正保編

第七話 かすていら等安

 そもそもの論から話を始めよう。かすていら、というのはポルトガル渡りの南蛮菓子だとされているが、そのポルトガルに、カステイラという菓子が存在するというわけではない。これについては、こんな話が伝わっている。十六世紀、つまり日本とポルトガルの交流が始まったばかりの頃、ポルトガルの商人が何らかの菓子を持ち込んだ。日本の誰かが、それについて聞いた。


「それは何かね」


 ポルトガル商人はこう答えた。


「ボロ・デ・カステラでございます」


 ボロ・デ・カステラとは、直訳すると『カスティーリャ王国の焼菓子』ということである。だが、質問した日本人はこう思った。


「なるほど。それは『かすてら』という菓子なのだな」


 これが日本におけるカステラの語源である、と言われている。ちなみに、カスティーリャ王国は当時スペインにあった王国の名前だが、ポルトガル風に発音すると『カステラ』であり、スペイン語風に発音すると『カステイラ』になる。つまり、同じ菓子をかすてらと呼んでもかすていらと呼んでも、どちらかが正しくどちらかが間違っているというものではない。


 同じ十六世紀、多くのキリスト教宣教師たちが日本にやってきてさまざまな文物を日本に伝えたわけだが、カステラもその一つであって、日本国内で初めてカステラを作ったのが宣教師の誰かであったことはほぼ疑いない。具体的に何年に誰が作ったのかは歴史の闇の向こうのことでもう分からないが、カステラのルーツとなる欧州の菓子は何だったのかということになると、二つの説がある。スペインのビスコチョであるという説と、ポルトガルのパン・デ・ローであるという説だ。


 どちらが正しいのかは分からないから、両方とも説明しよう。ビスコチョとはスペイン語で「二度焼き」という意味である。欧州の古語であるラテン語に「ビスコクトゥス」という同じ意味の言葉があるから、それに由来するらしい。ビスコチョははじめ名前の通り「二度焼きして堅く焼き締めた乾パン」のことであったのだが、どういう変遷をたどったものか、十六世紀にはスポンジ状のケーキのこともビスコチョと呼ぶようになっていた。これが日本に伝わってカステラに変じたというのが第一の説である。


 次に、パン・デ・ローだ。このパンは現代日本語でも用いられる『パン』と同じで、ローは諸説あるのだが一説には中国語の『』、つまり絹織物のことを指すとされる。この説に従って直訳すれば「絹のパン」と呼ばれるものだということになる。パン・デ・ローと呼ばれる菓子は今でもポルトガルを代表する銘菓である。ポルトガル各地にさまざまなレシピのパン・デ・ローがあるが、ぜんたいに現代日本のカステラによく似ている。ただ、日本のカステラが一般に四角く長いのに対し、パン・デ・ローは円形に焼き上げるのが普通である。


 日本にいつ頃からかすていらがあったのかという問題だが、『耶蘇天誅記』という江戸時代の記録には弘治三(一五五七)年にポルトガル船で来航した宣教師が「かすていらなど」を人々に与えたという記述があり、これを信じるならば鉄砲の伝来やフランシスコ・ザビエルの来日から間もない頃にもうかすていらは日本で知られていた、ということになる。


 さて、次は宣教師が持ち込んだものや宣教師自身が作った、あるいは作らせたものではなく、日本人が自主的にカステラを作るようになったのはいつ頃であったのかという問題だ。これについては記録が残っている。最初期の南蛮商人であった村山等安という人物が、天正十五(一五八七)年、朝鮮出兵のために肥前名護屋城(現在の佐賀県唐津市)に滞在していた豊臣秀吉に対面した。彼はさまざまな南蛮料理や、かすていらを含む南蛮菓子を用いて秀吉を饗応し、その歓心を買った。この人物こそが、おそらくは日本で最初のカステラ売りであったろうと言われている。


 等安の生涯について、もう少し見ていこう。生年は明らかでない。等安は彼のキリシタンとしての洗礼名であり、本名も不明である。生誕地についてはいくつかの説があるが、確たることは分からない。ただ、少なくとも長崎の出身ではなかったらしい。要するに、氏も素性も分からない、長崎にやってきた流れ者である。


 秀吉が名護屋にやってきたとき、長崎の商人たちは「自分たちの中から代表者を選んで派遣し、ご挨拶に伺わなければならない」と考えたが、当時秀吉がキリシタンへの禁圧を強めていた頃だったので、宣教師との繋がりの強い長崎商人たちはみな秀吉を恐れ、その前に伺候することを嫌がった。そこで手を挙げたのが等安という流れ者のかすてら売りであった。彼は秀吉の前で堂々と自分は長崎の商人の代表者であると名乗り、如才なさを示して気に入られて、長崎代官なる地位を与えられた。

 長崎代官というのが具体的に何をする職分だったのかはよく分からないが、当時の秀吉は日本国の大独裁者であるから誰も文句は言えぬ。等安はもはや一介の商人などとは言えないような強大な富と権力を手にすることになった。


 等安は怪人物であった。といっても、奇行をするという意味ではない。率直に言えば、この男は悪党なのである。特にひどい女好きで、キリシタンの身にありながら多くの妾を囲って、それだけならまだしも友人の宣教師の妻に手を出したりまでしていた。当然、そんな人物である以上は人から恨みを買うが、逆に自分の敵を罠にかけて陥れ、謀殺するなどといったようなことも平然とやっている。

 しかしこれがただの悪党一途であるのならそんな人間は珍しくもなかろうが、この男はそれでいて、非常に敬虔なキリシタンでもあるのだった。この時代、まだキリシタン禁令は全国的なものではなく各地で散発的に行われているに過ぎなかったから、自分の仕える家などから追放されて長崎に流れてくるキリシタンが大勢いた。等安はそのような人々に対しては常に手厚く援助を与えた。それが出来るだけの財力もあった。彼はやがて金貸しも営むようになり、その金を貸す相手というのに諸藩大名家さえも含まれていたという。

 ちなみに秀吉の死後も、慶長九(一六〇四)年家康に会ってやっぱりかすていらを献上して、長崎代官の地位を安堵されている。それで、長崎代官の地位に満足して生涯を終えていればよかったのだろうが、彼の栄光と野望にはまだ続きがある。にわかには信じがたい話だが、地上の富を極めた等安は自らが一国の主になることを夢見、私的に十三隻からなる船団を仕立てて、高砂国すなわち台湾を征討しようと企んだのである。


「これはまことの話なのか?」


 かすてらの研究のために様々な書を買い集めて読んでいる水野安左衛門は、その一冊の中に出てきたからという理由で偶然等安のことを知ったのだが、さすがにこの話が出てきたときには心底呆れた。商人の分限を越えているとか、そういう次元ですらない。もっとも、この船団は台湾に到着することもなく嵐の前に沈んだそうなのだが。


 さて、等安の栄光はこれが最後であった。結局、末次平蔵すえつぐへいぞうなる政敵に讒訴されて長崎代官の職をついに追われた等安は、もろもろの過去の罪過に祟られて、最終的には江戸で斬首され生涯を終えた。元和五(一六一九)年のことであった。


「おれが江戸で生まれる、その前の年か。世間は狭いな」


 安左衛門はひとりごちた。

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