第十一話 たまごふわふわ

 ところで、安左衛門のもとにはようやく一冊の料理書が届けられている。大阪蔵屋敷にいる、勘之丞の友人が探し出して送ってくれたものであった。松山藩江戸屋敷のほうからはまだ便りがない。松山からは江戸の方が圧倒的に遠いのだから当たり前だが。


 その本は、題して『古今名物秘傳菓子抄』という。題からも分かるように菓子のレシピ集というわけであるが、それに載っているかすていらの調理法を、まずそのまま引用する。


「玉子五十つぶし白砂糖六百目小麦粉五百目ねり合銅の平なべに紙を敷入大なる鍋に入粉にしてかねのふたを仕り上下に火を置きこげ候にやき申候」


 これを現代語に訳すと、こうなる。


「たまごを五十個、割ってかきまぜる。白砂糖を2.25キログラム、小麦粉を1.88キログラム入れ、よくこね合わせる。銅の平鍋に紙を敷き、上記を流し入れる。その平鍋をもっと大きな鍋に入れて、金属の蓋をする。上下に火を置き、焦げ目が付くまで焼く」


 卵を五十個も使ったらあまりにも多すぎると思われるが、それは多分比率を表現しているだけだろうということで、安左衛門は既に鍋を二つと美濃紙と呼ばれる和紙を用意し、何度か試しを行っていた。だが、うまくいかない。いまだに彼の試作品は『まったくかすていらではない何か』という段階を脱していないのである。


 さて、それはそれとして、古町でうどんを食って戻って来た安左衛門は、離れの台所で、大きなザルにまとめて入れて置いてある十数個の卵を見ながら考える。さっきの月見うどんの二つのたまごの違いは、何から生じたものであろうかと。


 手元のたまごの違いで、何よりはっきりと違うのはあひるの卵と鶏卵の差である。あひるの卵は、鶏卵よりも二回りほど大きい。殻も厚く、硬い。別々の皿に一つずつ、割り入れて、じっくりと見比べてみた。それらの最大の違いは、卵黄の量であった。あひるの卵は鶏卵よりも、白身に対する卵黄の比率が大きいのである。


 だが、うどん屋で気付いた卵の「違い」というのはそういうことではなかった。白身の状態の違いは、何によって生じるのか? 


 割らない卵をいくら眺めていても分かることはあまりないので、止むを得ない、安左衛門はあひるの卵と鶏卵をもう一つずつ割り、四つの鉢を眺めながら考える。すると、同じあひるの卵同士、同じ鶏卵同士でも白身の状態には微妙に差があることが分かった。


「うーむ」


 いろいろなことを試しながらいろいろと考えていたら、気が付けばザルの中の卵が全部安左衛門の手で割られていた。


「何をやっているんだ?」


 と、いつの間にか入ってきていた勘之丞に声をかけられた。


「卵について調べております。拙者の勘ですが、これはかすていらの製法を考える上で重要なことではないかという予感がするのです」


 と、素直に説明する。


「それはいいが、そんなに割って、その卵はどうする。あけてしまった卵はそう日保ちがせぬぞ」

「そうですね。いくらかはかすていらの試し焼きをしますが、残りは御家の皆さんで召し上がっていただきましょうか。今夜にでも」

「そうか。何を作る」

「卵とじなどは如何でしょう」

「うむ、悪くない。だが、わしに腹案がある。よって半分寄こせ」

「はい」


 勘之丞も御膳番なのだから、料理人である。


「菜箸を貸せ」

「どうぞ」


 安左衛門は一対の箸を差し出した。ところが、勘之丞は


「それでは足りぬ。あるだけの菜箸を出せ」


 と言う。安左衛門は素直に言葉に従った。すると、勘之丞は大きな鉢に十個分ばかりの生卵を落とし、五本ばかりの菜箸を束ねたる物をもって、猛烈に掻き回し始めた。何を始めたのか安左衛門には分からない。少なくとも、自分の知らぬ調理法を用いる何かのようだ。しかし安左衛門も暇なわけではないので見物してなどいられない。というか、そろそろ日が暮れてしまうので、古町の井筒屋に向かわねばならぬ。


「日暮れ時には戻ります故。御免」

「うむ」


 で、井筒屋まで歩いて、例の晩柑糖と小麦饅頭を包んでもらったものを受け取って代金を支払い、また歩いて戻ってきたが驚いたことに勘之丞はまだ卵を菜箸でかきまぜていた。


「いったい、何をお作りになっているのですか?」

「『たまごふわふわ』だ。先代の御膳番より伝えられし秘伝だからな、そなたが知らんのは無理もない。ふむ、さすがにこれくらいでよかろう」


 安左衛門が鉢を見ると、卵を練ったものがねっとりしっとりとして、高い粘度を帯びていることが分かった。


「卵というのは、練りに練るとこのようになるのですね」

「うむ。これにしょうゆと酒、だしを加えて土鍋で煮れば『たまごふわふわ』になる」

「あの。恐縮ではございますが、そちらの卵を練りしもの、一椀だけ別に分けて頂いてもよろしいでしょうか。試したき儀が御座います」

「勿論、構いはせぬ。だが、そなたかすていらの試しもよいが、そろそろ晩飯になるからな。それを忘れるなよ」

「は」


 そういうわけで、勘之丞が練った卵にうどんの粉と、今回は特別に白砂糖を加え、焼いてみることにした。鍋をかまどにかけ、鉄の蓋の上にも焼けた炭を置く。時間がかかるが、安左衛門にはこれがもしや、という確信がある。


「あの、安左衛門さま。本邸で夕餉の支度ができておりますよ」


 喜代が呼びにきた。


「はい、ちょうど今焼き上がったところです。では、こちらはここで寝かせることにして、と」


 安左衛門は勘之丞が作った『たまごふわふわ』を、勘之丞の家の者らと共に頂いた。たまごふわふわはこの時代に江戸で評判となり、大流行を巻き起こした料理である。当時は卵を食する文化そのものが普及のし始めであるから、食感なども目新しかった。


「美味しゅう御座います、父上」


 と言うのは、喜代の弟で勘之丞の嫡男の鍋之助なべのすけであった。


「今日はなんだか、ごちそうですね。おまんじゅうまで頂いてしまって」


 喜代は無邪気に喜んでいるが、安左衛門は饅頭のことを考えている場合ではなかった。晩柑糖のことも半分忘れている。食事が済んですぐ離れに飛んで戻って、試し焼きの結果を改める。


「……できた」


 少しだけ切って食べてみて、確信する。そこに焼き上がっていたものは、確かに『かすていら』であった。

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