第18話 料亭花月亭

 このところ子規の体調がよく、また日曜日に空がよく晴れ上がったので、金之助は子規とともに道後へゆくことにした。もちろん一番町から道後まで、一等の汽車に乗ってゆく。金之助はひと風呂浴びていつもの三階でいい気分だが、子規は入浴せず、最初から休息所で待っていた。


「風呂は、どうもね」


 と言う。


「君も養生をする気になったのかい」


 などと冷やかすと、


「金之助、おれは養生をする気がないから大食いをするのじゃあないよ。養生をするために、大食いをしているのだよ」


 という理屈がかえってきた。彼の論理が正しいかどうかはともかく、子規が『ご馳走を食べることこそが健康の秘訣』と心底から思っていたことは間違いない。さて、天目茶碗の茶を飲んで今日は羊羹を食い、そして道後のあたりを散策する。子規の正岡家に縁のある寺が近くにあるので墓参に行った。そのあとは鴉渓の花月亭という料亭で、ふたり昼食をとる。


「なかなか、良い料理を出すじゃないか。松山には珍し……いや、失敬。常規君の郷里を悪く言おうというのではないんだが」

「気にするな。ま、おれもここに来るのは初めてさ」


 子規という人はいったいに生涯『書生気分』の抜けないまま生涯を終えた人で、御馳走を食べるのが大切だと日々主張してはいるわりに、洗練された食事を好むなどということは別にないという人物であった。


「それにしても、やっぱり君はよく喰うね。何を食っても、残すところを見たことがないものな」

「それはおれが、歯がいいからさ。歯が健康で、よく咀嚼をするから、なんでも残すことなく食べられるんだ」

「なんだか、おかしな理屈を言うね。よく噛んだら、食は多少なり少なくなるものではないか」

「そんなことはない。現に、このおれを見てみればいい」

「そりゃあまあ、そうだけど」


 食後のフルーツもぺろりと平らげて、まだ食い足りないという顔をする子規を、金之助は苦笑いを浮かべながら連れ出す。そのあとは宝厳寺という寺を参詣した。ここは時宗の開基、一遍いっぺん上人の生誕地と伝わる場所である。それから駅まで戻って汽車に乗り、町へ出て、大街道の芝居小屋で狂言を見た。見ようと言ったのは金之助である。演目は『照葉』。


「うーん。おれは落語の方が好きだな。が、一句思いついた」


 男郎花は 男にばげし 女哉


 基本的に子規の生涯は俳諧の生涯である。子規と言う人はどこでどうして何を見ようとも、いずれ変わらぬ俳句の題材なのであった。


 ところで、子規が「そろそろ東京に戻るか」と言い出したのは、それから数日ののちのことである。金之助は子規の性格をよく分かっているからあまり驚かなかったが、泡を食ったのは松風会の弟子たちである。東京まで子規を追っかけていける立場の者は彼らのうちに少ない。行かないでください先生、先生、行かないでください。だが子規は聞かなかった。結局、その二日後、子規のために盛大な送別会が開かれることになった。

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