第9話 久松家の末裔
「たるとの由緒と来歴、ですか?」
「そうだ」
「それは、定行公ですよ。定行公が長崎で召し上がったカステラをいたく気に入られて、その製法の教えを佐賀藩の方々に請うて、松山に持ち帰ってたるとを御考案になられたのです」
「なるほど、君はその説か。いやぁ、人によってまったくディテールが違うので参るね」
「これ以上、詳しい話がお知りになりたいのですか。何しろ二百五十年の昔のことですからね」
「うむ。やはり古典籍を当たるしかないだろうか、と思っている。しかし、何処を尋ねたものか」
ちなみにこの当時、まだ愛媛県には一ヶ所も図書館というものがない。
「それなら、やはり久松家をお訪ねになるのが一番では?」
「久松家というのはまだあるのか?」
「あります。現在の御当主は、久松
久松定謨はこの時点では陸軍中尉である。ちなみに定行の直接の子孫ではなく、定行の弟が立てた分家の家から養子に入り、久松宗家を継いでいる。
「伯爵か。気軽に訪ねていけるというものでもないな、それは」
「まあ、いずれにせよ伯爵はいま松山にはおられません。日清戦争で出征され、まだお戻りではないので」
「よく知っているね」
「ええ。何しろ、実は」
と、虚子は切り出した。
「わたしの兄が久松家で用人をやっているのです。当然、わたしのところにも御動静は伝わって参ります」
高浜虚子の実家、
「と、いうことは」
「ええ。よければ兄宛ての、紹介状をお書きしましょう」
「ありがとう。ところで、今日は日曜だから、これから道後へ行こうと思う。君も一緒にどうかね」
小説『坊ちゃん』では主人公の坊ちゃんが毎日「住田」の温泉に通っていることになっているが、実際のこの頃の金之助はといえば、道後温泉へは週に一度ばかり通う程度であった。といって、別に上等の料金八銭が惜しいからではない。学校帰りに歩いていくには、ちょいとばかり遠いのである。
「お申し出は嬉しいのですが、帰りの船の時刻がありますゆえ、そろそろお暇を乞わねばなりません。紹介状の方は、後日新しいご住所の方へお送りいたしますので」
「そうか。よろしく頼むよ。ではご機嫌よう」
というわけで、金之助は一人で道後へ行き、上等の八銭を払って汗を流した。小説『坊ちゃん』では、坊ちゃんが湯船で泳ぐものだから『泳ぐべからず』の看板が立てられたという話になっているが、実際の金之助は温泉で泳ぐなどというみっともない真似をする性質の人間ではなかった。そのあたりは、虚子が見抜いた通り、根が上品で、取りすました性分なのであった。
「今日は団子か」
天目の茶碗で茶を飲んで、金之助は今日もいい気分である。
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