明治編

第13話 子規と漱石

 ああ、せっかくのカステラを、そんながっついて食べてからに……と、漱石は微苦笑を浮かべていた。


「元気そうで何よりだよ」


 と、言ったその相手は正岡子規である。


「ああ。だいぶん元気になったよ」


 本日は明治二十八(一八九五)八月二十七日、火曜日。金之助はまだ夏休み。子規が松山に帰郷したのは二日前であるが、この日の昼過ぎにはもう身一つで漱石の下宿に転がり込んでいた。子規が最初からそうするつもりだったからであり、また金之助がそれを大歓迎したからでもあった。前にも言ったが、二人は大学以来の付き合いで、親友同士である。子規が来たのはちょうど金之助が昼飯を済ませて、食後の茶請けに自分で買ってきたカステラを食べていたところであった。


「安久庵のものだ。よかったら」

「うむ、では遠慮なく」


 子規は漱石が一切れを食べる間に三切れ食べた。茶卓の上のカステラはたちまち姿を消した。そして子規は言った。


「昼飯を食いに行かないか?」

「そうだな、ぼくは済ませた後だが。どこか出るか」

「ああ」

「知っていたかい? 一番町から道後まで、それから道後から三津口まで、市電が開通したんだよ」


 三津口というのは古町からちょっと北に行ったあたりで、三津街道という街道筋に通じる松山の出入り口である。


「ああ、あれが出来たのか。最近かい?」

「五日ばかり前だったかな。ぼくも出発式を見物に行った」

「じゃあ、せっかくだから道後まで乗るか。近くに、すごくうまい団子屋があるんだ」

「うん」


 そういうわけで、二人は電車に乗った。運賃は道後まで乗って白い切符の上等が五銭、赤い切符の下等が三銭。もちろん二人は上等へ乗るわけだが、金之助がひとりで十銭払った。


「ここの団子屋だ」


 この名物の団子屋というのは遊郭の入口にある。だんごを六皿注文して、二十一銭であった。これも金之助が払った。ちなみに六皿のうちの五皿までは子規が食べた。そして道後の温泉ももちろん上等に入る。二人分の十六銭を金之助が払い、二人は三助に頭を洗ってもらった。三階の休憩所で天目茶碗の茶を呑んで、くつろぐ。今日の菓子はたるとであった。


常規つねのり君、このたるとの由来というものを知っているかい?」


 常規というのは子規の本名であるが、彼は言った。


「ああ、なんやら江戸時代の古くからあったらしいな。だが、よくは知らん」

「そうか。実はぼくは今、この『たると』の歴史についてちょいとばかり調べている」

「ふーん」


 子規はあまり興味を示さなかった。帰り道、かき氷を売っている店の傍を通った。子規が言った。


「氷水を飲もう」

「いいね」

「はい。いちご味とレモン味は、一杯で一銭五厘になります」

「じゃあ、ぼくはレモン味」

「おれには宇治金時をくれ。あんこをたっぷりと乗せてな」

「宇治金時は五銭になります」


 子規はばくばくと宇治金時を喰い、金之助が六銭五厘を払った。ふたりは愚陀仏庵に戻った。なお、余談であるが宇治金時というかき氷、削った氷に抹茶を注いであんこを添えたものであるが、一説に徳川家康の考案になるという。ただし真偽のほどは保証できない。


「一階の二間、自由に使ってくれ。ぼくは二階を使うから」

「ああ。そうさせてもらうよ」


 子規には遠慮のかけらもなかった。もちろん愚陀仏庵の家賃も全部金之助が一人で払うのである。


「それじゃ、おやすみ常規君」

「おやすみ、金之助」


 二階の寝所に上がって、寝る。金之助は、子規が来てくれたことが嬉しくてたまらないので、笑顔を浮かべたまま寝た。

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