第11話 漱石のカステラ

 夏休みになった。金之助の仕事も休みである。暇だからこの家の庭にも巻き藁を立てて、弓術の真似事などをしている。


「郵便です」


 今度は洋品店からではない、虚子からの手紙であった。まず子規の消息について目を通す。神戸病院の方は退院して、須磨の保養院で療養をしているという。


「須磨というと、『源氏物語』だな」


 二人で保養院から蕎麦屋に行って子規さんはわたしより多く蕎麦を食べた、などと書いてある。呆れたものではあるが、元気そうで何よりであった。虚子はこれから東京へ戻るので須磨で手紙を書いている、と記していた。それと、後回しになったが虚子の実家宛ての紹介状というのも入っている。前に会ったとき頼んでいたものであった。


「行ってみるとするか」


 人にものを頼みに行く以上は丁寧に挨拶をせねばなるまいが、手土産は何がいいだろう。近所で売っていて便利なのだが、一六の『たると』は喜ばれるだろうか? しかし、相手は地元の人間である。考えた末、安久庵の方にすることにした。カステラが売っていたので、それを包んでもらった。松山の老舗で売っているからといって、カステラまでもが松山の銘菓というわけではなかろう。


「ごめんください」


 ところが、虚子の実家であるところの池内家に、虚子の長兄、池内正忠まさただ氏の姿はなかった。奉公先に上がっているのかと思ったが、留守番の人間に訊くとそうではない、と言われる。最近、久松家で旧領の一部を買い戻したのだが、そこに屋敷があって、留守番を兼ねてそこに住んでいるという。


「では、そちらにお伺いさせていただきたい。御処はどちらですか」


 住所を聞いてたまげた。その場所というのは、愛松亭であった。


「骨董屋の主人から愛松亭を買い取ったというのは、久松家だったのか。出来過ぎた話もあったものだ」


 というわけで、今度は愛松亭を訪ねる羽目になったわけだが、その日はもう既に刻限が遅く、改めて訪問し直すには不都合である。仕方がないから家に帰った。翌日に改めて再訪するのならばカステラは今日の明日くらい日保ちがするだろうとは思われたが、晩飯を食った後、なんだか手持無沙汰で、箱を開けて自分で食べてしまった。実はカステラは大好物なので、だから買ったようなものではあるのだが、それにしても、何をやっているのだ俺は。世の中というのはままならぬものだ、と金之助は思った。そして翌日になった。


「道後にでも行くか」


 昨日行った菓子屋でまたカステラを買うのも妙な気分だ。別の店に行くのも業腹だ。紹介状は置いてあっても腐るものでなし、また後日でもいいだろうと思い、道後までの道を歩く。道すがら、路上では工事が行われていた。金之助も土地の新聞を読んでいるから知っているが、道後へと至る路面電車がまもなく開通するのである。予定では夏の終わり頃だ。そうなれば、道後温泉へ行くのは今よりもうんと楽になるだろう。それを楽しみに思いながら、金之助はてくてくと歩いて行った。

 ちなみにその日、温泉の三階で出た菓子はしょうゆ餅であった。あのげらげらと笑う見合い相手の顔を思い出し、金之助はまた複雑な気分になった。

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