第8話 虚子と漱石
金之助が中学校教師として赴任するより三年前にも松山を訪れたことがあるという話は前にしたが、実は高浜虚子はその際に金之助と会っている。当時虚子は中学生で金之助は大学生、それが二人の初対面であった。
その場所というのは子規の実家であったらしい。子規の母が松山鮓を作って、子規を交えた三人はそれを食べていた。松山鮓というのはその名の通り松山の郷土料理で、握りではなくちらしの寿司である。もぶり鮓とも言う。エソ、トラハゼなどといった近海で獲れる瀬戸内の小魚から出汁を引いて合わせ酢を作り、それを寿司飯として、刻んだアナゴや季節の野菜などを混ぜ込む。ちなみに、松山の言葉で混ぜ込むことを「もぶす」という。そして錦糸卵をちらし、季節の魚介を盛り付けて完成である。子規にとっては懐かしき郷里の味であり、これについて詠んだ句が残っている。
ふるさとや 親すこやかに 鮓の味
金之助も、松山鮓を食したのはこの際が初めてだったろうと思うがよほど気に入ったらしく、松山で中学校教師を始めてからも、しばしばこれを喜んで食べていた。
さて、虚子についてである。金之助と初めて会ったとき、まだ子供であった虚子は既に大人びた文学者の風格を放つ二人の前に萎縮し、あまり言葉を発することもなかった。ただ、金之助すなわち夏目漱石と、そして正岡子規と、明治の二大文人の二人を前にして、その人柄の差に強い印象を受けていた。というのは、子規はまさに磊落放胆、和服姿にあぐらを組んでぞんざいに鮓を喰らうのに対し、漱石という人は几帳面に折り目正しく正座をし、鮓の乗った皿を手に取って、一粒もこぼさぬようにと行儀正しく食べるのである。
その後、虚子が二度目に金之助に会ったのは彼が松山暮らしをしていたその初夏の頃、具体的にいえば明治二十八(一八九五)年六月三十日のことである。この頃、子規はまだ神戸病院に入院している。子規の老母がその病院まで見舞にやってきたのを松山に送り戻すため、虚子も一時帰省をしたのであった。虚子に、金之助のもとを訪れるようにと勧めたのは子規である。もらった手紙に返事を書ける状態ではないから、自分の病状の報告もしておいてくれ、と言われた。
当日は日曜日なので、金之助は日常の習慣通り、愛松亭の庭にある矢場で弓を引いていた。下宿のかみさんに「夏目の先生なら裏におられます」と言われた虚子はそこに行って、来意を告げた。三年前に会ったことを金之助が覚えているとは思わなかったから、初対面のつもりで挨拶をした。すると、返事はこうであった。
「虚子君か。無沙汰をしたね。ちょっと待ってくれ、あと一本、矢が残っているから」
そう言って、きりりと引いてはっしと放つ。矢は見事に……的から外れた。他の矢も、ぜんぜん当たっていなかった。夏目漱石の実家は名主の家である。武家ではない。彼は別に幼少期から弓術を仕込まれていたわけでもなんでもなく、大学時代に友人から勧められてちょっとやってみたことがある、というだけであった。ただ、たまたま下宿に入った先が武家屋敷の跡地で矢場なんてものがあったから、手すさびにこんなことをしていただけの話である。それから漱石はちゃちゃっと矢場を片付け、小走りに虚子のところへ駆けてきた。そんな所作にもやはり嫌味がない、上品な人物である、と虚子は思っているが、金之助はそんなことは知らない。
「失敬した。お待たせ」
かみさんが茶と菓子を出してきた。虚子は愛松亭の二階、金之助の寓居に腰を下ろし、子規の容態について詳しく話をした。
「そうか。そんなに悪かったのか」
「ええ。医者に、今夜悪くするといかんかもしれない、といったようなことまで言われまして。申し上げた通り、現在は快方に向かっておられますが」
「それは誠に安心」
「元気になったら、いちど松山の方にも顔を出す、と言っておられました。こちらを訪ねてこられるかと思いますので、その際は」
「ああ……それなんだが。この下宿は、移ることになったんだ。敷地と建物ごと、人手に渡るそうでね」
「そうなのですか。転居先は、もうお決まりで?」
「ああ。二番町の八番に下宿を借りた。子規さんにもそう伝えておいてくれ」
「分かりました。大街道の近くですね」
「そうだ」
大街道というのは商店街の名である。松山市内で湊町の次に大きく、湊町の東側を南北に延びている。
「ちなみに、この菓子だが」
「はい?」
「大街道の、新居のすぐ近くの菓子屋で贖ったものだ」
「ああ、
「やはり知っているか」
「一六は、わたしが子供の頃にできた店ですよ。いまも繁盛しているようですね」
一六たるとの一六本舗は、明治十六年に創業したことからこの名がある。
「安久庵のような老舗ではないのだな」
「ええ。老舗でなくても味はよいですが」
実は、と、もったいをつけて金之助は切り出した。
「たるとの由緒と来歴について知りたいんだ。誰に聞いても、よく分からなくてな」
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