愚陀仏庵にいる。なお、『坊ちゃん』には兄という人は一人しか出てこないが、金之助は実際には夏目家の五男であるので、兄が四人もいた。もっとも、四男は夭折であった。長兄と次兄も数年前に肺を病んで亡くなった。であるから今回縁談を持ち込んできた夏目和三郎わさぶろうは夏目家の三男である。


「お相手はどこの誰かね」

「貴族院の書記官長の中根なかねさんという家の娘で、年は十八歳。名前は」


 前にも言ったが、金之助は松山に骨を埋めたくないだけで、結婚をすること自体はやぶさかでない。


鏡子きょうこさんという方だ」

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