第14話 延齢館

 私人としての正岡子規はそのような人物であったが、しかし、俳人としての正岡子規はこのとき二十八歳にして俳句会の大いなるカリスマであった。後世に、松尾芭蕉まつおばしょうと並べて俳聖の異名をもって呼ばれるのはやはり伊達ではない。松山には松風会しょうふうかいという子規の弟子たちのつくった俳句結社というのがあった。しょうの一文字はもちろん松山の松ではあろうが、同時に芭蕉のしょうの音を引いたものでもあったらしい。


 松風会の結成は前年の春のことだが、この頃すでに何十人も会員がいる。子規が自分の下宿に住み着いてから、ほぼ毎日その連中が愚陀仏庵を訪れてくるようになった。先生、句を見てください。先生、わたしの句も見てください。先生、先生。わたしも、わたしも。


 前に述べたように金之助も子規の俳句の弟子のひとりであるので、自分もちょっと詠んでみた。この頃の夏目漱石の俳句に、こういうのがある。


 秋の山 南を向いて 寺二つ


 子規はこの句に添削を求められ、丸を付けてやった。漱石はそれを喜んだ。だが、子規は分かっている。金之助には俳句の才能は無かった。丸を付けたこの句にしたところで、駄句と言わざるを得ないことを、子規はちゃあんと分かっている。だが、子規にだって友達甲斐というものがあるのである。


 明治二十八年の夏は終わりに近付いている。八月三十日、子規は、最後とばかりに海へ遊びに行くことにした。当時、松山の高浜に海水浴場があり、延齢館という瀟洒な建物が建っていた。そこの二階を一泊二日貸し切りにし、句会を開いたのである。子規が音頭をとったら、俳句の弟子たち十人ばかりがぞろぞろとついてきた。もちろん金之助もいる。


「納涼じゃ。泳ぐぞな、もし」


 誰かが音頭をとったので、子規を除く一同は、つまり金之助も、ふんどし一丁になって海で泳いだ。そのまま戻ってきて、みんなふんどし姿で句作に興じた。しかし子規だけは泳がず、白い長袖のシャツを着て、延齢館の二階の窓から仲間たちの姿を見下ろしていた。


「海はどうだった、金之助」

「冷たかったよ。それにくらげが多かった」

「はは。そりゃそうだ、もう盆もだいぶん過ぎている」


 性格からすれば逆だが、薄柳の質なのは子規であって、繊細な金之助の方がまだしも健康体だというのは奇妙なことであった。


「ところで、句ができた。子規さん、見てくれ給え」


 他の門人たちの手前があるので、ここでは子規さんと呼んでいる。


「どれ」


 将軍の 古塚あれて 草の花


「なるほど。うん、いいんじゃないか。どうだ、『海南新聞』に俳句の募集があるから、それに投稿してみちゃあ」

「そうしてみよう」


 子規は内心では「だめだこりゃ」と思っているのだが、やっぱり、友人に面と向かって「お前の俳句は下手だ」と言わないだけの優しさは、彼の心中にもあるのだ。ちなみに、夏目漱石が最初の小説『吾輩は猫である』を執筆するのは、正岡子規の死後のことである。子規は生涯、大俳人たる自分の親友が未来の大文豪であるということを知ることはないのであった。

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