第15話 久松家の古書

 九月が始まった。夏休みも終わり、金之助は再び中学校で教鞭をとる日々である。しかし、朝に夕にと子規の弟子たちが愚陀仏庵に集まっては子規先生、子規先生とやっているのにはさすがに閉口している。そういうとき、金之助はだいたい二階で本を読んでいた。


「おい、金之助。新聞にお前の句が載ってるぞ」

「え? どれだい、常規君」

「ほら、これ」


 例の『将軍の古塚あれて草の花 漱石』の句であった。


「よし、もう一句送ってみようと思う」

「そうか。頑張り給え」

「うん。出来たら見てくれ」

「ああ」


 しばらくして、金之助はつくった俳句を子規に見せた。その句は、子規が見た漱石の句の中では珍しく、まあ少しは見るところのある出来のものであった。


 鐘つけば 銀杏散るなり 建長寺


「よいと思う。このまま送ってみなさい」

「ありがとう、子規先生」

「子規先生はよせやい、夏目先生」

「ははは」


 さて、また俳句の客が来たので、金之助は二階に上がって虚子の兄池内正忠から借りた本を読む。


「『古今名物秘傳菓子抄』か。しかし、これはひどく古い本だな」


 この紙や墨の古び加減から言って、下手をすると十七世紀の写本ではあるまいか。崩し字であるので、金之助には読むことのできない部分があった。子規に見てもらうことにする。前にちょっと説明したことがあるが、子規は帝大の国文科にいたのである。


「常規君、ここの部分がちょっと読めないんだが」

「ん? ああ。ちょっと貸してみな。この部分だな」

「うん」

「いま楷書に直してやる」


 子規はさらさらと紙に字を書いた。


「玉子五十つぶし白砂糖六百目小麦粉五百目ねり合銅の平なべに紙を敷入大なる鍋に入粉にしてかねのふたを仕り上下に火を置きこげ候にやき申候」(たまごを五十個、割ってかきまぜる。白砂糖を2.25キログラム、小麦粉を1.88キログラム入れ、よくこね合わせる。銅の平鍋に紙を敷き、上記を流し入れる。その平鍋をもっと大きな鍋に入れて、金属の蓋をする。上下に火を置き、焦げ目が付くまで焼く)


 子規は紙を金之助に渡しながら、言った。


「しかしまた、どこでこんな古い本を?」

「久松家の旧蔵書を借りたんだ」

「ああ、定謨さまの」

「御当主を知っているのかい」

「松山に、定謨さまを知らん奴はおらんよ。いや、それでなくとも、大陸に向かう船で一緒だった。おれは従軍記者で、定謨さまはご出征だったわけだが」

「へえ。なるほど」

「大陸に渡ってからも、一回夕食を御馳走してもらった」

「今度、伯爵がお戻りになったら紹介してくれないか。旧蔵書は本邸のほうにまだ沢山あるはずなんだ」

「そりゃ構わんが……御馳走と言ったら、そういえば腹が減ったな。出前を取るか」

「うん。今日は何にする?」

「鰻重」

「また鰻重かい。よく飽きないね」

「精がつくだろう、鰻は」

「そりゃあ、まあ、うん、そうだけど」


 少々デリケートな話題であるので、金之助は口ごもった。


「鰻重二丁と蕎麦一丁、お届けにあがりましたー!」


 出前が来た。


「ありがとう。勘定はいつものように頼む」

「はい、ツケでございますね! またのご注文、お待ちしております! それでは!」


 元気な鰻屋が帰った後、子規はむしゃむしゃと二人前の鰻重を平らげた。金之助は蕎麦を食った。

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