第10話 愚陀仏庵

 虚子が訪ねてきた次の日曜に、金之助は下宿を引っ越した。上野うえのという士族の老人の家の離れ、二階建てである。一回に六畳と四畳半、二階に六畳と三畳。これをまるごと全部借りた。つまり下宿とはいうが、一軒家に住み始めたも同然である。広いので満足であった。庭には井戸と物置もあり、蜜柑に夾竹桃、紅梅と南天が植わっていた。贅沢といえば贅沢だが、実際高給取りである以上はそれなりに名士然とした暮らしをしていないと田舎の者たちに馬鹿にされるのでやむを得ない、と本人は思っている。


「今日から、ここを愚陀仏庵ぐだぶつあんと称しよう」


 と勝手に決めて、金之助はいい気分であった。愚陀仏というのは金之助が使っていた俳号である。夏目漱石といえば令和の世には小説家として知られた存在であるが、この当時の彼はまだ小説などまったく書いたことがなく、その代わりに句作をした。師匠は正岡子規だというのだから立派なものである。そう、金之助はほぼ同い年の子規を、俳句の道においては師と仰いでいたのだ。子規の方も、根が尊大であるので大きな顔をしてはばからなかった。金之助は子規について、「およそ何でも大将面をしたがる男」と評したことがある。


 こんな話が伝わっている。学生時代、金之助が子規に俳句を習い始めたばかりの頃のことだ。金之助が句作をしてそれを見せると、子規はそれをすぐに直したり、丸をつけたりする。それはまあ俳句の名人のやることだから良いのだが、金之助が漢詩を書いて見せると、それにも筆をとって直しを入れたり、丸を付けたりした。金之助は今度は英文をつづって書いてみせた。金之助は英文科、子規は国文科である。さすがにこれは歯が立たないので、子規は一言「Very good」と添え書きをして返した、という。


 愚陀仏庵に住み着いて二週間、金之助のところに葉書が届いた。いちど愛松亭の方に行ってしまったものが、回送されてきたのである。いつぞやフロックコートをオーダーした、湊町の洋品店からであった。その日は法事で出かける用事があったので、その帰りに取りに行った。日曜日なのだが、この日は温泉に行っている時間的余裕はなかった。安久庵にも寄らなかった。


 その翌日、つまり月曜日であるが、日清戦争に行っていた第二十二連隊が凱旋して戻ってくるので、中学校の生徒たちを引き連れ、その歓迎を行うことになった。場所は八丁畷の街道筋である。金之助は夏だというのにフロックコートを堂々と着込み、山高帽を被って、すまして歩いた。生徒たちから「ブラボー」などと声がかかる。前に「鬼瓦」というあだ名を付けられて憤慨したことのある金之助としては、鼻の高い思いであった。


 それはよかったのだが、無事に軍人たちの帰還を見届けて中学校に戻るその帰り道、騒動が持ち上がった。金之助らの率いている中学校の生徒たちと、愛媛県師範学校の生徒たちの行列同士で、どういう次第か喧嘩騒ぎが始まってしまったのである。


「おい、こら、やめんか! おい、押すな! 落ちる!」


 金之助ではないが、同じ英語担任の山口やまぐちという先生が乱闘に巻き込まれ、田んぼに転落して怪我をした。巡査が出動してくる騒ぎとなり、生徒数人が警察署まで連れていかれた。金之助自身は事情聴取などに呼び出されることはなかったが、翌日の新聞に自分たちのことが載っていたのは閉口の次第であった。


「今度は騒ぎを起こすなよ」

「分かっているぞな、夏目先生」

「本当に分かっているのか?」


 騒動の次の日曜日に凱旋式が挙行された。今度は田んぼの真ん中ではない、第二十二連隊の営内、練兵場で祝賀会を兼ねたセレモニーが催された。日曜日とはいえ、生徒たちも教員一同も参列である。出し物として開かれた演芸大会では松山に伝わる「伊予万歳」と「花取踊」、二つの舞が披露された。花取踊は剣舞の一種である。伊予万歳の方は松山の祭礼には欠かせないもので、かつて定行公が正月行事のために万歳太夫なる者たちを藩内に招き、踊らせたのが始まりであるという。場は大いに賑わった。


「松山のどこから、こんなに人が出てきたんだ」


 と金之助は思った。この日は喧嘩騒ぎは持ち上がらなかった。

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