第12話 愛松亭再び

 八月の暑い盛りに、ようやく金之助は愛松亭を訪ねていった。今度の手土産は羊羹である。大街道の和菓子屋で買った。松山で二番目に大きな商店街であるから、菓子屋くらい何軒もある。


「ごめんください」


 と声をかけると、男が一人顔を出した。


「はい」

「わたくし、愛媛県尋常中学校で教師をしております、夏目金之助と申します。高浜虚子君の紹介で、こちらに伺いました。池内正忠氏は御在宅でしょうか」

「ああ、きよしの。正忠は私ですが、ええ、お話は伺っておりますよ」


 清というのは虚子の本名である。清をもじって虚子と名乗っているわけだ。


「我々の父は男の子ばかりを五人も儲けましてね。私が長男で、清は末っ子でした。ま、お上がり下さい」


 勝手知ったる他人の家とはこのことで、金之助は妙な気分になりながら愛松亭の玄関で靴を脱ぎ、手土産を差し出した。


「こちらは、つまらないものですが」

「ああ、薄墨羊羹ですね。ありがとうございます。いま、茶を淹れましょう。お持たせで恐縮ではありますが」

「薄墨羊羹? そうとは知らずにご用意したものですが、これはふつうの羊羹ではなかったのですか」

「羊羹は羊羹ですが、薄墨羊羹というのは松山の銘菓です」


 また松山の銘菓が出てきた。いったい、松山にはどれだけの銘菓があるのか。


「これは江戸時代には桜羊羹と言ったそうですが、ご覧ください。切ると、小豆の断面が桜の花びらのように見える。このことから、桜羊羹と申したそうです」

「桜羊羹は分かりましたが、薄墨というのは何でしょうか」

「松山の北部、下伊台町に西法寺という天台宗のお寺がありまして。そこに、薄墨桜と呼ばれる名古木が植わっております。桜羊羹が薄墨羊羹になったのは、それに由来するものです」


 なるほど。


「定行公がお考えになられた、というようなわけではないのですな」

「そうですね。時代が違います。薄墨桜は平安時代のものだと言われていますし、桜羊羹の方は江戸時代にあったとはいえ、定行公ほどにまで年代が遡るものではないでしょう」


 薄墨桜の由縁については二つの説がある。昔、天武天皇が道後温泉にやってきたというそのときのことだが、当時その皇后が病であったので、その平癒を願うため、西法寺に使者を送られた。すると無事皇后の病は癒えたので、天武天皇はこれをお喜びになり、寺に薄墨の綸旨と、桜の木を贈られた。このことから、その木は薄墨桜と呼ばれるようになったという。


 それから、もう一つの説はこうだ。平安時代、京の都に藤原良盛ふじわらのよしもりという歌人がいて、この人物が亡くなって荼毘に付されたとき、一本の桜に煙がかかった。すると、その桜は薄墨色の花を咲かせるようになったので、これを松山に運び、西法寺の境内に移し植えたものである、という。


「それで、御用件ですが。久松家に伝わる古典籍をおたずねでいらっしゃるとか」

「ええ、そうなのです。定行公にまつわる『たると』の歴史について知りたいのですが、なかなか手がかりがないもので」

「本邸の方は、現在、当主定謨が不在となっておりますが。ここにもいくらか移してある書物が御座いますから、ここにあるものでしたらご覧になっていただいて構いませんよ。短い間でよろしければ、お貸しすることもできます」

「それは有難い。御当主は御出征だそうですが、そろそろお戻りになられるのですかな? 日清戦争も終結し、二十二連隊などは既に凱旋を終えたところですし」

「いえ、それがですね。定謨はいま、台湾で軍務についております」

「台湾。ということは」


 令和の世にあってはほぼ忘れられた史実であるが、同時代にあっては新聞報道などもされていたから、金之助は知っている。日清戦争の講和締結で台湾の割譲が決定された後も、日本への帰順を拒み、抵抗を続けた勢力がこの島にはあったのである。彼らはこの年の五月に『台湾民主国』の樹立を宣言し、日本が置いた台湾総督府との間に闘争を繰り広げていた。台湾民主国の軍事力はそんなに強大というわけではなく、最初に本拠の置かれた台北は既に陥落していたが、台湾南部ではまだ戦闘が続いている。


「そうです。まあ、年内くらいには戻れるのではないか、と本人からは便りが届いております」


 そういう次第であるから、とりあえず愛松亭の一室に運び込まれた書籍というのを見せてもらった。一室といっても以前に自分が寝泊まりしていた部屋であるが、数はそれなりに多いのだが、『たると』それ自体に直接かかわる史料はここには無いようだった。定行の時代のものも、ない。ただ、長崎に関する資料とカステラの製法に関する史料がいくらかあったので、それを借り受け、金之助は愛松亭を辞した。うち一冊は、伝によれば日本で最初のカステラ商だった男、村山等安むらやまとうあんという人物の伝記に関するものであった。


「かすていら等安か」

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