明治編

第17話 中秋の名月

 明治二十八年も中秋の名月を迎えていた。中秋というのは旧暦八月十五日をいう。旧暦というのは月の暦であるから、十五日の近くに十五夜、すなわち満月が来る。愚陀仏庵の金之助と子規は満月を迎える陽暦の十月二日、山ほどの葡萄を買ってきて飾った。


 子規はここ数日というもの頻繁に大量の鼻血を出し、もっと養生して暮らすようにと医者にも怒られているのだが、そんなものはまったくどこ吹く風で、この日も石手川の土手まで散歩に出ていた。子規が愚陀仏庵に戻ってくると、子規の弟子たちのうちでも常連と言うべき二名が訪ねてきていたので、この日も運座をしながら、みんなで葡萄を食べた。子規は果物が大の好物である。とはいえ、この時代にも葡萄というのは高価だった。子規がふだん口にしているのは柿やら林檎やら梨やらであり、特に柿をよく食べた。好きだからでもあれば、安いからでもある。だが今日は中秋の名月であるから、特別にごちそうを買ってきたのだった。


 なお、日本の果物というものは文明開化の時期に多くの入れ替わりがあり、江戸時代に栽培されていた果実用植物の多くは、海外から流入した新品種群に押し流されて歴史の向こうへと消えてしまった。だが、甲州という葡萄は正保の世にも明治の世にも甲州の葡萄であった。それが品種として日本に定着したのは鎌倉時代とも奈良時代とも言われ、詳しいことについては諸説が紛々としているのだが、いずれにせよ日本人にとって長く馴染みの深いものだったのである。ルーツを辿ればその祖先は黒海・カスピ海の沿岸地帯のものであることは間違いないそうで、一説には人が運んだものではなく渡り鳥が落とした種がたまたま日本に根付いて定着したのではないかという。


「ところで、ぼくがこの松山の『たると』について研究していることは諸兄みな既にご存知かと思うが」


 何度も話を聞かされているので、子規はもちろん、弟子たちも既にそのことを知っていた。


「だいたいにおいて、なぜ『たると』は『たると』という名であるのか。これについて、ぼくはちょいと考えてみたというか、帝大の知人の伝手を辿って、ポルトガルの菓子やら欧州の辞書やら何やらを調べてもらったんだ」


 誰かが、「それでどうしたぞな?」と相槌を打つ。


「ヨーロッパに『タルト』とか『トルテ』とか或いは『タータ』とか、そういう名前の菓子はたくさんある。たくさんありすぎて、似たようなものもあれば全然似ていないものもある。ただ、ポルトガルの言葉でTORTAという菓子は、正月の伊達巻のように、つまりは松山のたるとのように、巻いて作るものを指すらしい。オランダにもタルトというものはあるが、巻いたりはしない。ぜんぜん姿かたちの違うものだ」


 ふむ、と誰かが頷いた。


「ということは、オランダはやはり関係がなく、ポルトガルのTORTAという菓子がたるとの由来になった、という説の方ががぜん、信憑性が高いんじゃあないかとぼくは思う。定行公が長崎からオランダ人を連れて帰って唐人町というのを作り、そこで菓子を焼かせたなんていう説を言う人もあるがね」


 なるほどそういう説は確かにあるのだが、当時、日本にやってきたオランダ人は出島を出てそれ以外の日本国内に入ることを、よほど特別の事情がある場合を除いては禁止されていたはずなのである。それを考えると、その説の妥当性はどうなのか。金之助はそう論じた。


「だが、定行公の時代に、そしてそれ以降開国までの江戸期を通じてずっと、ポルトガルと日本の間に接点はほとんど無かったんじゃあなかったか?」


 子規も口を挟んだ。


「そう、そこだ。となれば、可能性があるのは正保四(一六四七)年のポルトガル船打ち払いの一件、それ一事のみであるはずなんだ」


 うーむ、と誰かが考え込む。


「このときのポルトガル船は、日本にはまったく上陸せず、長崎の沖合に停泊して、そのまま引き返したらしい。だったら、菓子の製法を教わっているような暇は定行公にもなかったはずだ」

「と、すると?」

「ならば可能性は一つしか考えられない。誰かが、といっても多分定行公自身であろうと考えるのが妥当だが、そのポルトガル船の上でたるとを食べて、その味をどうにかして松山で再現したんだよ。きっと」


 そんなことができるぞな? と、誰かが疑問を挟む。


「さあそこだ。誰だか知らないが、きっとえらい苦労をしたに違いないよ」

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